ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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キリスト教39~祈り、十字架、死と再生

2018-04-27 06:46:47 | 心と宗教
●祈り

 祈りには、成文による祈りと自由な祈りがある。成文化された祈りの代表的なものは、新約聖書に基づく「主の祈り」である。英語では「Our Father which art in heaven(文語)」で始まるもので、ローマ・カトリック教会と英国国教会(聖公会)の日本語共有口語訳は、次の通りである。
 「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン」
最後のアーメンは、ヘブライ語で「まことに」「たしかに」「かくあれ」という意味の言葉である。祈りや信条等の最後に唱える。最後にアーメンを加えるのは、その真実性を神に誓い、また他人の祈祷に同意するためとされる。
 プロテスタントでは、教派によって、成文による祈りに加えて、自由祈祷を行う。また定形化された祈祷文を用いず、自由な祈祷のみを行う教派もある。

●十字架

 宗教は、儀礼や教義において様々な象徴を用いる。言語で表現できないものを、図像で表す場合が多い。キリスト教における最も重要な象徴は、十字架である。
 多くの宗教においては、主な象徴は、光、力、豊饒、調和等を感じさせるものである。だが、十字架は、磔刑の道具である。磔刑は、古代ローマ帝国で最も残酷な重刑だった。十字架は、古代オリエント諸国で広く使われていた刑具で、極悪な犯罪と恥辱のしるしである。ローマ軍は反抗するユダヤ人のグループを徹底的に弾圧し、彼らを捕えると、十字架に架けて殺した。十字架刑は、謀反者に対する見せしめの刑罰だった。イエスは、磔刑に処されたユダヤ人の一人として殺害された。
 こうした磔刑の道具を信仰上最も重要な象徴とするところに、キリスト教の特異な性格が表れている。陰惨、暗鬱である。他の世界宗教で、絞首台や獄門台等を象徴とする宗教はない。だが、この極悪な犯罪と恥辱のしるしである十字架が、キリスト教では、イエスの死と復活の象徴とされている。
 十字架には、教派によって様々な形式がある。ラテン十字架、ギリシャ十字架、ロシア十字架等である。
 ローマ・カトリック教会では、復活祭の前の金曜日をイエスが十字架にかけられた受難の日とし、十字架を礼拝する。十字架には、血を流し、苦しむ生々しいイエスの像が付されている。プロテスタントでは、十字架のみで、イエスの像はないのが普通である。また十字架を崇拝の対象にすることはない。
 祈りの時に、手で十字を切るのは、十字架を模した儀礼である。ローマ・カトリック教会では、右手で指をそろえて、額―胸―左肩―右肩の順に象る。東方正教会では、右手の親指・人差し指・中指の三本の指を合わせ、薬指と小指の二本を握る。前者の三本は三位一体、後者の二本は神性と人性の両性を表す。手の動きは、カトリックとは逆で右肩―左肩の順になる。プロテスタントは、十字を切らない。

●神の死と再生

 キリスト教の信仰は、イエスは磔刑にあって十字架の上で死に、3日後に復活し、40日間にわたって使徒らに出現したという伝説に基づく。この伝説は、何かしらの事実に基づくものだろう。そうでなければ、このような荒唐無稽な話が広まり、多くの人に受け入れられ、信じ受け継がれるはずがない。しかし、またこの伝説は、古代オリエントに広く見られた神の死と再生のシンボリズムと重合している可能性がある。世界諸民族の神話や古代の宗教には、神が死んで再生することにより、世界に豊穣がもたらされるという信仰が見られる。農耕文化の社会に多く、大地や植物を象徴する神が死に、その身体から作物が生まれるというイメージが語られたり、演じられたりする。また、太陽は生命の源であり、特に農耕生活では太陽の光の放射は、作物の栽培に最も必要なものである。そこで太陽が衰弱し続けた後に、回復することを願う儀礼が、世界的に広く見られる。太陽を神とすれば、その神の死と再生である。儀礼を通じて、太陽の再生によって世界全体が再生することが、象徴的に体験される。十字架上におけるイエスの死と再生は、こうした大地や植物、太陽等の自然神の死と再生とパターンが同じであり、象徴が重合していると考えられる。
 哲学者フリードリッヒ・ニーチェは、キリスト教を奴隷道徳だとして非難し、19世紀末のヨーロッパで「神は死んだ」と宣告し、衝撃を与えた。プロテスタンティズムを背景に持ち、近代科学の知識に触れたニーチェは、イエスの復活と再臨を信じず、来たるべき2世紀におけるニヒリズムの到来を予言した。そして、ニヒリズムを超克する超人の思想を説いた。神の死のイメージに固執するニーチェは、古代ギリシャの神ディオニューソスに注目した。ディオニューソスは豊穣とブドウ酒と酩酊の神であり、別名をバッカスという。この神は死んで再生し、生命の高揚と熱狂をもたらす。ディオニューソスは、古代オリエントにおける死んで復活する神、農耕文化の大地と植物の神の例の一つである。だが、ニーチェは、さらに広く世界の諸宗教を比較研究することも、さらに深く人間の宗教心理を把握することもできず、発狂の末に死亡した。
 イエスが大地や植物、太陽等の自然神と異なるのは、まず彼が象徴的にではなく実際に肉体を持つ人間として死に、肉体を以って復活したとされることである。また、彼の復活によってその年の農作物の豊穣が実現したとするのではなく、神と人間の結びつきが復活したとされることである。また、それによって即、救済と世界の再生が実現するのではなく、将来に終末が迫っているとされることである。これらの3点は、キリスト教の独自の教義に基づく。十字架は、こうしたキリスト教の教義と信仰の独自性をよく表している。

●十字架における中心とマンダラ

 宗教学者のミルチャ・エリアーデは、世界の宗教史を研究し、多くの宗教で「聖なる中心」が強調されていることを明らかにした。「聖なる中心」とは特別の意味を持つ場所であり、この中心に関する象徴現象を、中心のシンボリズムという。中心は、死と再生、始源への回帰と世界の再生が起こる特別の場所とされる。神とされたり、神の座とされたりする。時間を超えた永遠を象徴するものでもある。神道では、この中心を神格化し、天之御中主之命と尊称する。道教では、北極星が宇宙の中心と同定され、不動の中心であり、天帝の座ともされる。
 深層心理学者のカール・グスタフ・ユングは、精神病者が描く特徴的な図像が、世界の諸宗教に広く見られることを発見し、これをマンダラと呼んだ。マンダラとは、サンスクリットで円を意味する言葉である。ユングは、マンダラを自己の超越性と統合象徴ととらえた。マンダラの図像は、円に加えて、しばしば4または4の倍数を要素とする。3の要素がさらに加わるものもある。円と4または4の倍数は、安定・永遠を暗示し、これに加わる3は、躍動・変化を暗示する。それゆえ、最も総合的なマンダラは、円、4または4の倍数及び3が一個に組み合わさった図像である。
 私は、マンダラで最も重要なのは、その図像が強調する中心であると理解している。それゆえ、中心のシンボリズムとマンダラは、同じものを異なる仕方で表現したものと考えている。
 このような見方に立つと、キリスト教の十字架は、中心のシンボリズムとマンダラが重合した象徴の一類型である。十字架は、縦横二本の木の交わる点を強調する。その交差点が「聖なる中心」を示している。十字が示す四方は、円を伴わない変形されたマンダラである。福音書に描かれたイエスは十字架の上で死に、遺体は墓に納められ、その墓から消え、使徒や信者たちの前に復活した姿を見せたとされる。それゆえ、十字架の上で直接復活したのではない。だが、象徴化された十字架は、中心のシンボリズムとマンダラが重合することによって、イエスが処刑された刑罰の道具であるだけでなく、そこで死に復活する「聖なる中心」を示すものとなっているのである。歴史的事実と心理的イメージが重合したものと理解される。

 次回に続く。

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