イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
自分の十字架
「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)
---
「自分の十字架」とは何か。
随分前の私は、「課せられた役割」というような意味のことを書いたはずだ。
割と最近の私は、「役割とは違うような気がする」とだけ書いた。
「自分の十字架」、これは文字通り、それを背負ってゴルゴダの丘に登り、それにはりつけにされて死ぬ、そういう意味ではなかろうか。
これは自死するという意味では全くない。
また、殺されたり、また病死するという意味とも、全く異なる。
「わたしのためにいのちを失う者」になるべくイエスの道をなぞるために与えられた、正に死するがための十字架だ。
ちなみに、殉教とかいう意味でも、全くない。
「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
自分の十字架は、いのちを「見いだす」ためのものなのだった。
それはイエスが死んで復活したのと全く同じことだ。
そのイエスは「ついて来なさい」と仰る。
このイエスは誰をも拒まない。
そしてイエスは、約束の「いのち」を与えてくださる。
ただ、そのためには一度「死ななくてはならない」。
この死には、神が働かれるものである。自分の意志や他人の意志によってでは、ない。
そしてイエスがそうであったように、復活して「いのち」にあずかる。
その人は一見、何の変化も見られないのだが。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」とあるように、「生きているようで実は『いのち』のない人」というのがたくさんいる。
それでイエスは、「まことのいのち」を与えるためにこの世に来られた。
だから、「自分の十字架」の重みを感じる人は、幸いだと思う。
---
[付記]
本日の記事は、2007年7月23日の記事に若干の修正を施したものです。
デフラグ作業も、もう少しです。
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いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)
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「自分の十字架」とは何か。
随分前の私は、「課せられた役割」というような意味のことを書いたはずだ。
割と最近の私は、「役割とは違うような気がする」とだけ書いた。
「自分の十字架」、これは文字通り、それを背負ってゴルゴダの丘に登り、それにはりつけにされて死ぬ、そういう意味ではなかろうか。
これは自死するという意味では全くない。
また、殺されたり、また病死するという意味とも、全く異なる。
「わたしのためにいのちを失う者」になるべくイエスの道をなぞるために与えられた、正に死するがための十字架だ。
ちなみに、殉教とかいう意味でも、全くない。
「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
自分の十字架は、いのちを「見いだす」ためのものなのだった。
それはイエスが死んで復活したのと全く同じことだ。
そのイエスは「ついて来なさい」と仰る。
このイエスは誰をも拒まない。
そしてイエスは、約束の「いのち」を与えてくださる。
ただ、そのためには一度「死ななくてはならない」。
この死には、神が働かれるものである。自分の意志や他人の意志によってでは、ない。
そしてイエスがそうであったように、復活して「いのち」にあずかる。
その人は一見、何の変化も見られないのだが。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」とあるように、「生きているようで実は『いのち』のない人」というのがたくさんいる。
それでイエスは、「まことのいのち」を与えるためにこの世に来られた。
だから、「自分の十字架」の重みを感じる人は、幸いだと思う。
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本日の記事は、2007年7月23日の記事に若干の修正を施したものです。
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