リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

視点の折衷と「社会」個人・評論「学

2021-02-20 14:00:37 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今日からまた暖かい予報の東京地方、梅まつり中止の世田谷区の羽根木公園などはもう見頃の模様、去年のほうが早かったけど。ただ、梅林につまんない回廊なんか作ったからお薦めはしません(=休んで眺められる場所がなくなった)。世田谷区の人、文句言ってやって。
 ふと、最近(もなにも)他人と話していないことに気づきました。もう1年越えるよね、店員さん以外。ボランティアしない退職者はみんなそうかしら? ボランティアもねえ、、ワクチンもいつになるか怪しいもんだし。さすがに精神上よくない影響が現れるだろうと危惧されます。
 
 皆様におかれましてはコトナ禍の身辺は落ち着かれましたか? 何があっても生きてることは人生には財産、もちろん要らない財産も有りますが。他人と生きるにはとても役に立つ。
 
 さて、ニュース。こんなのは?
 「世界の主要金融機関でつくる国際金融協会(IIF)は17日、世界全体の債務残高が2020年末に過去最大の281兆5000億ドル(約2京9800兆円)に達したと発表した。19年末比で9・4%増。新型コロナウイルス感染拡大に伴う景気悪化と各国政府の財政出動が要因で、19年末に320%だった世界債務の国内総生産(GDP)比は355%に急上昇した。内訳は先進国が11%増の203兆ドル、新興国が4%増の77兆ドルだった。」(毎日新聞)

 面白くなあい? 「世界中で子どもたちの未来を食いつぶして」というのは自称経済学者の言だね。「カネは子どもたちが払うから、コロナの援助金を今出そう」とかって話です。
 ほんとかねえ。子どもたちが金持ってんのかい? 持ってないぜ。そんな幻想のカネで、スーパーで肉売ってくれると思う? いいや、売らない。変じゃない?
 変ではない。実は出回っている金は我々のカネなのだ。銀行に預けた我々のカネが国債と交換されているだけ。現実に我々が使える金だから、スーパーも肉を売ってくれる。
 じゃあ債務って何? 詐欺みたいなものさ。我々に労働をさせる言い訳。借金などいつでもチャラにできる上での言い訳。
 経済の基礎は一片の紙切れである1万円札ではなく、我々の労働なのですよ。 
 なんてことを試験答案に書いてはだめですよ、しかし、どっちが幻想かというと、なかなか難しい話ですぜ。

 次、なかなか文を切りづらくて引用が長い。
「有働由美子アナ 大坂なおみの力強い主張に感心「私たちも我慢してた。言えば良かった」」
「「オリンピック・パラリンピックを支えていく方々に女性の名前が並んだ」とコメント。一方で、「すぐ『この人とこの人が仲が悪いんじゃないか』とか、外野が言ってるじゃないですか?」と、さっそく目にしたネガティブなうわさについて指摘した。
『(後輩アナの)純ちゃんが上がってきた瞬間に、“有働お局”がいじめてる』って毎週、(記事が)載るわけ」。根拠のない記事が頻繁にかき立てられていたそうで、久保アナのジャケットのポケットに、有働アナがかみ終わったガムを入れる嫌がらせをしたとも書かれたという。
 否定したい気持ちを抑えて、「女性が社会で働く時は、そういうのを無視して感じないふりをしていくしかないと思ってきた」という生き方をしてきた有働アナ。しかし、女子テニスの大坂なおみ(23)が18日、「新しい世代は男女差別を黙認しませんよ」と発言したことに、はっとさせられたという。「何で『黙認することが大人で、社会で生きていく以上、そうしなきゃいけない』と何となく思ってしまったんだろう?」と自己反省。「新しい世代というか、若い人たちがはっきり言ってくれることで、『そうだった。私たちも我慢してたのよ。言えば良かった』と気付かされた。」(スポニチ)
 長いけど、読めれば分かりやすいしょ。
 ともかくいいチャンスの時期です、みんなこの時期を逃さず、追い打ちをかけてがんばってね。

 さてどうも人と会わないもんで、社会学系文章のオタク度が亢進しますね。
 本日は、個人視点から社会学を成り立たせようと今でも存在している試みについて。社会学の現象学派。
 個人視点の意気込みというのは前もあったんですけどね、パーソンズ系のシステム論とか。これはあきらめられたもよう。ルーマン系のは個人にさかのぼっているわけではないと理解されますので、対象外。
 さて、個人と社会のアポリアといいますが、これは必ず存在してしまうことで、次元の違う両者について、理論をどうやって整合的に保てるか、という問題。
  
 隈理論では、端的に言えば、人間が「自由」な行為をできるときに限って、個人の行為の要素を出す、という方策をとっております。支配者の自由とか反逆の自由の時ですね。この場合、束縛事由が限定されますので、因果条件を構成しうるのです、といっても程度問題ですが、それを認識するのは、似たようなしかし種々の場面でこの立言を使う行為者ですので、曖昧部分が許されるのです。これはそれしかないのです。だって社会学者は「社会が個人を束縛する」というし、それは実際正しいのだから。
  
 しかし、その社会要因を初めから個人に当てはめてはいけない。社会と個人は全く異なる次元のものです。この異なる次元を折衷しようとしても、「相互に影響を」くらいの言葉でお茶を濁すしかない。個人の行為のどこからどこまでが社会の影響なのだろうか? いや全部がそうなのか? それなら社会学はいらない。マルクス主義か、せいぜい俗流経済主義でたくさんだ。
 どうでしょうか、物事というのは、本質は簡単なことなのです。 
 「現実の社会の個人」に焦点を当てるなら、社会学をかじったことのある人には驚くべきことに、人間個人には「存在の社会的被拘束性」など「ない」のです。人間個人の現実にそんな神や評論家の言葉など存在しえない。
 そうではない。個人は個人で、「おりゃあ社会のことなど構っちゃあいねえ」というのが生活に追われた人間の態様です。とうぜん至極。あるのは抽象的規定による拘束ではなく、権力そのものの強制やその利用です。
 
 誰に言っているかというとバーガーとルックマン。「日常世界の構成」。何をいまさら古い本、と言われても、昔読んだときは単位欲しさだけの抜粋英語プリントだったから。ともかく、今読んだら、いったい何を言っているんだ、ってなもので。 
 下から見ようが上から見ようが、この2視点は決して一緒にはならないのに、一緒に見たがるバーガーとルックマン。よっぽど自分の視点が気に入ったのか、考える暇もなく業績主義に追いかけられているのか。
 もちろんそれを言っても感想にしかなりませんし、感想と評論は同じものだというのは中学生でも知っていることなので、いやしくも社会学徒のブログでは言いません。が、今でも、いや今は特に、のようだけれど、こうした心的主義がはびこっている「社会」学について、ちょっと一言を。って、長い前置き。
 なに、いいたい中身はなんでもありゃしません。現実個人を扱いたくば、きっぱり分けろ、というだけ。こんな簡単な理屈がどうしてわかんないかというと、社会学者なんか論理というものを考えてないからさ。それが学者の頭脳の元からか、社会学特有の環境なのかは感想に属するので言わない。
 もっとも訳者の山口節郎は昔風の理論家なのでさすがに気づいているけどね、しかし、だからダメと言わないところが社会学者。「社会学研究に一つの新生面をきり拓いているように思われる」そうです。
 いいえ、無理。あれからもう40数年だよ。でさ、私がこれから、隈行為理論でないもう一つの「社会という存在被拘束性のない個人世界」を見せてあげようと思うのですよ。「環境の中を選択し続ける個人世界」ね。隈の全体社会論が「現実の社会」が「行為の次元」に乗っていたのに対して、隈の下位体系論は「現実の個人」が「諸下位体系」に乗っかります。解明先が違うのね。
 
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