おのれの心に地獄を見出す者は幸いである

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

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 ユング心理学者の河合隼雄さんは、「おのれの心に地獄を見出し得ぬ人は、自ら善人であることを確信し、悪人たちを罰するための地獄をこの世につくることになる」と書いている(「影の現象学」,p.169)。
 この言い方を借用するなら、イエスの上の聖句は、おのれの心に地獄を見出す者は幸いであるという趣旨と言っても差し支えがないと思う。
 「悪人たちを罰するための地獄をこの世につく」っているのは、福音書の時代ではパリサイ人、律法学者たちであり、彼らは自分たちは律法を守り教える善人だと思いこんでいる。だが、こういう人たちが自分の内面の地獄に目が向くことはまれで、さらに言えば、その内面の地獄から外側に目をそらすために他人様を罰しているところがあるはずで、何が善人だという気がしてくる。イエスがこの山上の説教の中で、聴衆に向けてたとえば「信仰の薄い人たち」(6:30)、「あなたがたは悪い者」(7:11)と呼びかけているが、それはどうしてなのだろうか。
 そうすると、おのれの心の中の地獄を見つめてはのたうち苦しむ人こそ幸いなのであるが、その理由は先に挙げた河合さんとは異なっていて、こういう人こそが神を見出し救われるからである。復活のイエスはこういう人のもとを訪れて戸を叩く。

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 イエス様の平安がありますように!

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