キリストの権威

 「イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」
 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。
 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」(マタイ8:5-10)

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 百人隊長のしもべを癒す記事。
 百人隊長というのは、今風に言うと小隊長といったあたりか。

 百人隊長は、百人の上に立つ。
 彼が部下に「行け」と命ずれば、その部下はきびすを変えて行く。
 彼が別の部下に「来い」と命ずれば、その部下は、やはりきびすを変えて彼の下に来る。
 なぜ部下達は、かくも言うことに従うのだろう。
 それは、この百人隊長よりも更に上の者(多分、千人隊長)から、権限を与えられているからだ。
 そして、この百人隊長もまた、千人隊長の命令には従うのである。
 だからこの百人隊長は、「行け」とか「来い」という言葉の権威をよく知っていた。
 ただ自分の言葉というのは、それに従わなかったら鞭と牢屋が待っているということが権限の源泉であるにすぎない。

 「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから」とイエスに願う百人隊長。
 イエスの言葉だけを願う。
 イエスはキリストであり、そのキリストの言葉であれば、権限の源泉など問うまでもなく、万物が従う、そう信じているから、イエスに言葉だけを願う。

 そのような信仰に、イエスは驚く。
 そして仰る。
 「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません」。
 いや、なんのことはない、イエスをキリストと信じているという以上のことではない。
 ただ、そのキリストの(言葉の)権威ということを、この男ならではの理解でイエスに言い表した。
 そしてその理解は、その通りだ。
 キリストはあらゆる権威の源泉である。
 イエスの言葉は、いともたやすく中風のしもべをいやしてしまう。

 この百人隊長の単刀直入な信仰は、イスラエルでごく普通に見られる「信仰」とは全く違っている。
 そして、百人隊長の信仰が、イエスを驚かせた。

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