リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

理論表現の構成の前提

2018-09-08 13:31:48 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。相変わらず災害列島、困ったものです。台風は警告できますが、地震は警告できないし。しかし、田んぼのためにわざと山の裾(すそ)に家を建てるんでしょうかね。それで子供たちを養うんでしょうが、それも困ったことです。それにしても、まともでない地面に住むのも売るのも止めましょうよ。広島の場合とかひどかったですよね。世の中には業突く張り(ごうつくばり)の地主が多くて、あんなのざらな話ですが。ともかく、まず土地を造成しない。ついで、安くても買わない。いったん家が建てば、本人は死んでもよくとも次に誰かが住みますからね。社会的責任というものです。
(別な話、北海道の山がなだらかなのは地層が古いから、と聞いてたけれど、地震で崩れるからじゃないか)

 さて、ここんとこ大方の人には役に立たない記事が続いて肩身が狭いので、むりやり、役に立つことを挿入。といっても知ってる人は知ってるでしょうが。
 「安いうなぎの食べ方」
 先日姉に教えてもらった料理法。テレビでやってた、とのこと。
 ネットに頼ると、「「得する人損する人」でサイゲン大介さんが紹介していました」https://shirutoku.info/unagi-oishii様、というもの。
 スーパーで中国産680円、消費期限今日まで、3割引というのがありましたのでやって家人に食べさせてみましたら(私はうなぎは嫌い)、評判上々。浜松の旅館で出たうなぎより、よっぽどふっくらしている、とのこと。この「ふっくら」が売りのようです。
 なんでも安物のタレが諸悪の根源のようで、しかも中国産ときたらどうしても洗い流したい、で、流水やら漬け置きやらで付いている全部タレを流してしまいます。このときに水を吸わせるのも重要な要素とのこと。
 で、風味付けにお酒をちょっとかけて魚焼きグリルで蒸し焼き。
 さらに、「付属品のタレに醤油小さじ2杯を加えます(塩味が加わり、香ばしさが出ます)。そして、レモン汁を少々加え」レンチン。かけて出来上がり。とても簡単。
 ネットと違う?
 違わなきゃわざわざ書かないさね。
 このレシピの問題が、蒸し焼きのとき「うなぎを挟むように(ほうじ)茶葉の入った器をうなぎの両側にそれぞれ配置します。」ってやつで、水っぽくなるから香ばしさをつけるんだそうです、が、いかにもめんどくさい。この手間があるだけで作りたくなくなる。まあ今回は、いちおう形だけやりはしましたが、香ばしいかと家人に聞きましたら、「山椒を振りかけたらなんだかわかんなくなった」とのことで、形だけするくらいなら、なくても問題なく美味しいようです(山椒はかけましょう)。
 以上、役に立つブログでした。
 
 話は変わり、本日の話題は読書感想。
 去年だか「誰か読みました?」と聞いたことのある、モントゴメリー&ビクレー「土と内臓(微生物がつくる世界) 」片岡夏実訳。図書館の予約が途切れたので読んでみました。人間の腸の内部は 植物でいう土壌なんだって。まずは、植物に土壌は要らない、水と空気があればよい、とこの30年ばかり聞いてきましたが、そうじゃないんだって。根拠は書いてないけど。ともかく経験的にそんな植物は生き残らないんだと。土壌内の微生物が植物の生理を正常にするんだって。下肥とか堆肥とかあんじゃん、あれが健康の元。と同様に、(小腸はただの消化場所なので)大腸の中は微生物で汚いほどよいんだと。悪玉菌もいていいんだってさ。
 まあ内容は藤田紘一郎と同じだけど、やはり「土壌と一緒で細菌が多いのが良い」という整理は秀逸。しかして、堆肥の代わりに人間は野菜繊維を食べるべし、ということになる。専門の学生はそう覚えると、新しい類推仮説が沸きそう。
 (といっても、本全体ではたいしたことない。ネットのレビューにあった「モヤっとした(部分が多い」本というのが正しいが、( )内は不要。全部もやっとしている。この訳の題は意訳で勇み足の訳題なのだけれど、しかしこれがなかなか本質的だ、と思われるだけ)
 
 ついで、図書館持参のバッグの隙間が余ったので借りた、「社会システム理論」とかいう本。登場人物の宮台真司とか今まで気の知れなかった人間の気が知れてよかった。疑ってたとおり、彼らには学問が遊びなんだね。信じられない。そんなら毎週遊園地詣でをして人生を過ごすほうが面白いじゃあないか。まあ人それぞれだけど、そういう趣味で大学で学問を教えていていいのかね。ふつう、教授が遊びだと思えば、教わった人間もそう思うわな。どうせ大卒の肩書きが欲しいだけだから、楽しけりゃいいのか。私の時代なんか、そんな気持ちで学者になった同年配以上はいなかったけどね。(P.S.学部出て、そこそこの一流企業に入った先輩や同輩の方たちも、社会学教室出身者は、その企業の良心となった、と、外見上見えます。重役とかにはなれてないけどね。失礼ですが、子供たちの将来のための知識で。)
 いってみれば、やはりまだ生き残ってた「社会学は人間の数だけある」シューレ。まあ「研究者の数だけある」よりは民主的でよいけれど、それって「井戸端理論の作成法」というのが的確だと思う。「なにいってんの、だってそういうものじゃん」と、いわれるところが世代の断絶だね。わたしは断絶していてうれしいし、あちらもそうでしょう。そんな時代は所詮(しょせん)、世界史のあだ花。「花」であればだけれど。
 
 で、本題。
 前々回に概念は歴史的だ、といいましたが、実は因果連関の解明は歴史的ではない。因果連関には時間的な継起はあるが、構成する概念の歴史性を除けば、その表現に歴史性はない。
 「そんなはずはない」「それでは形式社会学だ」あるいは「宙に浮かんだ観念論だ」とかまああるでしょうが、人間の頭脳というのはそうそう複雑にはできていない。常に、いわば、眼前的にできている。今、目の前で物事が展開するのを捉えるようにしか表現できない。これを無理して「歴史的」に書けば、その時点で他人には伝わらない。歴史は人生の全てだからです。せっかく抽(ひ)き出した要素は、他人の目の前から消えて、混沌とした歴史が立ち現れるだけとなります。
 というわけで、次回論究、いまだに構成をやってるのですが、歴史的な因果連関をどう埋め込むか、どうもフィットしないので、あれこれと参考になるものを探していたところ、ふと見れば旧版の黒田寛一「宇野経済学方法論批判」。そうなの、こういうのを探してたんだよね。
 世間の人たちは、武谷三段階論とか、梯経済哲学とか、武市弁証法とか、って、ただの幼稚な図式、子供のようなもんだ、と思うでしょうが、これが不思議。40歳前の人びとは蓄積がないから、くだらないと分かったって自分で体系だてるすべもない。で、40過ぎて充実して、さてどう体系作ろうかな、と思ったって、もう体系方法論が湧き上がらない。中年では、あっち考えているうちにこっちがすっ飛んじゃうんだね、過去やったことのないことだから。40歳過ぎたら幼稚くらいでちょうどいい。自分で体系立てようなんて思うのは、社会学徒1万人いたって99.99%。そもそもいないから誰もその意義が分からない。
 というわけで、それを提示してくれた人には素直に偉いもんだと思うしかない。黒寛(くろかん)も然り。嫌いでも言ってることはまともなんだからしょうがない。かっこつけてるのがうざいけど。
 まともといってもそれは宇野理論とはなんの関係もなく、研究者が自分の作品作成にあたる際の心構えを、延々と述べているだけ。場所的立場、ってやつね。研究者も、その他の人間のその他の生き方と同じように、主体的でなければならず、当然「その作品もそういう構成をとる」はずだ、と。おっしゃるとおり。宮台の「対偶」みたいなもんだ。趣旨は当然なんだけど、構成のとり方としてはなかなか難しいところもあるの。なので、時々本書を開いたほうがよい。といって、本の内容は何度もいいますが、遠巻きに延々と綴り続けているだけ。
 ちなみに、哲学徒と付き合いのない方のために、哲学徒なんてみんなこんなもん。いいかげんなところで修飾語を取りちらからして悦に入る。実は本人何も分かってはしない、誰が何を書いても永遠の序説。ま、それでもそのあいまいなところはそれぞれで自信があるのでしょう、あいまいだからなんとでもいえる、そっから先、なんにでも化けられる、口先は。幸いほとんど哲学徒とつきあいはないですが100%そうなんじゃないですか。3人が3人そうなら、100%。
 いや別に悪口ではなくて、そういうもんだというだけですが。
 黒寛もそう。しかし、おかげで人間の原則というものを思い出す、というところです。これは同じ政治家であいまい哲学徒の広松渉の及ぶところではない。
 
 

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