『いのち』の聖書

 「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」(ヨハネ21:25)

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 ヨハネ福音書の最終行。

 ヨハネ福音書、また新約聖書全体に書かれていない「イエスが行なわれたこと」は、それはそれは膨大だろう。
 もしそれを書くとなれば、地球を7周半してまだまだ果てなく長い巻物になってしまうに違いない。
 だが、書かない。
 書きたいこと、伝えたいことというのは僅か、いや、たった一つだからだ。
 そのたった一つのことを伝えるためだけに、この分厚い新旧約聖書がある。

 その一つというのは、「いのち」。
 「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。」(ヨハネ12:50)
 神によって、この「永遠のいのち」を下さったのがイエスである。
 そのイエスについて、新旧約聖書が書かれている(「その聖書が、わたしについて証言しているのです」ヨハネ5:39)。

 ではどのようにしてその「いのち」を下さったのであろうか。
 神がアダムの肉をまとい、そして罪深い人々の身代わりに最高刑たる十字架に架かって死に、三日目によみがえるということによってだ。
 神はアダムの肉の罪深さを、イエスの十字架と復活によって、赦された。
 この神の赦しが、「いのち」の源泉だ。
 このことが、聖書の中には繰り返し繰り返し、手を変え品を買え書かれている。
 果てもなく長い巻物に書き連ねるまでのことは、ない。


 なお、ほんじつ引用したヨハネ21章は、後で誰かが書き足したものだという有力説があり、私もそうだろうと思っている。
 20:30-31で話を閉じているのに、続いて21章が来て、再度話を閉じる形になっている不自然さが、有力説の根拠だ。

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