こんにちは。もう立秋も旧盆も過ぎました、秋は力をためております。昨日はシャワシャワシャワという関西蝉のクマゼミの声が。去年離れた公園で聞きましたが、今年はうちのほうまでやってきたようです。
体力のために珍しく散歩に行ったら公園は鬱蒼たる雑草。植木の植え込みの間からもバンバン生えてて、あれ同じ値段で剪定頼むのかしら? 誰も引き受けやしないね。その間に事態は悪化するばかり。
どっか行けました? おすすめはお里のある方はお里でしたが。一人の人生、なんでもチャンスは一時期しかないもので、運の女神には前髪しかない、とはよくいったもの。いや、運でなくとも人間には一時期しかないもので。まだお盆休みないし「お盆相当日」残ってましたら、ここで一考を。暑いけどね。
世間話。
新しいパソコンにATOKという優秀なIME(日本語変換ソフト)がついてきて喜んだけれど、優秀すぎて使いづらいったら。勝手に変換はするは勝手な候補は出すわで、200以上ありそうな選択機能を片端からOFFにしていきましたら途中でむなしくなって。アホのMSーIMEに戻してしまいました。これは5か所ほどOFFにするだけで使える、って、windowsと一緒で20年前水準に戻しただけですが。windowsも20年前のXPレベルに戻して使っております。
一体技術者は何をやっているんだろうねえ、、20年の苦労を全部OFFにされて空しくないかねえ。
あ、ネット上あるいはシステム上の検索機能はずいぶん改善されました。認めます。そうでないとチャットGPTのごときは存在してないからね。ごくろうさま。
その2.
消費期限を守らないといけないもの、容器に書いてないにしても。
1 接着剤、古いものはつきません。そのうえ、無理してつけると剥がれてそれを削り落とさないと新しいにも使えない。古いと思った接着剤は、即廃棄です。いや、木製の椅子の座面が割れてしまって。
2 キズバン。消毒薬の効果がどうとか、そういうことではありません。絆創膏のゴム的接着剤が変質する。それが何にでもひっついて、石油系だから石鹸ごときでは落ちない。
わたしなどは油絵用の筆洗い液を用意してあるのでだいじょうぶですか、貼り換えたら傷周りにまでゴムだらけになるわ、ふつうのおたくでは相当頭はカッカしてくるでしょう。わたしは来ました。そうなる前に捨てましょう。お気を付けください。
ちなみに筆洗い液、有用です、無臭のがありますからいかが? といっても用途上容量が多いので、掃除専用じゃちょっとか。しかし、除光液だともともとの石油系物品が破壊されるのでダメです、たとえばプラスチックコップとか、机の塗料とかのことです。筆洗い液はマジックだって落ちる、、はず。油に効くベンジン(油性エリモト)は落ちそうだけど、全然落ちないのはなぜだろう、、落ちそうだと思う感覚が間違いか。
その他。
目についたニュース、前回話題の聖光学院、「【甲子園】聖光学院の宿舎でのクリーニング対応が話題「断トツできれい」「(クリーニング賞)優勝でもいいですか」」(日刊スポーツ)
業者「♯聖光学院さん 甲子園クリーニングありがとうございました! お客様の中でもダントツで綺麗なクリーニングの出し方をしてくれます。そして毎年工夫されて皆がやり易い方法を考えてくれる。毎年感心する。、、、」
いいことだけど、もう少し人間に特化したストーリーがいいなあ、、、
「自民支持、49歳以下は1ケタ◇時事通信8月世論調査【解説委員室から】」(時事通信)
あらあらまあまあ。最近時事通信は自民党に辛いね。石破への右からのテコ入れかね。
なお、70歳以上は自民党支持が多いそうです。
さて、珍しく本題は社会学。前座として「ここにも構築主義の犠牲者が」
たまに社会学でも覗いて、と思って借りた奥村隆「社会はどこにあるのか」、ミネルヴァ書房、2017。
「もしも世界がみんな構築主義者だったら」社会は成り立たない、と学生に心配されて答えられない。構築主義は「当たり前」であることを疑うが、みんなが当たり前を疑ったら社会は成り立たない、とかいう話。困ったもんだ。彼氏が考えるには、いわゆるコミュニケーション(しかも善意のそれ)を通して社会が再構築されるのでは、とのこと(趣旨)。盛山氏と一緒でなんか誠実そうな人だけどね、ほんと社会学は生まれついての観念論で、そりゃお困りでしょう。
ここにおいでの方はすでにご存じの通り。私は同じことを繰り返すのは嫌い。
初めて来た皆様におかれましては、ご自分がどうやって生存しているかを確認していただきたい。他人様が作った食糧素材を食べ、他人様の作った洋服を着、そのかわりに入手済みの金を払い、それが人間の社会です。当たり前なんかでできてはいません(この前も少し言ったように、「当たり前であるかの如く」生きてはいます)。社会生活は当たり前でなくてもいいんだからと、金も払わず店先からブドウを取っていったら、すぐ官憲が飛んできて、「臭い飯」です、子供はその前に少年院ではありますが。日常は決して当たり前ではないからです。官憲も「当たり前」を疑ったらって? もうこの辺で、なぜ社会内で生存している人間は当たり前が疑えないか、という意味がわかるでしょう。構築主義など何の意味もない。その意味での「当たり前でのなさ」を語らずに、なんの「社会の学」か。
というくらいで犠牲者の方のお見舞いは終わり。
本題の本題。行為者の環境と、行為者の行為とは、社会学の研究対象として全く異なる、という話。
人は環境を認知して行動する。当然です。しかしここで、環境要素はあくまで自立的に「行動」します。山は雷により自生的にその要素を変え、川は嵐により自生的にその要素を変える。これらの他律的な環境の変化の認知に対し、諸生物は、自己の行為を変えざるを得ない。これが多細胞生物の基本です。
この環境への対応という作られた身体的体制の下で、当然に人間もその行動を変えます。
しかしその対応は、一般論では各個人によって異なる。彼の性格、彼のパーソナリティ、彼の事実認知能力の限界によって、言うまでもなく、異なるのです。
人はこの行為者の要因をあまねく分析することはできない。彼にできることは、せいぜいが行為者の家族の事情を含めた認識ほどです。いやそれが彼の村落中全般の対応を含めていたとしても事情は同じ。
科学という未来に向かった因果連関の提出者にとっては、ある特定の人間と彼を取り巻く対面的な諸要素としての他者は、その探求主題にはなりえない。因果連関の提出者が主題とするのは、前者、すなわち、環境要素の変更の因果連関です。
「誰も言葉を発しなかった。異論を唱えようがなかったのだろう。いつもながらの鮮やかな説明に、俺は舌をまいていた」。『ビブリア古書堂の事件手帳5』pp.151-152。
そう思わない? 自分で思うところは普通のこととして、自分で言いたがるところが哀しい境遇だね。
とはいえ、上記は構築主義者相手にまず大前提を述べたところ。
普通の社会学徒には環境要素の変改の因果連関は、普通の社会学徒の言葉で言えば、「言説」がセットになっている、といっておけば、よりわかりやすいでしょう。つまり、環境要素の「認知」です。
ま、ここまでは気の利いた学部学生なら気づきうる。課題はここから先さ。
ここまでは図式化しただけ。これは今言ってもしょうがないですが、環境と行動をつなぐものを「言説の問題」と集約してしまっては毎度の観念論に陥るだけ。端的にいえば、社会学徒の通常の認識とは逆に、言説内の「諸知識」は行為者の認知には関係がないのです。え? と思ってもらえた? ここから先は断片的に言ってもしょうがない。いずれにせよ認知は、認知の構成と対象の構造との関係を把握し確定してからでないと研究者は触ってはいけない。じゃあどうしろ、って、まあ、無駄に長年ご飯を食べてきたわけではありません。今回「反国家の社会経済学」で経済学にしたような、社会学のパラダイム変更。ガラガラと崩すよ。
こんなこと言ってるから、3冊前から「本書でもう最後である」宣言が繰り返されるんだね。
あるいは、「まだ生きている」というか。
体力のために珍しく散歩に行ったら公園は鬱蒼たる雑草。植木の植え込みの間からもバンバン生えてて、あれ同じ値段で剪定頼むのかしら? 誰も引き受けやしないね。その間に事態は悪化するばかり。
どっか行けました? おすすめはお里のある方はお里でしたが。一人の人生、なんでもチャンスは一時期しかないもので、運の女神には前髪しかない、とはよくいったもの。いや、運でなくとも人間には一時期しかないもので。まだお盆休みないし「お盆相当日」残ってましたら、ここで一考を。暑いけどね。
世間話。
新しいパソコンにATOKという優秀なIME(日本語変換ソフト)がついてきて喜んだけれど、優秀すぎて使いづらいったら。勝手に変換はするは勝手な候補は出すわで、200以上ありそうな選択機能を片端からOFFにしていきましたら途中でむなしくなって。アホのMSーIMEに戻してしまいました。これは5か所ほどOFFにするだけで使える、って、windowsと一緒で20年前水準に戻しただけですが。windowsも20年前のXPレベルに戻して使っております。
一体技術者は何をやっているんだろうねえ、、20年の苦労を全部OFFにされて空しくないかねえ。
あ、ネット上あるいはシステム上の検索機能はずいぶん改善されました。認めます。そうでないとチャットGPTのごときは存在してないからね。ごくろうさま。
その2.
消費期限を守らないといけないもの、容器に書いてないにしても。
1 接着剤、古いものはつきません。そのうえ、無理してつけると剥がれてそれを削り落とさないと新しいにも使えない。古いと思った接着剤は、即廃棄です。いや、木製の椅子の座面が割れてしまって。
2 キズバン。消毒薬の効果がどうとか、そういうことではありません。絆創膏のゴム的接着剤が変質する。それが何にでもひっついて、石油系だから石鹸ごときでは落ちない。
わたしなどは油絵用の筆洗い液を用意してあるのでだいじょうぶですか、貼り換えたら傷周りにまでゴムだらけになるわ、ふつうのおたくでは相当頭はカッカしてくるでしょう。わたしは来ました。そうなる前に捨てましょう。お気を付けください。
ちなみに筆洗い液、有用です、無臭のがありますからいかが? といっても用途上容量が多いので、掃除専用じゃちょっとか。しかし、除光液だともともとの石油系物品が破壊されるのでダメです、たとえばプラスチックコップとか、机の塗料とかのことです。筆洗い液はマジックだって落ちる、、はず。油に効くベンジン(油性エリモト)は落ちそうだけど、全然落ちないのはなぜだろう、、落ちそうだと思う感覚が間違いか。
その他。
目についたニュース、前回話題の聖光学院、「【甲子園】聖光学院の宿舎でのクリーニング対応が話題「断トツできれい」「(クリーニング賞)優勝でもいいですか」」(日刊スポーツ)
業者「♯聖光学院さん 甲子園クリーニングありがとうございました! お客様の中でもダントツで綺麗なクリーニングの出し方をしてくれます。そして毎年工夫されて皆がやり易い方法を考えてくれる。毎年感心する。、、、」
いいことだけど、もう少し人間に特化したストーリーがいいなあ、、、
「自民支持、49歳以下は1ケタ◇時事通信8月世論調査【解説委員室から】」(時事通信)
あらあらまあまあ。最近時事通信は自民党に辛いね。石破への右からのテコ入れかね。
なお、70歳以上は自民党支持が多いそうです。
さて、珍しく本題は社会学。前座として「ここにも構築主義の犠牲者が」
たまに社会学でも覗いて、と思って借りた奥村隆「社会はどこにあるのか」、ミネルヴァ書房、2017。
「もしも世界がみんな構築主義者だったら」社会は成り立たない、と学生に心配されて答えられない。構築主義は「当たり前」であることを疑うが、みんなが当たり前を疑ったら社会は成り立たない、とかいう話。困ったもんだ。彼氏が考えるには、いわゆるコミュニケーション(しかも善意のそれ)を通して社会が再構築されるのでは、とのこと(趣旨)。盛山氏と一緒でなんか誠実そうな人だけどね、ほんと社会学は生まれついての観念論で、そりゃお困りでしょう。
ここにおいでの方はすでにご存じの通り。私は同じことを繰り返すのは嫌い。
初めて来た皆様におかれましては、ご自分がどうやって生存しているかを確認していただきたい。他人様が作った食糧素材を食べ、他人様の作った洋服を着、そのかわりに入手済みの金を払い、それが人間の社会です。当たり前なんかでできてはいません(この前も少し言ったように、「当たり前であるかの如く」生きてはいます)。社会生活は当たり前でなくてもいいんだからと、金も払わず店先からブドウを取っていったら、すぐ官憲が飛んできて、「臭い飯」です、子供はその前に少年院ではありますが。日常は決して当たり前ではないからです。官憲も「当たり前」を疑ったらって? もうこの辺で、なぜ社会内で生存している人間は当たり前が疑えないか、という意味がわかるでしょう。構築主義など何の意味もない。その意味での「当たり前でのなさ」を語らずに、なんの「社会の学」か。
というくらいで犠牲者の方のお見舞いは終わり。
本題の本題。行為者の環境と、行為者の行為とは、社会学の研究対象として全く異なる、という話。
人は環境を認知して行動する。当然です。しかしここで、環境要素はあくまで自立的に「行動」します。山は雷により自生的にその要素を変え、川は嵐により自生的にその要素を変える。これらの他律的な環境の変化の認知に対し、諸生物は、自己の行為を変えざるを得ない。これが多細胞生物の基本です。
この環境への対応という作られた身体的体制の下で、当然に人間もその行動を変えます。
しかしその対応は、一般論では各個人によって異なる。彼の性格、彼のパーソナリティ、彼の事実認知能力の限界によって、言うまでもなく、異なるのです。
人はこの行為者の要因をあまねく分析することはできない。彼にできることは、せいぜいが行為者の家族の事情を含めた認識ほどです。いやそれが彼の村落中全般の対応を含めていたとしても事情は同じ。
科学という未来に向かった因果連関の提出者にとっては、ある特定の人間と彼を取り巻く対面的な諸要素としての他者は、その探求主題にはなりえない。因果連関の提出者が主題とするのは、前者、すなわち、環境要素の変更の因果連関です。
「誰も言葉を発しなかった。異論を唱えようがなかったのだろう。いつもながらの鮮やかな説明に、俺は舌をまいていた」。『ビブリア古書堂の事件手帳5』pp.151-152。
そう思わない? 自分で思うところは普通のこととして、自分で言いたがるところが哀しい境遇だね。
とはいえ、上記は構築主義者相手にまず大前提を述べたところ。
普通の社会学徒には環境要素の変改の因果連関は、普通の社会学徒の言葉で言えば、「言説」がセットになっている、といっておけば、よりわかりやすいでしょう。つまり、環境要素の「認知」です。
ま、ここまでは気の利いた学部学生なら気づきうる。課題はここから先さ。
ここまでは図式化しただけ。これは今言ってもしょうがないですが、環境と行動をつなぐものを「言説の問題」と集約してしまっては毎度の観念論に陥るだけ。端的にいえば、社会学徒の通常の認識とは逆に、言説内の「諸知識」は行為者の認知には関係がないのです。え? と思ってもらえた? ここから先は断片的に言ってもしょうがない。いずれにせよ認知は、認知の構成と対象の構造との関係を把握し確定してからでないと研究者は触ってはいけない。じゃあどうしろ、って、まあ、無駄に長年ご飯を食べてきたわけではありません。今回「反国家の社会経済学」で経済学にしたような、社会学のパラダイム変更。ガラガラと崩すよ。
こんなこと言ってるから、3冊前から「本書でもう最後である」宣言が繰り返されるんだね。
あるいは、「まだ生きている」というか。
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