悲しみと喜び

 「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(1ペテロ1:6-9)

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 この世には種々雑多な試練がある。
 それで悲しみを避けることはかなわない。
 私たちは、悲しんでいる。
 しかし、悲しんでいながらも、喜んでいる。
 大いに喜んでいる。
 見たことのないイエスを愛することのできる喜び。
 今は見えない約束を信じてやまないことの喜び。
 ペテロは言う。「これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」。
 たましいが救われたから、悲しいのに、こんなにも喜んでいる。

 試練の中での悲しみは、純金よりも値打ちがある。
 その悲しみが、「称賛と光栄と栄誉に至るもの」であることが分かっているからである。
 たましいが救われたゆえんである。

 この救いを与えるために、イエスは私のところへ来なさいと、絶えず手招いている。

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