死人が生きるとき

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」(ヨハネ5:24-26)

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 「死からいのちに移」る。
 「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きる」。
 では、「いのちに移る」、「生きる」とは、どういうことであろうか。

 365日いつもほがらかで、いつも楽しい。
 気分がいいので、いつも神への讃美が絶えない。
 病にもかからず、苦労知らずだ……。

 これは実は、「生」の方ではなく、むしろ「死」だ。
 「死」の様相は、もっと他にもあると思うが、上に書いたようなものは、「死」の最たるものだろう。
 見捨てられた、とさえ言ってもいい。

 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」(ヘブル12:5-8)

 そういうわけで、「懲らしめ」、試練の類は、「いのち」を与えられた「わが子」の特権といってもいい。
 「いのち」に移っている者には、神がその愛する子に訓練を課す。
 彼は「死人」と違ってたくましいので、忍耐することができる。
 その訓練とは、彼を御国によりふさわしい者とするために施されるものだ。
 この世を渡りやすくするためのものではない。

 ふつうならば「365日いつもほがらか」の方がいいと思うだろう。
 それも含めて、みな「死人」だ。
 「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」
 イエスの御声が聞こえると、生き返り、価値観が反転する。
 「いのち」の素晴らしさが、「いつもほがらか、苦労知らず」の価値観をはるかに上回ってしまう。
 なにより、「さばきに会うことがな」いという、大きな安心感のもとにある。
 だから、自身について力強くあることができる。

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