キリストの尊い血

 「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18-19)

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 パウロが理詰めで話を進めてゆくのに対して、ペテロはワンフレーズで正鵠をずん、と突いてくる(他にも例えば1ペテロ1:3。こちら)。
 恐るべし、ペテロ。

 「キリストの尊い血」は、「先祖から伝わったむなしい生き方」を一変させる。
 表だっては、その「生き方」というのは何一つ変わらない。
 そいつがしょうがないやつだったなら、キリストの尊い血によっても、相変わらずしょうがないやつのままだ。
 ただ、その人の奥の、そのまた奥、コアの部分が瞬時に入れ替わる。
 そのことをペテロは、「贖い出された」と書いている。

 この贖いというのは、カネでどうなるものではない。
 人々とのコミュニケーションや助け合いも、こと贖われることに対しては全く無力である。
 膨大な書物を読破しても、全く無意味だ。
(へんなことを書くようだが、聖書は書物とは違うと思う。)
 金銀は朽ち果て、人も朽ち、書物すら現存するものの方が寧ろ稀で、燃えたり虫が食ったりして朽ちてゆく。
 そういった「朽ちる物」によっては、コアは変わりようがないのだ。
 「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血」によってのみ、このコアが入れ替わる。
 もちろんその血にしても、札束やコネや勉学で手に入るものではない。

 傷一つない子羊。
 律法を完全に守り通した汚れなき子羊。
 そのお方が十字架に架かっていけにえとなり、血を注いだ。
 この血は見えない。
 見えないのだが、降りかかる人には降りかかる。そして、コアがいれかわり「いのち」というものへと変化する。

 上に書いた「しょうがないやつ」は、自分でそのどうしようもなさに心底気付いたときに、見えない血が降り注がれて「いのち」が与えられるチャンスを得る。
 その点、自分は品行方正だと思っているパリサイ人は、救いようがない。

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