ほそかわ・かずひこの BLOG

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日本の心160~『国家の品格』と武士道精神:藤原正彦1

2022-08-20 11:39:34 | 日本精神
 藤原正彦氏の『国家の品格』(新潮新書)は、平成17年(2005年)に刊行された名著である。国際的数学者として知られる藤原氏は、いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことだと説いている。藤原氏が武士道に関して述べた意見に焦点を合わせて、21世紀に求められる武士道精神についてまとめてみたい。

●日本は「国家の品格」を失っている

 藤原氏が書名にした「国家の品格」とは何か。「品格」とは、「しながら」であり、「品位、気品」をいう。「品位」とは、「人に自然にそなわっている人格的価値」、「気品」とは「どことなく感じられる上品さ。けだかい品位」をいう。(「広辞苑」)
 これらはいずれも人間についていう言葉であって、国家には普通は使わない。それゆえ、「国家の品格」とは、その国の人間つまり国民の品格をいうものである。国民の品格とは、国民一人一人の品格である。国民一人一人に品格があってこそ、国民全体に品格が備わり、それがその国家に品格をもたらす。
 藤原氏の著書『国家の品格』を読んだ多くの人は、これはわが国の品格を説いた本だと理解しただろう。しかし、本書で、国家といい、日本というのは、日本人のことなのであり、その一員としての一人一人の品格が問われているのである。
 このように品格を問われているのは、国家としての日本であり、その一員としての自分自身であると押さえた上で、本稿の主題である藤原氏の武士道論に移りたいと思う。
 『国家の品格』の「はじめに」において、藤原氏は、「論理」に対比して「情緒と形」を置く。「情緒」とは、単なる喜怒哀楽ではない。「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」だという。また「形」とは、「主に、武士道精神からくる行動基準」だという。そして、藤原氏は、これらをともに「日本人を特徴づけるもので、国柄とも言うべきもの」だとする。
 藤原氏は、主な用語の定義がゆるやかで、その用語の使い方が、個性的である。「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」をいうのであれば、多くの人は「情緒」ではなく、情操とか感性というだろう。「主に、武士道精神からくる行動基準」なら、「形」ではなく、規範とか道徳というだろう。これらは、最も「形」に表しにくいものである。
 また、「国柄」であれば、「情緒と形」ではなく、国家の体質とか国体というだろう。「お国柄」なら国民性や民族文化をいうが、国家の統治機構や、政治社会の基本構造を抜きに「国柄」を説くことはできない。
 こうした独特の用語の定義や使い方が、藤原氏の特徴でもあり、また弱点でもある。それはそれとして、氏のいわんとするところに耳を傾けてみよう。
 藤原氏は、さきほどと同じ「はじめに」において、氏の言うところの「情緒と形」は「昭和の初めごろから少しづつ失われてきました」という歴史認識を示す。
 それらは「終戦で手酷く傷つけられ、バブルの崩壊後は、崖から突き落とされるように捨てられてしまいました」という。「戦後、祖国への誇りや自信を失うように教育され、すっかり足腰の弱っていた日本人は、世界に誇るべき我が国古来の『情緒と形』をあっさり忘れ、市場経済に代表される、欧米の『論理と合理』に身を売ってしまったのです」とも書いている。
 その理由を「なかなか克服できない不況に狼狽した日本人は、正気を失い、改革イコール改善と勘違いしたまま、それまでの美風をかなぐり捨て、闇雲に改革へ走ったためです」とする。
 そして、氏は「日本はこうして国柄を失いました。『国家の品格』をなくしてしまったのです」と述べる。
 ここで氏は「国家の品格」という用語を、「国柄」という用語と、ほぼ重なり合う意味で使っている。その内包は、「情緒と形」である。すなわち「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」や「主に、武士道精神からくる行動基準」が、昭和の初めから少しづつ失われていた。終戦後、日本人は、それらをあっさり忘れ、バブルの崩壊後、不況克服のための改革に走ったことによって、さらに失ってきているというわけだろう。

●武士道精神を復活すべき

 藤原正彦氏が武士道精神を持つようになったのは、氏の受けた家庭教育による。
 「私にとって幸運だったのは、ことあるごとにこの「武士道精神」をたたき込んでくれた父がいたことでした」と氏は『国家の品格』(新潮新書、以下『品格』)に書いている。
 父とは、小説家の新田次郎氏である。
 「私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった」「幼少の父は祖父の命で裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした」という。(『この国のけじめ』文芸春秋、以下『けじめ』) 
 こうした教育を受けた父親が、藤原氏に武士道の精神を教え込んだのである。
 「父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、『弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ』『暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ』と繰り返し言った。問答無用に私に押し付けた。義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう」(『けじめ』)
 氏は、特に卑怯を憎むことを、心に深く刻まれたようだ。
 「父は『弱い者がいじめられているのを見てみぬふりをするのは卑怯だ』と言うのです。私にとって『卑怯だ』と言われることは『お前は生きている価値がない』というのと同じです。だから、弱い者いじめを見たら、当然身を躍らせて助けに行きました」と書いている。(『品格』)
 こうして家庭において父親から武士道の精神を植え付けられた藤原氏は、その後、今日にいたるまで、武士道精神を自分の心の背骨としている。その氏の武士道に対する理解は、その多くを新渡戸稲造の名著『武士道』に負っている。
 「武士道には、慈愛、誠実、正義や勇気、名誉や卑怯を憎む心などが盛り込まれているが、中核をなすのは『惻隠の情』だ。つまり、弱者、敗者、虐げられた者への思いやりであり、共感と涙である」(『国家の品格とは何か?』朝日新聞平成18年4月5日号、以下『何か?』)
 「惻隠こそ武士道精神の中軸」であり、これを「他人の不幸への敏感さ」とも言っている。(『品格』)   
 「惻隠の情」は、シナの儒教の賢者・孟子による。他人のことをいたましく思って同情する心である。孟子は「惻隠の心は仁の端なり」と言う。孟子は、性善説に立ち、人間の心のなかには、もともと人に同情するような気持ちが自然に備わっていると考えた。そして、その自然に従うことによって、やがては人の最高の徳である「仁」に近づくことができると考えた。「仁」とは、慈しみであり、思いやりである。
 藤原氏は、このように、武士道は「惻隠の情」がその中核をなす、ととらえている。しかも、その同情や共感は、身を挺してでも他者を助ける行動に表すべきものと理解されよう。単なる惻隠にとどまれば、卑怯というそしりを受けるだろうからである。
 さて、藤原氏は、論理だけでは世の中はうまくいかない、論理よりもむしろ「情緒」を育むことが必要だという。また、それとともに、人間には、一定の「精神の形」が必要だという。
 氏は、次のように書く。「論理というのは、数学でいうと大きさと方向だけ決まるベクトルのようなものですから、座標軸がないと、どこにいるのか分からなくなります。人間にとっての座標軸とは、行動基準、判断基準となる精神の形、すなわち道徳です。私は、こうした情緒を含む精神の形として『武士道精神』を復活すべき、と20年以上前から考えています」と。(『品格』)
 国際的な数学者である藤原氏が、このように言うところに、驚きと同時に強い説得力を覚え、多くの読者が啓発されているに違いない。
 藤原氏は、武士道精神は、わが国に「国家の品格」を与えてきた重要な要素であり、主に武士道精神が失われてきた結果、わが国は「国家の品格」を失ってきたと考えている。だから、日本人は、武士道精神を復活すべきと説くのである。
 それだけではない。この「惻隠の情」を中核とする武士道精神について、「このような日本人の深い知恵を世界に向けて発信することこそ、荒廃した世界が最も望んでいるのではないか」(『何か?』)と言う。「私は『武士道精神こそ世界を救う』と考えています」(『品格』)とさえ言う。
 このように、藤原氏は、現代の日本そして世界にとって、武士道精神がきわめて重要な意味を持つものと説いている。

 次回に続く。

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