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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

普遍的行為主体の出現と倫理

2025-06-28 16:23:43 | 行為
 こんにちは、蒸しますねえ、お元気? ぼおっと歩いてるとあぶないよ。
 昨日は昼間外に出てしばらく歩いて、その後電車で座ったら得意の貧血を起こしそうになりました、暑さのあとで休むと気分が悪くなる、気が緩むんだね。気を引き締めれば治りますが、このまま倒れたら楽だよなあ、と。まじ、帽子か日傘がいるかと思いました。みっともないからしないけどさ。女性と高齢者にはお薦めせざるを得ないね。
 世間にはおそれていた梅雨明けが迫っているようで。どうすんのかね、コメ不作だったら。量さえ確保できればべつに白変米でもくず米でもいいけどさ、どうせいつもの米とおなじだし、しかし、量がね。まあ2年くらい続けて脅かさないと農協が対応を変えるわけないだろうから、日本の未来のためにいいかもしれない。

 ついでに米も配給にしたらもっといいかも。
 日本人、栄養摂りすぎ。
 わたしもつい半年前までは痩せすぎ傾向で、この下の腰回りサイズはないぞ、と、困ってたもんですが、今はなぜかおなかがタプタプしてる気が。
 世間様でよく聞く腹筋運動をやってみましたが、どうもそういう問題ではない、ふつうに前通りできるし、というより、力はタプタプの下を通っていって空回り。これじゃあ痩せようと思った人は途方に暮れちゃうよね。RIZAPに何十万もかけるわけだ。わたしゃ単にふやけてるのが恥ずかしいだけだけど。少しだけ同情いたしました。

 さて、本日は今回本の印刷が出来上がりまして、一区切り。発売も近々になると思われます。
 今回は2回前までのデザインと同パターンで、4冊並んでしまいました(並ぶと自分でも判別がつきにくくなる)。会社は違うのだけれど、おんなじデザイナーさんかな? 前回本はすこし毛色が違うけど、中身も毛色が違うからそれはそれ。

 ということで、少し浮世から離れて本題。

 2,3日前の朝日新聞のコラムの出だし、
「誤解を恐れずに言えば、人はそれぞれの物語を生きている。自らが好み、選んだ物語ならいいが、そうでないものもある。ときには権力に強いられる物語があり、さらに不穏なのは、知らないうちに思い込まされる物語だろう」
 どこのどいつが知らないうちに思い込まされている物語を「生きている」のかね。
 なにいってんだ、こいつ、と思いましたが、毎日人民にウソを垂れ流している評論家はそう考えるしかないのだろうな、と。
 毎日の評論家のウソは、人民はおしゃべりに使うだけで決してそれを「生きやしない」。

 ところでそれとこれとはまるで別な話で、人間の頭ん中って、主体的に物語が渦巻いてると思いません?
 みんな普通に10分後の行動をして、いや、トイレに行くならわかるけど、ほんとは何が待ってるかわからない環境の中に、さも当然のように期待して入ってくじゃん? それって頭の中のストーリー通りに動いてるだけじゃん? だけどさ、こういうのが「生きている」っていうんだよ。
 で、もっと驚いたことには、その環境が、その人間が思った通りの反応をするんだね、これが。
 いや、木を切ったら倒れた、というならこれも分かるけれど、他人がそこに待っていて、さも当然のように、自分と同じこと(仕事)をしたりね、そんなこと打ち合わせてないのに。
 その人間て、実は昨日一日じっと黙ってテレビ見てただけだったりするんだぜ、で、翌日は? その人間が思った通りの行動を他人がする。
 不思議。
 二人で同じ夢を見ているようだ。
 みんなが物語作家なんだけど、みんながそうだから作家になれないんだね。
 最近の社会学って、心の中ばかりじゃん。まあくだらん、なんの腹の足しにもならない、って思うわけだけど、最近の社会学もこのくらいのことはいえる、その限りではまちがってないわけだ。
 もちろん、ほんとの社会学の出番はそれからで、社会学の役目は、その同じ夢がなぜみんな同じになるのか、ということの法則性の提出であることを忘れたら、心理学という童話にすぎないけどね。
 
 さて、では問題、「主人公」が先か「物語」が先か。
 「物語がなければ主人公など存在しない。一方、主人公だけで物語が存在するか、いや、しない。かくて物語が先なのである。」
 なんてね、どっちだっていいしどうとでもいえる。
 これも本当の答えは散文的。
 どちらもその前に「行為主体」が存する。しかして、すべての文学理論には行為論が先行するのである。
 行為主体が主人公概念を生み、行為主体が物語概念を紡ぐ。
 当たり前のことで。
 いや行為論者隈が言いたかったことは、それにつけても行為主体に大事なのは、本人が一人紡ぐ物語だ、ということで。社会にどんな意味があるか、などは問題になどならない。死ぬときは一人、その思いは行為主体内部の問題だからね。

 さて、本日のお題はそこから。
 世の中、性格とかパーソナリティとかがあるというけれど、本人にとってはそうした個人的条件が現象するのはこの物語の中なのだよ。
 本人にとっては、ただの次にやってくる予定の将来。なのだけれど、ここに違和感のある将来が現実化するわけだ。「世間のやつらの対応がおかしい。俺の思いと違う」。
 この状態が、普遍的行為主体の状態です。
 世間から見ても、自分から見てもお互い変なやつと変なやつら。しかし、変わらないのは行為主体という条件。
 自分にとって(だけ)は正しい物語の存在によって、各個人にしか該当しないわけですが、しかし「倫理」が生まれる。
 人間は、どんな性格を持とうが普遍的に行為主体なのであり、この行為主体には倫理が存在する。
 自分のせいで他人が死のうが笑っていられるいわゆる発達障害の政治家も、そんな政治家に投票するガキたちも、同じ行為主体というところが、人間存在に射す一条の光明、と思いませんかね。

 P.S. なんの関係もない追伸でございます。
    さっきテレビを見ておりまして、1年前にも書いた岡山の「時計博士」小幡昂輝くん(「博士ちゃん」テレビ朝日報道)、相変わらずいいやつだなあ、まだ高1くらいに思うのだが。自分も含めてこういうレベルの人間を知らないので、ただただ感心するばかり、私はモラハラ。隣りにいても友達にはならないだろうところが残念。まじな話し、元気に人間の人生を全うして欲しいと思います。(神様って、そんなに親切じゃないし)


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