野のゆりの美しさ

 「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」(マタイ6:28-30)

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 必要なすべてのものは、神から与えられる。
 力ずくで奪う類のものではない。
 もし与えられないものがあるとしたら、それはもとより必要ではなかったのだし、今後も全く不必要だろう。
 野のゆりは、ただ神から与えられたものによって、花開いている。
 あすは捨てられてしまうであろうことも、ゆりは織り込み済みだ。
 だからこそ、神はゆりを「これほどに装ってくださる」。

 ソロモンの栄華というのは、イエスによると、このゆりの美しさには遠く及ばない。
 このソロモンの栄華というのは、自分の力で奪うことによって成り立った。
(ソロモンについては、こちらに書いた。)
 イエスの口から「栄華を窮めたソロモン」と出たら、そのニュアンスはひどく否定的だろう。
 ソロモンの栄華というのは、ソロモンの手(手腕)によるものだ。
 それに比べれば、どの野のゆりも美しいのは、ただ神のみが関与しているからだろう。

 そうすると、なぜ「着物」のことで心配するのだろう。
(「  」の中身はなんでもいい。)
 必要なものの全ては、ただ神が与えてくださる。

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