イエスの癒し

(1)
 「この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。
 悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。
 群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。
 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。」(マタイ9:32-34)

(2)
 「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:20-22)

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 イエスは、病人、皮膚病の人、目や口や耳の不自由な人、さらに悪霊につかれた人々をお癒しになった。
 それは、かれらをかわいそうに思ったというのもあるだろうけれども、それよりも、キリストが来られたということを明確に知らせるためだろう。
 すなわち、癒しそのものが福音の知らせである。

 癒しを見た群集は驚く。
 「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」。
 「こんなこと」、それは一体何を意味するのか、群集には結びつかない。

 そんな状況に、さしものイエスも憤るのである。
 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」
 ツロやシドンといった昔の町々は、イエスの癒しを見てはいない。
 一方、コラジンやベツサイダ(の人々)は、イエスの癒しを見て驚嘆する。
 ところが、驚嘆するだけで何一つ悟ることがない。
 荒布をまとって灰をかぶり悔い改めることがない。
 キリストが、今ここにおられるというのに。
 それで、イエスは人々の頑なさに憤っている。

 救いが今、ここにやってきたというのに、そのことに全く気付かない。
 それはあまりにも明らかであるのにもかかわらず、認めようともしない。
 復活のイエス・キリストは、今も風が吹くように、様々な人を訪れている。
 それがキリストの到来だと分かる人の方が、幸いなのだろう。
 そのときそうと分かるために、聖書という書物がある。

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