ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心156~風土と文明と民族の心:和辻哲郎2

2022-08-12 11:24:38 | 日本精神
 和辻哲郎の名著に『風土』があります。この本は、単に地理学や比較文化論の本ではなく、和辻の倫理学の一環をなすものです。それとともに、この本は、倫理学に基づいて風土と文明の関係を考察した本でもあります。
 若き和辻はハイデッガーの著書『存在と時間』に衝撃を受けました。20世紀を代表する哲学者ハイデッガーは「存在とは何か」という問いのもとに、現存在つまり人間の存在を分析しました。その哲学は存在論とか実存哲学として有名です。
 人は漠然とではありますが、存在について理解を持っています。そして、自分に過去と未来があり、いつか死ぬことを知っています。ハイデッガーは、そうした現存在を時間との関わりにおいて論じ、さらに存在そのものの意味を時間に見出そうとしました。これに対し、和辻は異論を唱えます。人間存在は時間性だけではとらえられないからです。人が単に個人として生き、また死ぬのではありません。人は個人的とともに社会的な存在であり、他者とかかわり合う空間の中で、生の時間を生きています。それゆえ、人間の存在は、時間性とともに空間性からもとらえねばなりません。時間性とは歴史的、空間性とは風土的ということです。そこで、和辻は人間存在の考察のために、風土の研究を行いました。その成果が、昭和10年(1935)に刊行された『風土―人間学的考察』です。
 和辻がいう風土とは、客観的な自然環境のことではありません。風土は主体的な人間存在の表現であり、人間の自己了解の仕方です。例えば、寒気は、我々の外にあって、我々に迫ってくるのではなく、我々が寒さを感ずるのであり、そこに寒気を見出すのです。また、我々は、他者とともに同じ寒さを感じ、日常の挨拶に用います。寒さの感じ方自体が、間柄的で共同存在的です。「だから」と和辻は述べます。「寒さにおいて己れを見出すのは、根源的には間柄としての我々なのである」「すなわち我々は『風土』において我々自身を、間柄としての我々自身を、見出すのである」と。
 さて、「人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される」と和辻は述べます。そして、海外を旅した自身の体験に基づいて、風土をモンスーン、沙漠、牧場の3類型に分けます。さらに、東アジア、南アジア、西アジア、ヨーロッパの風土的特性と民族・文化・社会の伝統的特質の関係について考察します。
 和辻は、日本の風土をモンスーンの特殊形態であるとします。モンスーン型は、インドから東アジア一帯に見られるもので、暑さを素直に受け入れる受容的な性格と、大雨による災害にもじっと耐える忍従的な性格を特徴とします。その中で、日本の風土は、規則的でありつつ、同時に変化にもまれています。日本はユーラシア大陸と太平洋の間にあり、極めて変化に富む季節風が吹き、夏は突発的で猛烈な台風が来て大雨をもたらし、冬は大雪をもたらします。言い換えると、日本の風土は、熱帯的とともに寒帯的であり、また季節的でありつつ突発的であるという二重の性格をもっています。こうした気候の影響により、日本人の国民性には、モンスーンの受容性・忍従性に、熱帯のあきらめ、寒帯の辛抱強さなどが加わっていると和辻は考えます。そして、次のように述べます。
 「日本の人間の特殊な存在の仕方は、豊かに流露する感情が、変化においてひそかに持久しつつ、その持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、及びこの活発なる感情が、反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚の裏に俄然たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定せられる。それは、“しめやかな激情”“戦闘的な恬淡”である。これが日本の国民的性格にほかならない」と。
 同じようにして、和辻は様々な民族について、風土的特性との関係を考察します。これは、風土と文明の関係を論じ、文明の中核である精神と風土の関係を明らかにしようとしたものともいえます。
 さて、和辻によれば、人間存在は時間的と同時に空間的存在であり、歴史的・風土的な特殊構造を持っています。それゆえ、地球上の地理的条件による風土の多様性が、諸文明の多様性の基礎となっています。これを抽象的な普遍思想によって一元化しようとするのは、無理があります。政治的には、「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」をめざすとともに、文化的には多様なものの共存調和を図るべき所以の一つが、風土と文明の関係に求められるのです。
 和辻の名著『風土』は、人間学的生態学的な風土論の先駆として不朽の価値をもっています。また、日本学・日本人論に大きな影響を与えています。それと同時に、倫理学に基づいて、風土と文明の関係を考察した本ともいえるのです。

参考資料
・和辻哲郎著『風土――人間学的考察』(岩波文庫)

 次回に続く。

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戦略論41~コーベットの概要と思想

2022-08-11 10:29:25 | 戦略論
●コーベット

◆生涯

 ジュリアン・コーベットは、イギリスの海軍史家、海洋戦略家である。1854年生まれで、1922年の没である。マハンは1840年に誕生し、1914年に死去したから、二人は約60年間、同じ時代を生きたことになる。
 コーベットは、19世紀末から海軍史の著作を執筆し始め、英海軍大学校で海軍史を講義した。第1次世界大戦においては、海軍の嘱託として勤務した。海軍記録協会のために史料編纂を行い、日露戦争および第1次世界大戦の公式海戦史を執筆した。

◆著書

 コーベットは、1911年にマハンの影響のもとで独自の海洋戦略を打ち出した『海洋戦略の諸原則』を出版した。
 本書でコーベットは、海軍史の研究をもとに、マハンの海軍戦略(naval strategy)より包括的な海洋戦略(Maritime Strategy)を提示した。その戦略は、クラウゼヴィッツの「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続である」という思想を継承し、軍事と外交と結びつける総合的な戦略思想となっている。
 本書の構成は、序論に続いて、第1部「戦争の理論」、第2部「海の戦いの理論」、第3部「海の戦いの遂行」となっている。

◆思想

 コーベットの思想を明らかにするために、主に『海洋戦略の諸原則』に基づいて、マハンの思想との違いを述べる。制海権、海軍の役割、戦争の目的、軍事と外交の4点を挙げたい。

#制海権の確保は海上交通の管制のため
 マハンとコーベットの思想の違いは、第1に制海権についての考え方に見られる。マハンは制海権の確保を主張し、制海権を永続的かつ全体的に拡張することが可能だと考えた。これに対し、コーベットは、絶対的な制海権の確保は意義ある目標ではあるが、達成不可能なものかもしれないという懐疑的な見方を持っていた。
 海では、一方の国が制海権を失うと、即座に制海権が他の国に移ることにはならず、どちら側も制海権を保持していない状況が普通である。人間は、陸を占領するようには海を占領することはできない。味方以外の勢力を完全に排除し、なおかつそこに我が方が居住することはできない。それゆえ、海戦の目的は、海上交通の管制であり、海上交通路(シーレーン)の確保であって、陸戦のような領土の占領ではないとコーベットは主張した。
海戦では海上において通商交通の管制を強いる手段が必要である。それは敵側の船舶の海上での捕獲または輸送財産の破壊によって実施できる」。これをコーベットは、通商破壊ではなく通商防止と呼んだ。

#海軍と陸軍による統合作戦が必要
 マハンとコーベットの思想の違いは、第2に海軍の役割についての考え方に見られる。マハンは海軍を中心に物事を考え、「海軍戦略(naval strategy)」という言葉を多く使った。これに対し、コーベットは、「海洋戦略(maritime strategy)」という言葉を使った。海洋戦略は海軍戦略より広い概念であり、海軍力は海洋戦略の一要素である。
 人々が生活を営んでいる陸上こそが人類にとって最も大切な場所である。海軍力だけで戦争に勝利することは望めないし、また海戦だけではなく陸戦での勝利が求められる。そこでコーベットは、海軍戦略の焦点は、戦争において陸軍・海軍の相補的な役割を決めるものであると主張する。
 コーベットは、ナポレオン戦争で英国がトラファルガーの海戦で勝利したにもかかわらず、その後も戦争が10年間続いたことに注目した。そこから、海軍力による戦闘は防御的な戦いであり、強大な大陸国家を打ち破るには海軍と陸軍による統合作戦が必要であると主張した。海軍力と陸軍力は補完し合う関係にあるという考え方である。コーベットは、また海軍力は上陸戦においても必要であり、陸軍・海軍の統合作戦によって海上からの奇襲が可能になるとも主張した。
 この考え方は、マハンが海軍万能主義・海洋至上主義と批判されるのとは対照的である。

 次回に続く。

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日本の心155~日本的倫理は世界的人倫実現の鍵:和辻哲郎1

2022-08-10 09:49:35 | 日本精神
●人は独りでなく間柄的存在

 現代文明は行き詰まっており、人類は生存の危機にあります。そうした中で、私たちの生き方が根本から問われています。
 今日、大抵の人は、自分というものがなによりも大切だと感じ、個人の自由や権利を守り、自分らしく生きることが目標だと考えます。実はこうした個人を中心に考える考え方は、人間の歴史から見ると、とても新しい考え方です。わずか300~400年程前、西欧に始まった考えです。近代西欧から広がったこの思想は、個人や自我が独立して存在するものと考えます。これに対し、根本的な反論を述べたのが、和辻哲郎です。
 和辻は、漢語の「人間」という言葉は本来、人と人の間すなわち「よのなか」「世間」を意味し、「俗に誤って人の意となった」と指摘します。これを踏まえて、和辻は、「人間」とは「世の中自身であるとともにまた世の中における人である」と述べます。言い換えると、人間には「個人性と社会性の二重性格がある」というわけです。性格といっても文字通りの意味ではなく、個人性と社会性の両面があると理解すればよいでしょう。
 和辻は『人間の学としての倫理学』(昭和9年刊)で、自論を展開します。彼によると、「倫理」の「倫」という言葉は、元来「なかま」を意味し、人と人の「間柄(あいだがら)」や「行為的連関」(係わり合い)の仕方や秩序をも意味します。一方、「倫理」の「理」は、ことわり、すじ道を意味します。それゆえ「倫理」とは「人々の間柄の道であり秩序であって、それあるがゆえに間柄そのものが可能にせられる」ものです。そして、和辻は、倫理学とは「人間関係、従って人間の共同態の根底たる秩序・道理を明らかにしようとする学問」であると定義します。彼によって、個人ではなく間柄を基本においた、新しい倫理学が誕生しました。
 西欧近代に生まれた個人主義的な人間観は仮構にすぎないと、和辻は説きます。個人主義的な人間観の元祖といえるのは、デカルトです。彼は、すべてのものを疑ったすえに、それを疑っている自己の存在だけは自明であるとし、そこから「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という認識に到達しました。しかし、和辻はデカルトを次のように批判します。
 「この問いの立場は、実践的行為的連関としての世間から離脱し、すべてをただ観照する、という態度を取ることにほかならぬ。従ってそれは直接的に与えられた立場ではなくして人工的抽象的に作り出される立場である。言い換えれば人間関係から己れを切り放すことによって自我を独立させる立場である」。
 すなわち、現実の社会における人間関係から自分を切り離し、ただ世界をながめているだけの自分という、作りものの立場だというのです。
 「疑う我が確実となる前に、他人との間の愛や憎が現実的であり確実であればこそ、世間の煩いがあるのである。言い換えれば観照の立場に先立ってすでに実践的連関の立場がある。デカルトは後者の中から前者を引き出しながら、その根を断ち切ってしまった」。
 和辻はこのように、デカルトの仮構をあばきます。ある面では、常識的な発想による批判です。しかし、西欧近代では、こうした常識的な考え方が、どこかへ行ってしまい、極めて抽象的な人間観に陥ったのです。デカルトの影響を受けたホッブスやロックは、原子(アトム)のようにそれ自体で存在する個人を想定し、そこから出発して社会の成り立ちや国家の由来を考えました。社会契約説がそれです。現代の日本国憲法や人権思想も、基本的にはこうした考えに基づいています。その根本には、デカルトのコギトがあります。彼の影響は20世紀にまでも続き、フッサールやハイデッガーにも、デカルト以来の個人主義の色彩が残っていることを、和辻は見破り、その仮構を暴露しました。
 本来、人間は、決して単なる個人ではありません。人は誰でも自分ひとりで生きているのではありません。親や先祖があるから自分が生まれてきたのです。妻や夫、兄弟や友人、子どもや孫、社会や国家があって、自分はその関係の中にいるのです。この至極当たり前のことを、西欧近代の思想は軽視しています。そこから抽象的で個人主義的な考え方が出ています。しかし、人は、親子、夫婦、兄弟、友人など、様々な間柄の中で生きているのです。これは古今東西変わらない事実です。和辻の言い方によれば、人間とは様々な間柄においてある「間柄的存在」です。こうした生きた関係性において人間を考察することによってこそ、人間の倫理を解き明かすことができると、和辻は主張したのです。
 和辻は、間柄の考察を、「家族」や「親族」、「地縁共同体」や「経済的組織」、「文化共同体」や「国家」へと広げていきます。また、間柄がおいてある空間としての「風土」の研究も行いました。その到達点が、主著『倫理学』全3巻(昭和12年~24年刊行)です。これは、西欧近代思想に対抗して打ち立てられた東洋的・日本的な倫理学です。また同時に、近代思想を超える新時代の倫理学の試みでもあります。
 個人主義的な考えが多くの弊害をもたらしている今日、和辻の「間柄的存在」という考えは、私たちに大きなヒントを与えてくれています。

●「公と私」の体系

 人間は、個人個人が独立して存在しているのではありません。人間とは、様々な間柄のなかで生活している間柄的存在です。言い換えると、人間は共同体という「人倫的組織」の中で生きているのだ、と和辻哲郎は言います。
 和辻は、人倫的組織を、「家族」「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」「国家」の6つに分けて考察します。そして、「公と私」という問題を解き明かしていきます。人倫組織は、これらの諸段階を経て、私的なものから、公的なものへと高められるというのが、和辻の主張です。
 私たちにとって最も身近な私的存在は、男女二人の関係です。男女は心身の全体をもって互いにかかわり合い、二人の間では「私」が消滅します。このプライベートな関係が世間に公認されるのが、婚姻です。これによって、男女関係は夫婦関係となります。婚姻は、男女関係という私的なものを、公的なものに変えるのです。次に夫婦という二人の共同体に子供が誕生すると、親子の関係となり、三人の共同体となります。さらに子供が生まれると、兄弟姉妹の間には同胞共同体が生まれます。
 夫婦・親子・兄弟等による「家族」は、さらに「親族」という、より公的な人倫組織の一部に含まれます。親族の間では、それぞれの家族の事情は「私」的なものとなるわけです。次に親族は「地縁共同体」へ、「地縁共同体」から「経済的組織」へ、「経済的組織」から「文化共同体」へと、より高次の段階に包摂されます。どの組織も、前の段階の組織が持つ「私」を超えることによって実現されます。そして、より「公」的で開放的な性格を持ちます。しかし、同時に、後の段階に対しては、より「私」的で閉鎖的な性格を持っています。このように「公と私」は、階層的で入れ子的な構造をもっていることを、和辻は明らかにしていきます。
 そして、和辻は、「私」をことごとく超克して、徹頭徹尾「公」であり、「公」そのものである人倫的組織が「国家」である、と説きます。そして次のように述べます。「国家は家族より文化共同体に至るまでのそれぞれの共同体におのおのの所を与えつつ、さらにそれらの間の段階的秩序、すなわちそれら諸段階を通ずる人倫的組織の発展的連関を自覚し確保する。国家はかかる自覚的総合的な人倫的組織なのである」。国家は、さまざまの段階の人倫的組織をすべて「己れの内に保持し、そうしてその保持せるものにおのおのその所を与えることによって、それらの間の発展的連関を組織化しているのである。その点において国家は、人倫的組織の人倫的組織であるということができる」と。
 以上のような和辻の社会観・国家観は、西洋近代思想とは大きく異なっています。デカルトが考えたような、間柄的存在に先立って存在するという個人を、和辻は否定します。そうしたアトム的(原子的)な個人が契約によって社会をつくったという、ホッブスやロックの社会契約論も否定します。また、国家を個人の利益の擁護を目的とする一つの特殊社会ないし打算社会とする契約的国家論をも斥けます。そのような西洋近代思想は、人間の本質を認識するものではないことを、和辻は明らかにしました。
 さて、その一方、和辻が高く評価したものがあります。それは、教育勅語です。教育勅語は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という家族的道徳に始まり、「朋友相信シ」「進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」という社会的道徳に進み、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という国民的道徳に至ります。和辻は教育勅語を、人倫的組織の各段階の道徳を示し、また諸人倫を包摂する国家の構成員の道徳を示すものとして、高く評価します。そして、教育勅語は、「私」的なものから、より「公」的なものに進み、「私」を超えて「公」に貢献する倫理を体系的に説いていることを、解き明かします。同時に、和辻は、教育勅語には、西洋近代思想を超える、人類普遍的な倫理があることを明示しているのです。

●世界的人倫の実現を

 和辻哲郎は、「国家」とは、「私」を超克した「公」そのものである人倫的組織と考えました。しかし、国際社会という、より大きな「公」の場においては、国家は新たな公共性を担う存在でもあります。この点に関する所論を見てみましょう。
 和辻は、国家の根本的なあり方とは、すべての国民が「所を得る」ようにすることであるとします。そして、「家族」にはじまり、「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」までのあらゆる人倫的組織の人倫がを実現することです。そのために、国家がなすべきことは、国民に「正義の保証」をすることであり、「仁政」つまり仁愛に基づく政治をすることだとします。そして、全国民が「所を得る」ようにするという国内における道義の実現は、「万邦をしておのおのその所を得せしめる」という国際的な道義の実現につらなっていきます。 
 和辻は戦前、国家を人倫の至上と考えていましたが、戦後はそれまでの自説を是正しました。戦後世界を見た和辻は、いまや国際社会は「世界的国家」の方向に向かって動こうとしていると考えたからです。そして、過去の世界史の場面は、諸国家・諸民族の対立と争闘の場でしたが、いまや人類は、民族や国家の別なく一つの共同体を形成すべきであるという展望ないし理念を、歴史的に生み出すに至ったという認識を明らかにします。「世界史の意義は世界的な人倫的組織への方向にある」と和辻は述べました。
 ここにおいて和辻は、それまでの国家的国民的な倫理学を、世界的人類的な倫理学へと発展させたのです。彼は次のように書いています。
 「いかなる民族も、家族を形成し地縁共同体を形成し、そうして言語、宗教、芸術、思想等の共同を実現せざるを得ない。(略)これらの民族におのおのその所を得せしめ、その特殊な形態においてそれぞれその固有の国家を形成せしめることは、正義即仁愛を世界的に実現するゆえんである」と。
 続いて和辻は、各国家・各国民はなにをなすべきか、を論じます。
 「一つの世界」という「課題の解決に参与し得るためには、いかなる国民もまず一つの国民としての人倫的組織の実現に努めなくてはならない」。次に、確固たる人倫体を形成した諸国民が組織を作り、「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」を形成する、という順序となる、と。
 こうした和辻の考え方は、近年わが国で流行している、家族や民族や国家から自立した個人が地球市民として連合して地球社会をつくるという個人主義的な考え方とは、対照的な道を指し示しています。和辻は、人間の「個人性と社会性の二重性格」に基づいて、人間の本質をとらえ、家族や民族や国家を肯定するからです。そして、「一つの世界」をめざすためには、それぞれの国民が確固たる人倫組織を実現すべきであるとします。いわば、それぞれの国で、人々が人倫に基づいて家族・地域・組織を形成し、文化を育み、道義に基づいた立派な国づくりをする。そうした国家が寄り集まることによってこそ、「世界国家」が実現できると和辻は説くわけです。
 「世界国家」は、世界的なひとつの共同体であり、西欧近代の「個」の原理に基づく近代主権国家という卵の殻を破ってこそ、可能となるものです。和辻は、政治的には各国民国家は主権を放棄すべきとします。しかし、文化的には「諸国民の文化をそれぞれの独自の性格において発展せしめつつ、しかもそれらの異なった文化を互いに補充し合い交響し合うように」すべきだと主張します。各国民は互いに侵すべからざる尊厳と価値をもち、「いかなる国民も、他の国民を支配してはならないとともに、他の国民に支配されてはならない」と、国際社会の倫理的原則を述べます。各国による主権の放棄が、超大国や一部の組織による支配体制を生み出すのではいけない、文化的には多様なものの共存調和が実現されるべきだという考え方でしょう。
 それでは、わが日本国民は、どのようにしてこの課題に取り組むべきでしょうか。そのためには「教育勅語の本義に沿うことが肝心である」と和辻は説いています。「教育勅語の本義」とは、間柄的存在である人間が、家族的道徳、社会的道徳、国家的道徳の実践を通じて、万民が所を得る国家をつくり、さらにその道を押し広めて、万邦がその所を得る世界的な人倫組織を実現することにあるからです。一視同仁・四海同胞・共存共栄の理念ということもできます。
 和辻は、20世紀後半以降の世界において世界国家実現をめざすために、教育勅語の再評価を促したのです。
 教育勅語は、過去において、日本精神を最もよく表現したものといえます。また、和辻の倫理学は、教育勅語を踏まえつつ、日本精神を学術的に解き明かし、発展させようとした最良の試みのひとつといえるでしょう。和辻倫理学を一言で言えば、日本精神の倫理学です。しかも、国際化時代における日本精神の倫理学として、再評価すべきものです。
 今日、国際社会という「公」の場において、日本人がなすべきことを考える際、和辻哲郎の世界的人類的な倫理学には、大いに傾聴すべきものがあるといえるでしょう。

参考資料
・和辻哲郎著『人間の学としての倫理学』(岩波書店)、『倫理学』(岩波書店版『和辻哲郎全集』第10~11巻)

 次回に続く。

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戦略論40~マハンの思想・影響・地政学

2022-08-09 11:40:14 | 戦略論
●マハン(続き)

◆思想

 マハンが『海上権力史論』を発表した時、当時の『ザ・タイムズ』誌は、マハンを「新しいコペルニクス」と報道した。海を制することは、それまで体系的に評価されたことも、説明されたこともない歴史的要素だと認識されたからである。
 マハンは、(1)海上貿易は大国の経済発展にとって必須である、(2)国家が自国の貿易を保護しつつ敵国のそれを遮断するための最も良い方法は、海上優勢(naval supremacy)を保持することを可能にするような戦艦で構成された艦隊を配備することである、(3)海軍によって海上優勢を確立した国家は、自国よりも軍事的に強い国でさえも打ち負かすことができるようになるーーという3点を主に強調した。
 その主張の核心にあるのは、制海権の確保である。マハンは、敵艦隊を見つけ出して打ち破り、それによって制海権を勝ち取ることを力説した。制海権とは、command of the sea の訳語である。commandとは、敵の支配下にある重要な海域を一掃、もしくは敵をほとんど逃亡者の如きにせしめる「傍若無人の権力(overbearing power)」である、とマハンは定義している。また、その制海権を永続的かつ全体的に拡張することが可能だと考えた。そこから、マハンは、海軍の理想的な目標を敵海軍の殲滅だとした。
 マハンは、こうした主張をもってシーパワーの概念を打ち出し、海洋に関わる戦略理論の基盤を構築した。その海軍戦略は、大海軍の建設、通商の拡張、制海権の掌握、海上封鎖の効果、海外基地・植民地の獲得等を包含し、強い海軍力を持つ国家の建設を目指すものである。
 マハンは、大英帝国の興隆に範を採って、海洋戦力が国家や歴史を動かす決定的要素の一つであると強調し、大海軍主義を唱道した。マハンは、当時北米の地域大国に過ぎなかった米国が海外に発展するために必要な国家目標を明確に示した。大英帝国に匹敵する強国となるための国家方針を打ち出した。
 マハンに対しては、海軍万能主義・海洋至上主義という批判がある。海軍と陸軍との連携、軍事と外交との総合という発想を欠き、海軍の強化に偏った思想だという批判である。だが、次に書くように彼の主張の影響には、非常に大きなものがある。

◆影響

 マハンの主張は、米国ではセオドア・ルーズベルト大統領などに海外に進出する「遠大な政策(large policy)」の理論と戦略を提供した。米国は、マハンの理論に基づいて、パナマ運河やハワイ、グアム、フィリピンなどを支配下に入れていった。米国が第1次世界大戦に勝利すると、マハンの理論は勝因として賞賛された。第2次世界大戦にも勝利した米国が超大国に成長し得た理由の一つは、米国がマハンの理論を採用して海軍強国となったことに求められる。今日もマハンの戦略思想における海軍戦略の基礎的原則は、アメリカ海軍の兵学思想の中核をなすものとして重視されている。
 マハンは、英国・ドイツなど帝国主義的な海外進出を進めていた国々にも、大きな影響を与えた。特にイギリスの帝国主義者の代表的存在であるセシル・ローズや軍事学者ジュリアン・コーベット、ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世への影響が知られる。
 旧日本海軍の兵学思想は、マハンの影響を最も強く受けた。日本の海軍史や海軍戦略の研究を進め、「日本のマハン」と呼ばれた佐藤鉄太郎や、日露戦争における連合艦隊の作戦参謀だった秋山真之は、米国留学中にマハンに学びその影響を受けた。

◆地政学との関係

 第3部で地政学の基礎的研究を書くが、地政学の理論と歴史を書いたものの多くは、大陸国家系の地理学者・政治学者の系統を示したのちに、海洋国家系の系統を示す。マハンは、後者の系統のはじめとされるのが通例である。それゆえ、マハンは戦略論と地政学をつなぐ結節点になっている。
 マハンの主張のうち主に地政学に関することは、第3部に譲る。

 次回に続く。

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日本の心154~恥の文化が忘れた「恥」:ベネディクト

2022-08-08 17:43:30 | 日本精神
 ルース・ベネディクトによる日本人論『菊と刀』は、戦後日本人に大きな影響を与えています。
 ベネディクトは、アメリカの文化人類学者です。彼女は『菊と刀』で、人類学的にみると、世界の社会には「恥を基調とする文化」と「罪を基調とする文化」があるとします。そして、日本は「恥の文化」つまり「罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置く」文化に分類し、分析を行っています。
 ベネディクトは、日本人の行動規範は、恥にあるといいます。他人が自分の行動に対してどういう判断を下すか、その他人の判断を基準にして自分の方針を定める。したがって人目がなければ、行為の善悪は問題にならない。日本人は、実に矛盾に満ちた国民であるといいます。その矛盾の最たるものは、「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす」と同時に「刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する」という「菊と刀」に象徴される二面性であるというのです。
 ベネディクトは、日米戦争の最中、昭和19年(1944)にアメリカ陸軍局の委嘱を受けて日本文化の研究を始めました。戦争終結を目前にしたアメリカは、欧米人と全く異なった考え方を持つ日本人の行動パターンを予測することが、戦後の占領政策策定のために必要としたのでした。ベネディクトは、この研究において、限られた文献を読んだ以外は、日本に一度も調査に来ることなく、敵国民として収容所に抑留された日系人から聞き取りをしたのみでした。
 彼女の研究は、『菊と刀――日本の文化の型』と題されて、終戦後の昭和21年(1946)に刊行されました。当時、類書が他になかったので、日本を占領したGHQにとって重要な参考文献となったようです。
 ベネディクトによると、罪を基調とする文化は、「道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みとする社会」であり、人は「内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行う」、また「自分の非行をだれ一人知る者がいなくても罪の意識に悩む」。これに対し、恥を基調とする文化は、「他人の批評、『世間』の評価に気を配る社会」であり、人は「外面的強制力にもとづいて善行を行う」、また「恥を感じるためには、実際にその場に他人が居合わせることが必要である」。罪の文化においては、恥は「道徳の基礎となる資格がない」と考えるが、恥の文化においては、恥は「すべての徳の基本」と考える。罪の文化と恥の文化は、このように対比されます。
 ベネディクトのいう罪の文化の典型は、言うまでもなくキリスト教ですから、キリスト教が日本文化より道徳的に優れているという文化的偏見が、彼女の見方の根底にあることは、否定できません。
 ここで注目したい点があります。ベネディクトが次のように書いていることです。
 「恥が主要な強制力となっている文化においても、人びとは、われわれならば当然だれでも罪を犯したと感じるだろうと思うような行為を行った場合には煩悶する。この煩悶は時には非常に強烈なことがある。しかもそれは、罪のように、懺悔や贖罪によって軽減することができない」と。
 日本人からこうした煩悶を引き出すことができれば、キリスト教徒以上に深い自責の念を日本人に植え付けることができるでしょう。
 日本占領直後から、GHQは日本人に「戦争犯罪」を知らしめる大キャンペーンを行いました。それが、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争犯罪周知宣伝計画)です。この計画は、勝者からの一方的な情報により、日本人に戦争の罪悪感を植えつけ、二度とアメリカに歯向かうことのないように弱体化させる心理作戦でした。この作戦は、彼らにとっては見事に成功しました。日本人は、自分たちに与えられている情報が、誇張や捏造されたものとは知らずに、深い自責の念に駆られるようになったからです。
 ベネディクトの本は、この計画の実施中に刊行されています。先に引用したような彼女の鋭い指摘は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の効果を増強するものとなったことでしょう。
 『菊と刀』は、占領下の日本で翻訳され、昭和23年に出版されました。アメリカの占領政策の参考資料が、今度は日本人自身に読ませる本として公刊されたのです。東京裁判という虚構劇が日本人の良心を大きく揺さぶっていた時です。本書を読んだ日本人の多くは衝撃的な影響を受けました。そして、罪悪感を植え付けられた日本人は、本書によって日本文化の欠陥や劣性を感じ、自虐的なものの見方を強めていったのです。
 例えば、当時の代表的な社会学者である川島武宜は次のように書いています。
 「恐らく他のどの民族にもまして、自分の伝統や物の考え方だけを盲目的に承認し、これを中心として物事を判断するようにしか教育されていないわれわれ日本人は、本書から反省への無限の刺激を受けるはずである」
 そして、西洋化・近代化をよしとする我が国の近代化推進論者は、恥の文化は劣った文化であり、罪の文化は優れた文化である、日本人は前近代的な恥の文化を清算して、近代的な罪の文化に移行すべきであるという意識を植え付けました。
 その後、昭和30年代になると、戦後復興と高度成長による日本人の自信回復とともに、『菊と刀』に対する批判が噴出するようになりました。今日では多くの人々によって、本書の問題点が明らかにされています。一面的で偏った見方が多いのです。
 恥と罪の関係について、精神科医の内沼幸雄氏は、羞恥心は倫理観を基礎に、羞恥心⇒恥辱⇒罪、という順に移行すると述べています(『対人恐怖の心理』講談社学術文庫)。恥と罪には相関関係があり、日本人は恥の意識が、罪の意識へと発展し、内面的な意識に変わると考えられます。
 わが国において、罪の観念がなかったかというとそうではなく、神話には「国つ罪」「天つ罪」があります。罪けがれを祓い、清めることが、神道の儀式の中心となっています。仏教が入ると、罪業・罪障という考えが民衆に浸透し、前世の罪の影響が現世に現れ、現世の行いが来世に結果するという因果応報の観念が、日本人の倫理観の重要な要素となりました。
 精神医学者の木村敏氏は、西洋人の場合、罪の意識は神と自己の関係という垂直的な自己内関係に帰するのに対して、日本人は自己と他者つまり人と人との間の水平関係において罪の意識が見出されると言います(『人と人の間』弘文堂)。確かに恥の意識は「人の目」から見られる倫理であり、「神の目」から見られる倫理ではありません。しかし、恥を知る人は、世間に向ける顔がないと思うだけでなく、お天道様やご先祖様に顔向けができないとも考えます。この時、その人が意識しているのは、「人の目」だけでなく、「神の目」を意識しているとも言えるでしょう。日本人は太陽や先祖を神々として拝んできたからです。このような場合は、恥の意識は罪の意識に近いものとなっていると考えられます。
 日本には、キリスト教的一神教とは全く違う、独自の倫理観があるのです。
 こうした点に注意する必要はありますが、様々な問題点を括弧に入れて、『菊と刀』を読み直すならば、私たちは戦後日本が忘れているものを、改めて知ることができます。
 昔の日本人は、「恥」という意識によって行動の規範を持ち、厳しい公共道徳を持っていました。義理・人情・恩返しなどという価値観も、「恥」の意識を中心として形成されていたものでした。もともと一神教的な絶対的規範を持たない日本人には、その代わりに共同体における周囲の目や評価が強い道徳的強制力となっていたのです。しかし、戦後の経済・教育・文化等は、日本人の「恥の文化」を破壊し続けてきました。もちろんキリスト教的な罪の文化は、日本では根付きません。
 かつて西洋史学者の会田雄次氏は、次のように書いていました。「(戦後)日本人の心にヨーロッパ人的な罪の意識が生まれたということは、さらさらなかった。結果は、恥の意識が罵られ、小さくなり、消滅しかかっているというだけのことである」「日本人の恥の意識は、頼りないもので、一概に否定して良いものか」「日本人が恥の意識を失った時、どういう醜い事になるか」と。
 今日では、恥を知らない日本人がひどく増えています。上は政治家・官僚から、下は女子高校生・中学生まで、社会的規範を失った日本人は、簡単に犯罪や不道徳を行っています。私たちは、改めて「恥」という日本の伝統を振り返り、日本人としての道徳や義理人情を取り戻すべき時にあると思います。
 『菊と刀』は、今日、戦後日本人が忘れてきたものを再認識させてくれる一書と言えるでしょう。

参考資料
・ルース・ベネディクト著『菊と刀――日本の文化の型』(社会思想社)
・会田雄次著『日本人の意識構造』(講談社新書)

 次回に続く。

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戦略論39~マハンの海軍戦略

2022-08-07 13:45:43 | 戦略論
●マハン

◆生涯

 産業革命で石炭を使った蒸気機関を艦船の動力に利用し、船舶の大型化・高速化が進んだ。搭載する大砲も威力を増した。列強は、海軍の増強に力を入れ、大西洋、インド洋、太平洋等の大洋を行きかう各国の艦船が、植民地の獲得を争った。
 1870年代から世界は帝国主義の時代に入った。イギリスに続いて、ドイツ、アメリカ、フランス等が資本主義の生産力に裏付けられた軍事力を用いて勢力を拡大する帝国主義政策を展開した。
 この時代に、海軍戦略(naval strategy)を発展させた軍事理論家の代表的存在が、アルフレッド・セイヤー・マハンである。
 マハンは、アメリカ海軍の軍人・海軍戦略家・歴史家だった。1840年生まれで、1914年の没である。海軍勤務の後、海軍大学校で戦史と戦略を教える教官、後に校長になった。退役後、海軍参謀部、ハーグ平和会議の代表などを歴任した。最終階級は海軍少将である。アメリカ史学協会会長も務めた。

◆マハン以前

 マハンの出現まで、近代西洋文明における戦略論は陸上戦力を中心に書かれた。19世紀末になって初めて海洋戦力の重要性を唱える海軍戦略の理論書を著わしたのが、マハンだった。
 しかし、古代からの世界の戦争史では、海戦は重要な位置を占めてきた。西洋文明を中心に振り返っても、古代のギリシャ対ペルシャのサラミスの海戦、ローマ対エジプトのアクティウムの海戦、16世紀のオスマン対スペインのプレヴェザの海戦、オスマン対ヨーロッパ連合のレパントの海戦、イギリス対スペインのアルマダの海戦、19世紀のナポレオン戦争におけるトラファルガーの海戦等、海戦の勝敗はしばしば国家の興亡、文明の盛衰の転機となった。だが、海戦は軍事の実務として行われてきたようで、海軍戦略の理論書は、古代から近代までどの文明でも現れなかった。これは軍事思想の発達で世界の歴史に冠たるシナ文明でも同様である。
 シナ文明は、15~16世紀の明の時代に、世界最大規模の海軍を持っていた。鄭和は、15世紀の前半に7回にわたって大艦隊を率いて南海諸国を巡航した。インド洋を渡ってアフリカ東岸にまで至った。インド洋への第1次航海の際の旗艦は、マストが9本あり、全長125メートルの巨大な木造帆船(ジャンク船)だったと言われる。15世紀末に大西洋を渡ったコロンブスのサンタマリア号は全長27メートル、喜望峰を回ったヴァスコ・ダ・ガマのサン・ガブリエル号は全長26メートルというから、鄭和の船は、その5倍近い長さだった。当時のシナ文明の海軍は世界史上最強の海軍だった。だが、シナ人は海軍戦略の理論書を残さなかった。
 マハンの登場によって、ようやく海軍戦略の重要性が理論的に提示されたのである。

◆著書

 マハンの著書としては、彼の講義録をまとめた『海上権力史論』(1890年)が有名である。海上権力は、シーパワー(sea power)の訳語である。パワーは「権力」の他に「強国」を意味するから、シーパワーは、強い海軍力を持つ国家を意味し、海洋国家、海軍強国等とも訳し得る。
 マハンは『海上権力史論』の他、『1793~1812年のフランス革命および同帝国に及ぼした海軍力の影響』『ネルソン伝』等を通じて、海軍力の歴史的役割とその支配的な影響力を明らかにした。彼の研究は、海軍兵学だけでなく近代の国際政治の上にも強い影響を与えた。

 次回に続く。

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日本の心153~ネルーは愛国者・頭山満に感謝した

2022-08-06 08:32:50 | 日本精神
 東京裁判においてインド側主席弁護人だったデサイ博士は、次のように発言しました。
 「インドはまもなく独立します。その切っ掛けを与えてくれたのは日本です。インドの独立は、日本のお陰で30年早まりました。これはインドのみならず、ビルマ、インドネシア、ベトナムをはじめとするアジア諸民族共通のことです。インド4億人の民は、これに深く感銘しています。インド国民は、日本の復興にあらゆる協力を惜しまないつもりです。その他の東南アジア諸民族も同じだと思います」
 戦後、インドの人々は、連合国が日本を裁いた東京裁判において、アジアの一員として、日本の立場を理解しました。独立インドの首相となったネルーは、東京裁判のインド代表判事にパール博士を任命しました。パール博士は、東京裁判の矛盾を突き、日本の戦犯全員の無罪を判決しました。
 インド政府のチョプラ教育相事務次官は「パール博士の判決は、当時も今もインド政府の立場を語っています。我々はパール博士の判決を支持しています」と語っています。
 今日、パール博士の所説は欧米の多くの国際法学者たちにも支持され、東京裁判の誤りが認められています。
 ネルー首相は戦後間もなく来日し、インドの独立に協力した日本人に感謝を表わしました。その一人が、頭山満(とおやま・みつる)でした。頭山は既に死去していたので、ネルーは代わりに黒竜会代表の葛生能久に謝意を表しました。
 頭山満こそ戦前の日本において、国家社会のために生きる在野の巨人として、広く国民的敬愛を受けた人物です。彼の名は玄洋社とともに記憶されていますが、明治以来、日本国民の名誉や自尊心にかかわる事件には、つねに彼の姿があったのでした。
 頭山をはじめとする人々は「大アジア主義者」と呼ばれ、明治時代からアジアの解放のために努力しました。 彼らは、中国、インド等のアジア諸国の独立運動家を、命懸けで支援した真の国際人でした。頭山は犬養毅(元首相)と親しく、両者は一心同体となって、日本とアジアのために尽くしました。
 頭山は、東京・赤坂霊南坂にあった家の隣家に、日本に亡命していた中国革命の父・孫文をかくまったことがあります。孫文は、その家で4年間ほどすごし、宋慶齢との結婚式も挙げました。その間の生活費も頭山が世話をしました。
 頭山は、またインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースらが英国政府から追われていたときには、官憲の手から身柄を守り、新宿の中村屋にかくまいました。ボースは中村屋の長女・相馬俊子と愛し合い、日本に帰化して頭山の媒酌で結婚し、祖国独立のために力を尽くしました。彼が伝えた中村屋のインド式カレーは有名ですが、その陰には、頭山という真に国際的な精神を持った愛国者がいたのです。ネルー首相は、こうしたインドに対する頭山の支援に感謝したのです。
 竜馬・海舟・西郷の息吹を受けた中江兆民は、頭山を大人物と認め、大いに期待し親交を結びました。
 その頭山は、維新の英雄・西郷隆盛を深く尊敬していました。頭山は「ただ一心の天に通ずるものあらば、布衣といへども決して王者に劣るものはない」と語ったと伝えられます。西郷に似て、地位や名誉や金銭を求めず、ひたすら日本とアジアのために尽くした彼らしい言葉です。
 「頭山翁の偉大なる人格の至極の根源は、実に翁の『天に通ずる心』に求めねばならぬ。……唯だ『一心天に通ずる』生涯が頭山翁の生涯であり、それは大西郷が常に『天を相手』に生きたのと同じく、真実の日本人に共通なる宗教的境地である」と、大川周明博士は、書いています。そして、頭山を「真個の日本人」と呼んでいます。
 インドが生んだ偉大な詩人タゴールは、大正13年(1924)に来日した際、頭山と会談しました。タゴールは、頭山について、「インド古代の聖者を目のあたりに見る感じである」と語っています。
 大東亜戦争は米国の挑発に乗る無謀な開戦の果てに、悲惨な敗戦に終わりました。 敗戦色濃き昭和19年の秋、90歳の頭山満翁は憂国の思いの中で死去しました。しかし、この大戦の後、アジア諸民族は白人種の支配から独立できました。アジアの解放は、それに協力した日本人がいたから実現できたのだと考える人々が、今日もアジアの国々には、いるのです。

参考資料
・葦津珍彦著『大アジア主義と頭山満』(日本教文社)
・杉森久英著『浪人の王者 頭山満』(河出文庫)

 次回に続く。

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戦略論38~大モルトケの生涯と思想

2022-08-05 07:45:22 | 戦略論
●ナポレオン戦争から第1次世界大戦までの時代

 ナポレオン戦争は、第1次ヨーロッパ大戦と言ってもよい戦争だった。ユーラシア大陸西端のヨーロッパの大陸部からロシアにまで、戦域が広がった広域的な大戦争だったからである。この見方をすれば、第1次世界大戦は、ヨーロッパにおいては第2次ヨーロッパ大戦、第2次世界大戦は第3次ヨーロッパ大戦ということができる。
 ナポレオン戦争から第1次世界大戦までの時代は、産業革命の本格化、機械工業及び重化学工業の発達が進んだ時代である。
 産業革命の進展によって、動力革命・エネルギー革命が起こり、機械工業が発達し、多くの技術革新が起こった。化石燃料の使用、蒸気機関の発明、鉄道の敷設、通信の迅速化等である。また新たな技術を利用した生産力の増大は、国家や社会に大きな変化をもたらした。以後の戦争は、こうした技術を活用し、また変化する国家・社会に対応するものとして実施された。
 この時代をけん引した軍事理論家が、陸のヘルムート・フォン・モルトケ。海のアルフレッド・セイヤー・マハン、ジュリアン・コーベットである。

●モルトケ(大モルトケ)

◆生涯

 ヘルムート・フォン・モルトケは、ナポレオン1世以降、最高の軍事的天才と言ってよい。プロイセン及びドイツの軍人で政治家、軍事学者で、近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。甥で第1次世界大戦当時のドイツ軍参謀総長モルトケ (小モルトケ) に対して、大モルトケと称される。
 モルトケは、1800年に生まれ、1891年に没した。1858年にプロシアの参謀総長となり、88年まで勤めた。産業革命以後に生まれた当時の最新技術である鉄道と電信を積極的に利用し、電信による迅速な命令伝達を行い、鉄道で大部隊を主戦場に輸送して、敵主力を包囲殲滅する戦略を確立した。こうした戦略を実施するための軍制改革を行い、近代的な陸軍を編成した。彼が参謀部に設けた総括的作戦指令の制度は、その後に近代化されたあらゆる国の軍隊の模範となった。鉄血宰相ビスマルクの下で、デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争を指導し、戦術家としても天才的手腕を振るって勝利をおさめ、ドイツの統一に大きく貢献した。
 モルトケは、従来の戦略にとらわれず、状況や時代の変化に対応する柔軟性を発揮した。モルトケの戦略は、分散進撃し、包囲して一斉攻撃することである。これは、ナポレオンの作戦を理論化したジョミニが内線作戦を戦いの原則としたのとは、正反対である。モルトケは過去の常識を覆し、鉄道と電信の発達によって分散進撃して攻撃時のみ集中させることが可能となっているから、外線作戦が有利であると主張した。この戦略は、武器の進歩、兵士の年齢構成の変化等も考慮して生みだしたもので、見事にその有効性を実戦で証明した。

◆思想

・最初に考慮すべき事柄を比較検討せよ。それからリスクを冒せ。
・敵に遭遇すれば、計画は必ず変わる。
・戦争に時代や状況を飛び越えた一般原則は存在しない。
・戦史から勝利の公式を見つけることはできない。
・戦略とは、勝利が達成されるまで変化する戦況に臨機応変に対応することである。
・戦略は、知識以上であり、実際生活への応用であり、流動的な状況に従う創造的な思考の発展であり、困難な状況における行為の芸術である。
・戦争は、勝利しても自国民にとっては一種の不幸である。領土の獲得も賠償金の獲得も、人間の命を償い、遺族の悲しみを埋め合わせることはできない。
・永遠の平和など夢にすぎない。しかも決して美しくない夢である。戦争とは神の世界秩序の一環である。戦争においてこそ人間の最も高貴な美徳、勇気、自己否定、命をかける義務心や犠牲心が育まれる。もし戦争がなかったら世界は唯物主義の中で腐敗していくであろう。

 次回に続く。

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日本の心152~パール博士は「日本人よ、日本に帰れ」と訴えた

2022-08-04 10:53:18 | 日本精神
 ラビダノード・パール博士は、インドが生んだ偉大な国際法学者です。戦後、インドの首相となったジャワーハルラール・ネルーは、東京裁判のインド代表判事にパール博士を任命しました。パール博士は、親友であるネルーの懇請と期待に応えてカルカッタ大学の副総長を辞任し、来日しました。
 東京に来たパール博士は、宿舎のホテルの周りが、一面焼け野原になっていることに呆然としました。博士は、アメリカが東京に空襲を行い、国際法に反して、多数の一般市民を虐殺した「東京大虐殺」の実態を目の当たりにしたのです。博士は、この戦争の真相を求めることに没頭しました。
 東京裁判は、検事も判事も全部が戦勝国側で占められ、日本にはまともな弁護もさせないという一方的で不公平な裁判でした。遅れて判事団に加わったパール博士は、起訴状の矛盾を見ぬき、東京裁判の不当性を徹底的に追及しました。そして、国際法の法理に基いた厳密な考証を行い、敢然として、日本のA級被告全員に無罪の判決を下しました。博士は、東京裁判について「法律にも正義にも基づかない裁判である」「法律的外観はまとっているが、本質的には執念深い報復の追跡である」と結論しました。
 博士の堂々とした論理と該博な知識は、国際法学会での博士の名声を高めました。その後、博士は、インドの最高栄誉であるPADHMA・RRI勲章を授与されたり、ジュネーブにある国連司法委員会の議長にも就任するなど、非常な尊敬を受けたのでした。
 わが国では、パール博士の判決はアジア人として民族的に偏向した極端な所説だといった見方が一部にありますが、博士は次のように明言しています。
 「私は日本の同情者として判決を下したのでもなく、またこれ裁いた欧米等の反対者として裁定を下したものでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである」
 東京裁判の判事の中で、パールと共にもう一人重要な存在であるオランダのレーリンクは、パール判決に深い敬意を表しています。彼は、自分は裁判当時は「国際法については何も知らなかった」と語っており、判事中で国際法の専門家はパール博士のみだったと認めています。またレーリンクは、西洋白人中心の歴史観を反省し、植民地だったアジアの立場に深い理解を示し、日本がアジア解放に果たした世界史的役割を重視しています。
 東京裁判はマッカーサーの指令によって行われました。マッカーサーは、パール博士の判決書を裁判所で読み上げることを禁じました。
 パール博士は、その判決書を次の言葉で結んでいます。「時が熱狂と偏見をやわらげ、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、その時こそ、正義の女神はその秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」と。
 裁判の終了後の昭和26年、マッカーサーは、米国議会上院の軍事外交合同委員会で、「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と答弁しました。これは日本が侵略戦争を行ったという東京裁判の判決を、自ら否定するものです。さらにマッカーサーは、ウェーキ島で、トルーマン大統領に「東京裁判は誤りだった」と告白したと伝えられます。
 今日、パール博士の所説は世界の多くの国際法学者たちにも支持されています。英国の元内閣官房長官・ハンキー卿は、著書『戦時裁判の錯誤』でパール博士を100%支持しました。その他、F・J・P・ピール氏、フリートマン教授、米最高裁のW・O・ダグラス判事など、パール支持を表明する学者・法律家は枚挙にいとまがありません。平成8年には、世界14カ国の有識者85人が東京裁判を批判した言葉を集めた本が、佐藤和男博士らによって刊行されました。今や、パール博士の説は、国際法学界の定説となっています。
 東京裁判を語る人は、まずパール博士の判決書を読み、博士の法理の是非を自分の頭で考えてみるべきでしょう。 
 さて、昭和27年4月28日、日本は主権を回復しました。6年8ヶ月ぶりのことでした。しかし、その主権は一定の制限を付せられたものでした。この年の秋、10月26日から11月28日まで、パール博士は二度目の来日をしました。11月4日に広島で開かれた世界連邦のアジア会議に出席するためです。
 羽田に降り立った博士は、開口一番次のように語りました。
 「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は『法の真理』である。われわれはこの“法の真理”を奪い返さねばならぬ」
 また、次のように述べました。
 「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために『中立裁判』は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか」
 「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた『法の真理』を奪い返さねばならぬ」 と。
 帝国ホテルで、博士の歓迎レセプションが行われました。席上、ある弁護士が「わが国に対するパール先生の御同情ある判決に対して、深甚なる感謝の意を表したいと」という意味の謝辞を述べました。
博士はすかさず立ち上がって、こう応えました。
 「私が日本に同情ある判決を下したというのは大きな誤解である。私は日本の同情者として判決を下したのでもなく、またこれ裁いた欧米等の反対者として裁定を下したものでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。誤解しないでいただきたい」と。
 また、次のように続けました。
 「日本の法曹界はじめマスコミも評論家も、なぜ東京裁判やアジア各地で執行された戦犯裁判の不法、不当性に対して沈黙しているのか。占領下にあってはやむを得ないとしても、主権を回復し独立した以上、この問題を俎上にのせてなぜ堂々と論争しないのか」
 「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない」
 博士は、「法の真理」を奪い返すために、東京裁判・戦犯裁判の不法・不当性を明らかにすべきだと訴えたのです。それは、単に日本一国の名誉の回復のためではありません。第2次大戦の勝者による軍事裁判によって、失われた正義と真理と信頼と平和を世界に回復するためです。
 博士はまた、日本人に対して、次のように訴えました。
 「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい」
 広島で予定されていた特別講演を終えた博士は、原爆慰霊碑を訪れ、献花して黙祷を捧げました。碑文には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれていました。通訳を通じて碑文の意味を知ると、博士は憤りを露わにしました。
 そして、次のように述べました。
 「この『過ちを繰り返しませぬ』という過ちは誰の行為を指しているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたしは疑う。ここに、祀ってあるのは原爆犠牲者であり、その原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭である。落とした者が責任の所在を明らかにして、二度と再びこの過ちは犯さぬというならうなずける。
 この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のため蒔いたものであることも明らかだ。さらにアメリカは、ABCD包囲網をつくり、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハル・ノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」
 そして、「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった」と博士は慨嘆しました。
 このことは新聞に大きく報じられ、碑文の責任者である広島市長との対談が行われました。
 原爆慰霊碑を訪れた翌日、博士は半日、瞑想をしました。戦死者のために祈り、大東亜戦争の意義に思いをめぐらせ、ベンガル語で詩を作りました。その詩は、現在、広島市の本照寺にある「大亜細亜悲願之碑」に刻まれています。
 詩は、原語と英語と日本語の三ヶ国語で記されています。日本語による訳詞は、次のようになっています。

  激動し変転する歴史の流れの中に
  道一筋につらなる幾多の人達が
  万斛(ばんこく)の思いを抱いて 死んでいった
  しかし
  天地深く打ち込まれた
  悲願は消えない
  抑圧されたアジアの解放のため
  その厳粛なる誓いに いのち捧げた
  魂の上に幸あれ
  ああ 真理よ
  あなたは我が心の中に在る
  その哲示に従って 我は進む
        1952年11月5日 ラビダノード・パール

 西洋人は、500年にわたり、世界を侵略・支配しました。この間、アジアの諸民族は白人の奴隷にされ、虐げられてきました。パール博士は、この詩で、解放を求めて死んでいった人々の悲願は、天地に深く打ち込まれて消えないと謳っています。そして、日本人を含め、アジアの解放のためにいのちを捧げた人々を称え、その冥福を祈っています。最後に、真理の示すところに従って進むことを誓っています。
 東京裁判では、戦勝国の罪は一切問われませんでした。一瞬にして24万人以上の広島市民の命を奪った原爆は、「悪魔の兵器」です。しかし、原爆を投下した者たちの罪は、問題にもされませんでした。博士は、こうした東京裁判の矛盾を徹底的に暴露し、真理を追求しました。
 ところが、戦後日本人の多くは、戦勝国のたくらみによって誇りを奪われ、先祖や先輩たちがアジア解放を目指した魂までも失ってしまったようです。そうした日本人に対し、「日本人よ、日本に帰れ」とパール博士は訴えています。
 パール博士が予言した東京裁判を見直すべき時は、来ています。東京裁判の見直しを進めましょう。それなくして、日本人が日本に帰ることはできないのです。それとともに、これは、単に日本一国の名誉の回復のためではないのです。第2次大戦の勝者による軍事裁判によって、失われた正義と真理と信頼と平和を世界に回復するためであり、世界人類にとっての課題でもあるのです。

参考資料
・『共同研究 パル判決書』(講談社学術文庫)
・田中正明著『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)
・佐藤和男編『世界がさばく東京裁判』(ジュピター出版)
・名越ニ荒之助著『戦後教科書の避けてきたもの』(日本工業新聞社)
・研究社現代英文テキスト17『日本弁護論 In Defense of Japan's Case』(Judge Radhabinod Palの判決書の原文の抜粋)
次回に続く。

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戦略論37~ジョミニの「戦いの原則」と軍事政策

2022-08-03 10:15:19 | 戦略論
●ジョミニ(続き)

◆思想(続き)

#戦いの原則
 ジョミニは、戦争に勝利するための不変の原理の探究に努めた。その過程で、戦場における幾何学的な戦力の相対的な配置と各々の戦力が持つ後方連絡線の意義について考察した。そして、優れた作戦を立案するに当たって、必ず準拠しなければならない「戦いの原則」があるとして、次の4点を掲げた。

(1)我の後方を掩護しながらも、その戦域の決定的地点または敵後方に対して、我の軍主力を戦略機動によって可能な限り継続的に指向すること。
(2)我の主力が敵の一部と交戦するように機動すること。
(3)戦場において敵を打破するために最も重要な決定的地点または前線の部分に対して主力を投じること。
(4)単に決定的地点に対して我の主力を投じるだけではなく、適当な時期に十分な戦力で交戦する準備を整えること。

 ジョミニの「戦いの原則」の要諦は、内線作戦にある。内戦作戦とは、軍隊が敵に包囲され、または挟撃されるような位置にあって、我が方の全力を以って決勝点に対して単刀直入に攻撃し、速戦即決により各個撃破する作戦である。これと逆の外線作戦は、軍隊が敵を包囲し、または挟撃するような位置にあって作戦することである。内線作戦の原則は、包囲される側が内線作戦で戦力を集中させて、包囲する側の外線部隊を各個撃破したナポレオンの作戦戦略を理論化したものである。
 ジョミニの「戦いの原則」は、その後、多くの軍事理論家によって研究され、20世紀初め、ジョン・フラーによって体系化された。(後に、フラーの項目に書く)

#軍事政策
 ジョミニは、単なる軍事の専門家ではなく、軍事と政治を結ぶ軍事政策について考察し、提案をしている。彼のいう軍事政策は、外交と戦略に含まれない一切を含むもので、国家総合戦略と軍事戦略を連携するものである。彼が望ましいと考えた軍事政策とは、次のようなものである。

(1)国家の指導者は政治と軍事の両方について学識が与えられていること。
(2)また、彼自身が軍を指揮しない場合、その能力に最も優れた将軍を見出すことができること。
(3)常備軍の規模は必要に応じて予備によって倍加できるようにしていること。
(4)戦争に必要な装備や物資を武器庫や補給処に十分に確保し、他国の技術開発の成果も積極的に活用すること。
(5)軍事学の研究を推奨、表彰し、その分野の研究団体に敬意を払わせることで、優秀な人材を確保すること。
(6)平時の幕僚はあらゆる事態に備えて平素から計画を立案し、関係する歴史、統計、地理、理論について研究させておくこと。
(7)攻撃または防御を行う相手国の軍事的能力を判断するための研究に、優秀な士官を充てて、成果があればこれを表彰すること。
(8)開戦となった際に作戦の全局にわたる計画を準備することは不可能であるが、我が作戦が成功するために不可欠な基地機能や物的準備を事前に整えていること。
(9)作戦の構想については彼我の戦争の目的、敵の特性、地域の状況、また作戦で使用し得る戦力、戦争に介入する恐れがある国家の能力などが考慮されること。
(10)国家の財政状況を戦争状態に適応させること。

 クラウゼヴィッツが戦争と政治の関係を述べたことは一般常識にまでなっているが、ジョミニが軍事と政策の関係を考察したことは、あまり知られていない。

◆影響

 ジョミニの軍事思想は、陸軍戦略だけでなく、海軍戦略にも大きな影響を与えた。例えば、アメリカの海軍戦略家アルフレッド・セイヤー・マハンは、内線の優越性等の幾何学的な原理は海戦術にも認められると主張した。

註 この項目は、次のサイトに多くを負っている。
https://militarywardiplomacy.blogspot.com/2016/11/blog-post_52.html

 次回に続く。

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