ほそかわ・かずひこの BLOG

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キリスト教136~カント以後のドイツ哲学とプロテスタント神学

2018-12-25 12:49:11 | 心と宗教
●カント以後のドイツ哲学とプロテスタント神学

 1789年に起ったフランス市民革命は、当初、自由とデモクラシーを実現する画期的な変革と理解され、ドイツでも支持・賛同が高まった。だが、政体の変遷と虐殺・混乱が続くなか、期待は冷めていった。さらに革命の中から登場した独裁者ナポレオンがドイツを襲った。ナポレオンは神聖ローマ帝国の西部・南部諸侯にライン同盟を結成させた。そのため、1806年皇帝フランツ2世は帝国の解散を宣言した。
 フランス革命の帰趨を見たドイツでは、自国の後進性を理解し、観念の中で理性と自我の優位を追求する思想が発達した。カントの批判哲学は一種の二元論である。カントは、感性界と叡智界、自然と自由、実在と観念を厳然と区別した。その上で、断絶をつなぐもの、根源的なものを探求した。だが、その哲学は結論の出ないままに終わった。彼の哲学に不満を持つ思想家たちは、自我を中心とした一元論による形而上学的な体系を樹立しようとした。
 フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらである。彼らの思想は、それぞれ主観的観念論、客観的観念論、絶対的観念論と呼ばれる。フィヒテとシェリングは、カントが斥けた知的直観を認め、中世キリスト教教学的な知性を復権させ、個性的な思想を創造した。ヘーゲルは、彼らが開拓した観念論の可能性を最大限に追求し、壮大な哲学体系を築いた。
 フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらに大きな影響を与えた哲学者に17世紀のバルーフ・スピノザがいる。スピノザは、「延長のある物体」と「思惟する精神」は相互に独立した実体とする物心二元論の哲学を樹立したデカルトに対し、実体を自己原因ととらえ、無限に多くの属性から成る唯一の実体を神と呼び、神以外には実体はないとした。所産的自然としての個物は、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることができないものとし、すべての事物は神の様態であるとした。そして、神は万物の内在的原因であり、すべての事物は神の必然性によって決定されていると説いた。また、延長と思惟はデカルトの説とは異なり、唯一の実体である神の永遠無限の本質を表現する属性であるとした。延長の側面から見れば自然は身体であり、思惟の側面から見れば自然は精神である。両者の秩序は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとした。こうしたスピノザの思想は、一元論的汎神論といわれる。スピノザはユダヤ教の側から破門にされ、キリスト教の側からは危険人物視された。だが、その神即自然の思想はドイツ観念論哲学の形成に決定的な役割をはたした。
 ドイツ観念論の哲学者のうち、最もキリスト教神学の発展に影響を与えたのは、フリードリヒ・シェリングである。シェリングは、自然に対して深い関心を示し、自我と自然の相互浸透を論じる自我哲学と、有機体を自然の最高形態と見なす自然哲学を説いた。また、「人間の意識も自然も同じ『世界精神』の現れであり、この絶対者は芸術的、知的直観によってとらえられる」として、神と人間、絶対者と有限者は「あらゆる媒介なしに根源的に一つである」とする同一哲学を説いた。だが、無差別の絶対者からどうして人間や自然という有限者が生まれるのか、という問題が残る。絶対者から人間や自然が分離された瞬間、絶対者は有限者となってしまう。この点を掘り下げたシェリングは、『人間的自由の本質』(1809年)で、神の実存と実存の根拠を分け、実存の根拠を「神のうちの自然」と定義し、諸事物は神の実存の根拠から生成するとした。そして、人間の自由に悪を行う可能性があるのは、神の実存の構造に基づくとした。
 1830年代のシェリングは、従来の哲学は「あるものが何であるか」に関わるのみで、「有るとはどのような事態であるか」について答えていないと指摘した。そして、事物の本質を論じるだけの理性の哲学を消極哲学として、これを批判し、事物の実存を解明する積極哲学を標榜した。
 こうしたシェリングの哲学は、ロマン主義神学及び自由主義神学の祖とされるシュライエルマハーに影響を与えた。また、彼の実存に関する思考は、20世紀に入ってハイデッガー、ヤスパース等に大きな刺激を与え、またティリッヒの実存主義的神学にも影響を与えている。

●ドイツ観念論を極限まで進めたヘーゲル

 ドイツ観念論を極限まで進めたのは、ゲオルク・W・F・ヘーゲルである。ヘーゲルは、スピノザの唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた。ヘーゲルは、『精神現象学』において、「絶対知」という概念を提出し、人間理性は精神の弁証法的な上昇運動によって神的理性に達し得ることを主張した。そして、絶対精神の自己展開としての体系的な哲学を構築した。
 ヘーゲルは、感覚から始まる人間知の歩みは、絶対知にまで到達しなければならないと考えた。「宗教の最高段階であるキリスト教は、人間知の絶対性を内容としながらも、神人一体の理念をイエスという神格に彼岸化し、その内容を表象化している。この彼岸性・表象性・対象性を克服したところに絶対知が成り立つ」とした。宗教と哲学とは同一内容の異なった形式であり、宗教はまだ絶対知ではない。「哲学は人間知の絶対性にまで達成しなければならない」と説いた。
 啓蒙主義によって、近代西洋人は、人間理性への自信を強め、自信のあまり、人間の知力でできないことは何もないかのような錯覚を生じ、人間が神に成り代わったかのような傲慢に陥った。人間がすべてを知り得るという思想は、人間理性が全体知と絶対的真理を知り得るというヘーゲルでその頂点に達した。
 ヘーゲルは、「これまでの哲学史を貫く一本の『太い糸』を発見して、これを合理的法則によって説明しなければならない」と考え、その「太い糸」をイデー(理念)と名づけた。イデーは、プラトンのイデアを継承したものである。
 プラトンのイデアは、現象界の事物の原型・模範であり、超感覚的で永遠不変の真実在を意味した。道徳、存在、自然等の統一的で超越的な原理だった。ヘーゲルのイデーは、「人間の理性によって到達し得る最高の真理」を意味し、その点ではプラトンのイデアに通じるが、人間の歴史において顕現し、自己発展するとした点が独特である。ヘーゲルのイデーは、人類の歴史の中に顕現して弁証法的に自己発展していく絶対精神とされた。ここで弁証法的とは、神の原初的同一性が疎外(外化)され、これが止揚されてより高い同一性に還帰するという過程的な構造をいう。
 こうしたヘーゲルの思想の核心は、キリスト教の信仰に基づくものであり、彼流にキリスト教の教義を哲学的に体系化したものである。その教義とは、父と子と聖霊の三位一体説を核心とし、原罪による楽園追放、神の独り子イエスによる贖罪、神と人の再結合という展開を持つ。ヘーゲルは、神は実体にして主体であると規定して、その疎外(外化)と還帰の弁証法の論理による絶対的観念論を体系化したのである。
 叡智界に想定されるイデアが現象界に歴史的に展開するというヘーゲルの発想も、キリスト教から来ている。キリスト教は始源から終末に向かう直線的な歴史における救済を説く。ヘーゲルはその宗教的な歴史観を哲学で表現したのである。ただし、ヘーゲルにおいて、歴史の目標は終末論的な未来にはない。絶対精神が哲学的思惟によって自己自身に到達得るところの歴史の過程そのものなのである。その点では、歴史の見方において、根本的にはキリスト教的でありつつ、実質的に脱キリスト教化しつつあるものである。それゆえ、ヘーゲルの絶対観念論による壮大な体系は、キリスト教に関する基本的な理解が変わると、崩壊に向かう可能性を秘めていた。

 次回に続く。

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