こっぱみじん

 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)

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 山上の説教の最後。

 イエスが仰るように、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行」ってみよう。
 どこまで行うことができるか。
 もしできたら、それは「岩の上に建てられていた」家になる。

 どこまでも試みていって、そうしてどうしても出来ない、という地点にまで追いつめられたときに、暴風雨と洪水の前にあっけなく倒れる。
 それも、こっぱみじんにひどく倒れる。

 鉄壁の家は、律法を完璧に守り仰せたときの、文字の上に建つ安心感だ。
 自分はどの条文にも全く抵触しておりませんゆえ、神がお認め下さいます、まあ、そのようなものだろうか。
 もしそうであるならば、イエスの十字架は、その人には無関係だ。

 イエスの十字架というのは、人間イエスの肉がこっぱみじんに倒れてしまったと形容できる。
 人間が持つその罪深い「肉」( human nature )を、代わりに処罰してくださったのである。そして、その処罰が認められてイエスは復活する。
 このイエスを信じるならば十字架の意味が明瞭になり、罪赦されて「いのち」を得る。

 文字で出来た鉄壁の家にこもるのではなく、自身が生ける神の宮(2コリント6:16)そのものになるのである。
 そのためには、山上の説教の行いをとことんやってみた末、できないと分かってこっぱみじんに砕け散る必要がある。

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