苦しみののちの完全

 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」(1ペテロ5:10-11)

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 世界はすべて、神の御支配の下にある。
 その神は、「あらゆる恵みに満ち」ておられる。
 どれくらい恵み豊かなのかというと、キリストの十字架という「しばらくの苦しみ」の下に私たちを置かれるほどだ。

 神の子・キリストは、十字架の苦難に遭われた。
 苦しみの期間は短かったが、文字通り苦難であった。
 この苦難は、私たちのためにキリストが受けたものだ。
 私たちのために、というのは、道なきところにキリストが道を切り開いてくださって、私たちがその後をついて行けるようにして下さったからだ。
 この道こそ、十字架の道である。

 私たちが十字架に架かることは、ありえない。
 また、何もしないで絞首刑等に処せられるということも、ない。
 だが、恵まれた人は、キリストの十字架の苦しみ、あの狭い道を通る。
 その期間は長い。少なくともキリストよりはるかに長い。
 アウグスティヌスは一体どれだけの期間、苦しみ抜いたことだろうか。
 そのアウグスティヌスにとっての「とどめ」は、ロマ書13:14。
 彼はこの聖句を、100回は読んでいただろうが、ほんとうに入った、分かったのは、苦しみが頂点に達した時の101回目だ。
 彼のこの道程こそ、「自分の十字架」を全うするということだ。
 キリストが切り開いた狭き道を、アウグスティヌスは無事通り抜けた。

 キリストは十字架に死に三日目に復活する。
 それと同様に、狭き道を通る苦しみの後には、「完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者」といった類の、ある種の変容がある。
 外形上、表面上は、ものの見事に何の変化もない
 しかし、決定的に異なる変化がある。
 「いのち」の有無だ。
 たしかにそれは、ある地点に堅く立っており、タフで、そして不動だ。
 イエスは、この「いのち」を与えるために十字架に死に復活された。

 苦しみを通り抜けたところにこそ「いのち」がある、ということ。
 その苦しみは短くはない、ということ。
 その苦しみを自分の十字架として、きちんと背負うということ。
 先が見えないようだがゴールがきちんと用意されていることは、イエスが御自身の歩みをもって教えて下さっている。
 この狭き道を見いだすということは、ただ神の恵みによる。

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[付記]
 本日の記事は、2007年8月5日の記事に大幅に手を加えたものです。
 デフラグ作業は続きます。

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