イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
そうであっても
「まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。
私の年もまた、嘆きで。
私の力は私の咎によって弱まり、
私の骨々も衰えてしまいました。
私は、敵対するすべての者から、非難されました。
わけても、私の隣人から。
私の親友には恐れられ、
外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
私は死人のように、人の心から忘れられ、
こわれた器のようになりました。
私は多くの者のそしりを聞きました。
「四方八方みな恐怖だ。」と。
彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、
私のいのちを取ろうと図りました。
しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
私は告白します。「あなたこそ私の神です。」(詩31:10-14)
---
ダビデの賛歌。
ダビデの生涯については史書をご覧頂くとして、いつもサウル王に追いまとわれ、イスラエルの王となってからも裏切りに遭ったりと、波瀾万丈の生涯を送った。
その波瀾万丈の生涯を支えたのが神への信仰で、ダビデはたくさんの詩を残している。
上の詩も、そのひとつ。
四方八方が行き詰まったかのような詩だ。
そうであってもダビデは言う。「あなたこそ私の神です」。
しばしば耳にするのが、ひどい境遇に置かれたとき、なんで神はこんな境遇に置くんだ、神なんかいるものか、というもの。
これは発想が逆さまで、神は自分の幸福のため「だけ」に存在し、そのような神だから信じる、というものだ。
これを御利益の神という。要は偶像だ。
「いない神」なので、そのような「神」によりかかっても、たしかにひどいだろう。
神が全世界を司っているので、ダビデが四方八方行き詰まっても、それすら神がなされたことで、何かしらの意味と意義がある。
それでダビデは、そうであっても「あなたこそ私の神です」と言ってはばからない。
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私の年もまた、嘆きで。
私の力は私の咎によって弱まり、
私の骨々も衰えてしまいました。
私は、敵対するすべての者から、非難されました。
わけても、私の隣人から。
私の親友には恐れられ、
外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
私は死人のように、人の心から忘れられ、
こわれた器のようになりました。
私は多くの者のそしりを聞きました。
「四方八方みな恐怖だ。」と。
彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、
私のいのちを取ろうと図りました。
しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
私は告白します。「あなたこそ私の神です。」(詩31:10-14)
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ダビデの賛歌。
ダビデの生涯については史書をご覧頂くとして、いつもサウル王に追いまとわれ、イスラエルの王となってからも裏切りに遭ったりと、波瀾万丈の生涯を送った。
その波瀾万丈の生涯を支えたのが神への信仰で、ダビデはたくさんの詩を残している。
上の詩も、そのひとつ。
四方八方が行き詰まったかのような詩だ。
そうであってもダビデは言う。「あなたこそ私の神です」。
しばしば耳にするのが、ひどい境遇に置かれたとき、なんで神はこんな境遇に置くんだ、神なんかいるものか、というもの。
これは発想が逆さまで、神は自分の幸福のため「だけ」に存在し、そのような神だから信じる、というものだ。
これを御利益の神という。要は偶像だ。
「いない神」なので、そのような「神」によりかかっても、たしかにひどいだろう。
神が全世界を司っているので、ダビデが四方八方行き詰まっても、それすら神がなされたことで、何かしらの意味と意義がある。
それでダビデは、そうであっても「あなたこそ私の神です」と言ってはばからない。
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