リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

部分システム下の規範の形成

2018-09-01 16:21:34 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。ようやく9月で、どちらさまももうひどい暑さはなさそうですね、台風は別として(台風915ミリバールだって。あぶねえよ。でかすぎ。特別緊急警戒警報的指示がでそう)。東京地方はもう桜の葉が落ちたりしてます。雑草はなぜかいつもこれからが旬なんですが。
 
 さて、ニュースは、昭和年寄り批判の体操業界への飛び火、がんばってますね。塚原光男とか、権力で腐って若い頃の栄光も台無し。弱きものは人間か(元からとの説も)。18の小娘に「全部うそ」とか「名誉毀損」とか、それがそのまんまパワハラだっておいぼれにはわかんねえんだよね。
 他のじじい、昨日なんか、「兵庫県宝塚市教育委員の男性(72)」普通学級で頑張ってる子に「難病児、養護学校が合う」 発言(毎日)なんちゅうのもあったよ。人間、権力からは60歳で手を引けよ。もっとも具志堅体操協会副会長は61だと。年寄りの鑑だね。人気が出ても、すぐやめなさいね。誰でも腐るから。
 
 ついで、自民総裁ほとんどアベ一人。ほんとにいないんだろうね、できるやつ。みんな金魚の糞だから。自分ひとりじゃなにもできない。「石破茂元幹事長(61)は25日、総裁選への立候補を表明した際に掲げた「正直、公正」のキャッチフレーズを変更する」(毎日)。自民党で安倍晋三首相への「個人的な攻撃」と受け止められたそうな。どこがさ、自民党、ひとつひとつ挙げてくれ給え。お笑い草だぜ。この草を食べると笑い転げて死ぬんだぜ。で、えらそうな元自衛隊大佐参議院議員・佐藤まさひさ氏は石破を軽く裏切ってアベについたそうな。イラクいって部下だった自衛隊員が何人自殺しようが気にも留めない奴だからね。取り巻きのネット囃子も同じ穴のムジナだし。ムジナに悪いがそんなもんさ。ただ問題は福島出身というくらいで。
 
 「中央省庁による障害者雇用の水増し問題で、厚生労働省が28日に公表した調査結果。 不適切に算入した人数は3460人」(毎日)だと。すぐ是正するんだそうだから、いっぺんに3千名が安定職に。今年は障害のある方、チャンスですね。人間、運のよしあしって絶対あるし。
 いろんな障害のある方と働きましたが、仕事さえセットできれば私には何の問題もなかったです。今はコンピューターが進んで、全盲の方も事務できるんですよ、お若い方。ただ、その職がそうそう多くはないので、お一人その職に就くと二人目はちょっと大変、というのがあるのね(足の悪い方とか、そういう障害は大丈夫)。ごまかした3千職を順々に30年で割りつければ、年に100人ずつ助かる理屈ですが。30年で退職はしないけど、時代は進むかもしれないし。
 もちろん、それで障害者の大部分をカバーできるかったって、無理ですけどね。にもかかわらず、それは規範を変えてゆく。今までごまかしてた企業も「国もそうだろ」とはいえなくなる。40年前からみたら障害者を取り巻く世界は見違えるよう。
 違いは40年前は左翼と老人支配者が変えたけれど、今はリベラル大衆が変えられる、ということで。
 逆かな。常にリベラルが変えるんだけど、40年前だけは左翼とくたばりぞこないが変えた、というのが正しいか。
 まあ定式化しても応用しづらいんでやめましょう。
 
 さて、本日は、「旧『日本的労務管理』の形成」。また題が違うね。
 「社会の部分システムでの規範の形成」じゃあいかにもオタクの極地。それにもめげず訪問された方、あなたは偉い。
 しかし、こんなところで抽象的な話はできません、て、いつもしてるけど。話は具体的に。
 というわけで、話はシンプル。人間は現在を現在与えられた環境を現在持っている力で生きるものです。労働者は毎日毎日生きて分かっているように、労働者我々は50年前のことなんか知らない。現在の状況下で、現在に見合った適切な生き方を選択し続けている。ところで、自分の次の瞬間をどう選択するか、といえば、その考慮の対象は、経営者の横暴と、これに対抗しうる「私の会社」の対抗権力と、その選択のおかげでクビになったり自主的に退職したりするときに「それでもいいや」と思える人間関係です。
 自分で書いてて納得したりしますな。
 で、この与件をまとめますと
 0 当該登場人物像をめぐる
 1 生理性と
 2 対抗権力と
 3 行為共同性
 35年来、常に変わらぬ隈理論でさあ(もっとも、前回の理屈に比べて相手が現実なんで、事実認知要素とか多少は複雑)。「部分システム」というのは、諸要素が限定されるので、資本主義や国家が、直接にはでてこない、という意味。そんなことは実証時には当たり前なんだけど、統括理論があるので、いちおう「部分」といっておかないと。
 で、前回の富永の本にも出てきたんで、こちらを例にしようかというのが、旧「日本的労務管理の特徴」です。
 
 さて、今解明が必要なのは、労務管理という現象でも、その現象を引き起こす諸事情でもありません。先行研究が厚いからね。旧日本的労務管理は、とりあえず「第1次大戦前後、重工業の大企業・官営工場から発した」でいいや。「なぜ大企業・官営工場がそんな労務管理をしたか」。経営者の考えも労働者の事情もすでに経営社会学が幾重にも論じている。それはいいのね。さてと、だからなんやねん? というわけです。そんな事象の経緯の叙述は因果連関ではない。社会学は歴史学か? いいや違う。社会学はその現象の存在や存在経緯ではなく、その現象の発生の因果連関の法則性を語らなければなりません。経緯と因果連関はどう違うか。因果連関とは、いつの時代にも使用できる法則による説明です。旧「労務管理」は現在の労務管理ではない。じゃあ現在の研究をしなければならないのか? しかし常に新は旧となる。あたりまえ。社会科学は歴史学ではない。常に「じゃあ今はどうか」を、研究者ではなく、教科書で法則を習った高校生でも分かるようでなければならない。
 というわけで旧「日本的」労務管理とはなんだったか。すなわち、西欧先進資本主義国では労働者の行為規制は労働者を取り巻く労働者組織のものでした。鍛冶職、製図工、石工、、、めんどくさい、クラフト・ユニオンです。例が出てこないのは私のせいじゃない、ネット上、浅学がいや先学が列記しないのだ。時間の無駄、知らない方は調べてください。そんな労働者の権力と賞賛は労働者組織にあり、資本家の世話になどなりはしなかったのです。
 第1の段階。ところが後進国の日本にはそうした労働者組織がなく、会社が自己の指示の下に工場技能工を育成した。この権力的指示だけが自分の行為世界である状況で、ここでは労働者に影響する権力も、しかして労働者の行為の行方も、労働者が生まれた「イエ」(農業・商業)労働世界と一緒で、「会社」にあった。だから、大企業以上労働者には「イエ」イデオロギーがフィットするのであり、もちろん、そのフィットが自己の権力世界の認識(村長・商家長の行い)と合致する中間管理職も存在するのであり、そうした下位社会が存在したのであり、だから、戦前世界は半封建的なのです。
 仕組みは常にシンプルです。哲学的社会学者が「百万遍」を語る必要などどこにもない(唐突ですね。現在探求中のそっち方面に呆れ気がさしていて)。
 第2の段階。この大企業の行為と大企業労働者の行為は、大企業を経営する政府・政商の権力とともに、中・大企業に広まるべきであり、中・大企業の規範は、中企業でも取り入れるべきである、と権力階梯内の人間は考える。この「べき」さが、経営者が認知する、企業間権力のなしうる業というわけです。これが労務管理イデオロギーです。
 後付けの「学者」が、「いや計算上、当時そんな会社は2、3割もなかった」といってみてもそれはごまめが歯ぎしりしているのと同様です。当時は小・零細工場でもごまめの歯ぎしりで負け惜しみを言っていたことでしょう、しかしそんな非力な者の発言は権力社会にあっては、行為論上の意義はゼロです。最近の若い人の歴史学(や叙述的経営学)ではその類いの「数的処理」をよくみかけます。人生で生理性の条件というものを知らない幸せさですね。しかし全部、行為者が死んで消えた後の後付けです。まだ生きてるけど。
 ということを書くと、間先生の正統のお弟子さんから「おぬしのいうのもわからんでもないが、だからなん? 求めてるもんがちがうだけじゃろ」といわれるでしょうね。だから、前回言ったとおり、2通りの志向があるわけで。私のは社会変更論の例解だけ。
 まとめ。「一方からの権力的指示だけが自分の行為世界である状況では、周りの登場人物がそれ以前から持つ規範の合理的適用が、行為者の行為の選択合理性となる。」当事者は、この規範の持つ合理性をなんとか自己に有利に変形して使用しようとする、というわけです。
 
 というわけで、教科書に【例題】をつけるなら、次のエポックメイキングで、「同じ公式を戦中の政府官僚・企画院の規範の形成に適用してみよ。」というのもありだな。あんまり評論をするのも好きじゃないけどね。「なんだ、評論か。科学じゃないのか」って? わたしゃ戦前の政府官僚なんて知らんからね。科学には基礎事実が不可欠なのですよ。社会科学は実証的でなければならない。【例題】には「企画院官僚」が持っていた彼らの行為環境を「仮定の所与」として付けておかなければならない。ついでに【応用例題】で、「この場合、現実の説明に足りない要因があったら、挙げてみよう」というのも上級高校生用にいいかな。
 それはともかく、実証は私の任ではないからね。それどこんじゃないし。今現在の認識では、こうした形式社会学的定式は、それがいくら真理だろうと非アカデミッシャン(=非大学教授)が山のように提出したって誰もみやしないからね、経験済み。ソクラテス然り。まずは、行為者が共時的、継続的に把握するはずの世界像を示さなくてはね。世界像があればその隙間を埋める努力は自然に後続に任せられるんじゃないかな。プラトン然り。この場合端緒の後続は、アカデミズムとは関わらない、ただの、といっちゃあなんだが、左翼ね。要するに私がそうであったように16歳の高貴な人間さあ。キミ、期待してるよ。プラトンはただの中年前の東大生級だから、プラトン以上になるんだね。
 というふうに、ストレスは解消しないと大変なんだよ、こんな孤独な作業。
 
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