「『信じる』と『信じる』

 「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
 あかしするものが三つあります。
 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。」(1ヨハネ5:6-10)

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 「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています」。
 キリスト・イエスを信じているのは、「このあかし」を持っているからだという。
 「このあかし」とは何であろうか。
 「人間のあかし」などではない。
 人間のあかしに遙かにまさる神のあかしは、それこそ御子をあかししている。

 「あかしするものが三つあります」。
 「水」とは、バステスマのヨハネのそれ。
 「血」とは、イエスの十字架。
 イエスの公生涯は「水」に始まり、「血」で終わる。
 そしてこのイエスが神の御子であるということを、御霊があかしする。
 これが、上に書いた「神のあかし」である。

 「信じる」ということばは、広範な含みを持っている。
 例えば私は、10年後も今の生活とおんなじであろう事を、何の根拠もなく、しかし何の疑問も抱くことなく信じている。
 株の売買をする人というのは、それで儲かるのだと信じて商いするのだろう。
 あるいは、「あの人を信じる」。
 はては、来シーズンは鹿島アントラーズが優勝すると信じるとか。
 まだまだ挙げることが出来るのだろうけれども、これらの膨大な「信じる」は、「神のあかし」によってイエスを信じるのとは、全く異なる。
 前者は、人間的思考、あるいは「人間のあかし」によって妥当性を見いだしたということ以上のものではない。
 それに対し後者は、「水」、「血」そして「御霊」をいやが上にも刻み込んで下さる神の力に依る。

 言い換えると、イエスを信じるということは、ただ神の恵みによって初めて産声を上げるものである。
 だから信仰というのは、サッカーチームのファンクラブに入るようなものとは全く異なる。

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