リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

マイナーな感心2件

2013-05-19 15:31:01 | その他
 こんにちは。1年で一番良い季節の頃、時間を大切にしなければいけません。

 本日は感心した記述を2点

(その1)
「つなみ」という大震災の子供たちの作文集がありまして、なんの期待もなくめくってみましたら、中学3年生の子が書くには
”なんで東京電力を悪く言うのか。東京電力のおかげで浪江町(だったと思う)はこんな繁栄してこられたのだ。僕は東京電力に感謝している”って。
 おお、偉いじゃないかね。それが仁義というものだよ。
 自分の賭けに負けたからって他人を責めるのはおかど違いもいいところだ。
 しかも被害者だから金を出せ、なんて論外だ。人間、どっか狂ってるよ。
    ま、ほとんどの人が狂ってるんだから、俺も他のみんなと同じだ、補償金を出せ、でもいいけどさ、
    そう思ってもこの子は「まともな人間」とはどういうものか、と感じさせるね。
 名前も書いて褒めてあげようかとも思ったけど、残念ながらその1文に「僕は東京電力を誇りに思ってます」って、これはいかんな。自分で考えたんじゃないことがばれてしまった。
 誇りに思うなよ、そいつら(と賭けに負けた人間)のおかげで何十万人の人生が狂っちまったんだぞ。中にはもう心ならずも死んでしまった人もいる。そんなやつらが良い奴のわけないだろ。
 とはいえ、人間て仁義はわきまえるべきもんだと思うよ。ようするに自分の責任だね。これは、たとえば、政府が気に入らなくとも、自民党に投票した奴は自民党のせいにしないで自分のせいにする。 そんな基本的なスタンスを持て、ということでもあります。はいはい、マイナーで結構。

(その2)
 改善された天声人語によると、橋本の売春婦がらみで、『「品位のない憎悪や憤激」が繰り返されるうちは、戦争は「埋葬」できない。それは「品位によってのみ」可能になるのだ、と』
ウェーバーがいったそうな。
http://www.asahi.com/paper/column.html
 ほう、それは感心。
 
 橋本努のサイトから引くと「戦争の道義的埋葬は、Sachlichkeitと騎士道精神、とりわけ品位によってのみ可能となる。」ってさ。
ウェーバー『職業としての政治』。このアルファベットは中山元の訳だと「事実に即した姿勢」。
普通 「そう、訳しゃいいじゃねえか」、と思うとこだけど、折原浩(門下)だからね。

 とにかく、ウェーバーっちゅうのは形式社会学者だったっけ、と思わせる人生訓で、相手が政治家であればおっしゃるとおりのような。戦争の記憶というのは、俺は正しいとか誰が正しいとか、そんなもんじゃあねえよ、ちゅうことですな。
 運良くたいした賠償も払わずに復興大国になれたんだからさ。ひたすら品位あるのみ、というのが正しい、というところでしょうね。
 じっさい、ウェーバーにもなんかニーズがあったんだろうね。そのころ第1次世界大戦でドイツは旗色は悪いし、負けないうちにそろそろやめたほうがいいかな、というところ。ウェーバーといったって、決して頭は悪くないからね。主体的に考えられたのでしょう。

 これも闘うみなさんはひとごとにしないほうがよさそうですね。
 埋葬できる記憶などないが、実は事実だけは埋葬できる、ちゅうことです。
 ま、わかんない人には言ってもムダだけどね。
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