人生の実験

 「(2コリント12:7-9 略)

 最も善い聖書の註解はバーンズでもない、マイヤーでもない、クラークでもない。
 最も善い聖書の註解は人生の実験そのものである。
 これがなかったら、すべての学識、すべての修養を行っても聖書の根本的教義を探ることはできない。
 これがあって、いろは48文字を読めれば聖書の示す神の奥義を知るのは難しくない。教会から放逐され、国人に迫害され、友人が裏切りをすることとなって、私たちははじめてキリスト教の真髄である十字架のなんであるかを知ることができる。
 聖書が神の書である確証は、それが学識の書ではなくて、実験の書であることにある。」(内村鑑三 著、「一日一生」(新版)の4月7日の項、教文館)

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 ひさしぶりに内村鑑三から。

 「教会から放逐され、国人に迫害され、友人が裏切りをすることとなって」の箇所のうち一つめと二つめは、「基督教徒の慰め」に記されてもいる。
 そういった大試練をくぐり抜けてはじめて、「キリスト教の真髄である十字架のなんであるかを知ることができる」。

 ただ、物足りないのだ。
 何が物足りないかというと、大試練があれば自動的に十字架が輝く訳ではなかろうと思うのである。
 大試練の中で苦しみもがき、その最果てに聖書が語りかけてきて、その結果としてはじめて、十字架が光り輝くのではないだろうか。
 その苦しみもがきや最果てのことについて、内村鑑三自身もうすぼんやりとしか書けていない(こちら)。
 キリストの昇天以来このことをもっともきちんと書いたのは、間違いなくアウグスティヌスだ。

 まあそれはともかく、聖書というのは学識でも、また修養でもない。
 そんなものによっては、聖書のとびらはびくとも動かない。
 内村鑑三が言うところの「人生の実験」、つまり生きていくうちで避けることのできない試練、患難、また、それらをどのように忍耐し、しのいでゆくか、そういったことがあってはじめて、文字さえ読めれば聖書の方から語りかけてくる。
 何を語りかけてくるのかというと、十字架に架かったイエスこそキリストであるということだ。
 罪深きアダムの肉を自ら処罰する十字架、そして復活。
 それが分かると、「いのち」が息づく。罪赦されたことを実感できる。静けき平安で満たされる。

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[付記]今日の引用文が冒頭に2コリント12:7-9を掲げていますが、私には疑問です。

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