イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
わたしは渇く
「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)
---
十字架のイエスを描写する箇所。
この箇所について、2006年9月22日に「十字架について今思うところ」という記事を書いた(こちら)。
今読み直すと、お恥ずかしい限りだ。
さてイエスは常々、人々にこう呼びかけてきた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
渇ききっている人々に呼びかけ続け、枯れない水が内から流れ出ることを保証した。
そのイエスが、満ち満ちていてそれを分け与えることのできるイエスが、十字架の上でこう仰った。
「わたしは渇く」。
十字架の上で、イエスはこころの飢え乾きを覚えられた。
人々が抱えているこころの飢え乾きと同じものだ。
今、神が死のうとしている。
あくまでアダムの肉をまとった人間として、死に往こうとしている。
それは、そのアダムの肉自体を処罰するためだ(ローマ8:3)。
そのことが、人を救い渇きを癒す。
その処罰が「完了」して、肉としてのイエスは死ぬ。
そしてイエスの復活は、そのアダムの肉を処罰してなお生きるということ、このことの初穂、また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とイエス御自身が仰ったことの成就である。
神であられるイエスは、人として死ぬ間際に、人間の味わう様々な辛さを実体験しておられる。
「私は渇く」は、その最たるものだろう。
だからこそ、イエスは人間の弱みを、我が身を持ってご存じであられる。
(「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」ヘブル2:18)
イエスは、人間の渇きを実体験してご存じの上で、今も「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と呼びかけている。
その道はイエスによって、既に切り開かれている。
---
[付記]
本日の記事は、2007年12月6日の記事に加筆修正を施したものです。
もうしばらくデフラグ作業が続きそうです。
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そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)
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十字架のイエスを描写する箇所。
この箇所について、2006年9月22日に「十字架について今思うところ」という記事を書いた(こちら)。
今読み直すと、お恥ずかしい限りだ。
さてイエスは常々、人々にこう呼びかけてきた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
渇ききっている人々に呼びかけ続け、枯れない水が内から流れ出ることを保証した。
そのイエスが、満ち満ちていてそれを分け与えることのできるイエスが、十字架の上でこう仰った。
「わたしは渇く」。
十字架の上で、イエスはこころの飢え乾きを覚えられた。
人々が抱えているこころの飢え乾きと同じものだ。
今、神が死のうとしている。
あくまでアダムの肉をまとった人間として、死に往こうとしている。
それは、そのアダムの肉自体を処罰するためだ(ローマ8:3)。
そのことが、人を救い渇きを癒す。
その処罰が「完了」して、肉としてのイエスは死ぬ。
そしてイエスの復活は、そのアダムの肉を処罰してなお生きるということ、このことの初穂、また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とイエス御自身が仰ったことの成就である。
神であられるイエスは、人として死ぬ間際に、人間の味わう様々な辛さを実体験しておられる。
「私は渇く」は、その最たるものだろう。
だからこそ、イエスは人間の弱みを、我が身を持ってご存じであられる。
(「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」ヘブル2:18)
イエスは、人間の渇きを実体験してご存じの上で、今も「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と呼びかけている。
その道はイエスによって、既に切り開かれている。
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[付記]
本日の記事は、2007年12月6日の記事に加筆修正を施したものです。
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