ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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靖国合祀、国が主導という新資料

2012-01-25 08:54:43 | 靖国問題
 戦争犯罪に問われた軍人の靖国神社への合祀は、国が主導し、先に地方の護国神社で合祀が進められていたことを示す新たな資料が出てきたという。まずそれを伝える記事を引用する。

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●朝日新聞 平成24年1月24日号

http://www.asahi.com/national/update/0121/TKY201201200767.html
靖国戦犯合祀、国が主導 地方の神社から先行

 戦争犯罪に問われた軍人らの靖国神社への合祀(ごうし)について、旧厚生省が日本の独立回復翌年の1953年に、公的援護制度の拡充などに応じて順を追って無理なく進める、との方針を決めていたことが同省の内部資料でわかった。方針に沿って、先に地方の護国神社での合祀を目指すとの記述もあり、朝日新聞が調べたところ、6カ所でA級戦犯3人を含む先行合祀の記録が残っていた。
 天皇や閣僚の参拝や、戦争責任をめぐる議論を起こしてきたA級戦犯合祀の原点となる方針が、独立回復に際して政府内で練られていたことになる。
 政府は従来、国会答弁などで、戦犯合祀は「靖国の判断」とし、宗教行為である合祀には関与しておらず、政教分離を定めた憲法に反しないとの姿勢を強調してきた。だが、今回の文書で、終戦までと同様、政府が合祀という靖国の根幹領域に立ち入って方針を定め、戦犯合祀の環境をつくり上げたことがわかった。(略)
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 この記事によると、これまで政府は靖国神社が独自に合祀を判断したと答弁してきたが、誤りまたは偽りだったことになる。私は上記の記事から、独立回復直後の旧厚生省はまともな考えで行政事務を進めていたと理解するが、朝日新聞は、政府が「戦犯」合祀を進めたと批判するために書いているのだろう。旧厚生省の資料を見て内容を検討する必要がある。

 元「A級戦犯」合祀の経緯については、拙稿「冨田メモの徹底検証」の「補説1 靖国問題と元『A級戦犯』合祀の経緯」等に書いた。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08k.htm
 戦後も、靖国神社に誰を祀るかということには厚生省がかかわってきた。選考は厚生省(現・厚生労働省)・都道府県が行い、靖国神社が祭神として合祀するかどうかを決定する仕方で、官民一体の共同作業が行われた。
 昭和34年(1959)に最初の元戦犯の合祀が行われた。まずBC級の人々からだった。「A級戦犯」とされた14人については、昭和53年秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀された。この合祀が、一般に知られたのは翌54年4月19日の新聞報道だった。わが国では元「A級戦犯」の合祀が定着していたが、昭和60年に突如として始まった中国の批判によって、問題にされるようになった。
 戦後、靖国神社に合祀される人の基準は、法律に根拠がある。国会が制定した戦没者遺族援護法及び恩給法とその関連法が、関係法である。国会は、昭和28年8月、いわゆる戦争犯罪人は国内法的には犯罪者ではなく、法務死者とみなすことを決議した。それによって、国は、元戦犯の遺族にも年金を支払うなどを行ってきた。行政府は、立法府がつくった法律に基づいて、行政事務を行なう。管轄官庁は、厚生省(現厚生労働省)だった。
 今回、旧厚生省の内部資料で新たに分かったというのは、同省は昭和28年に公的援護制度の拡充などに応じて順を追って無理なく進める、との方針を決めていた。そして34年の最初の元戦犯合祀にいたったという点だろう。

 戦後、厚生省は、日本遺族会からの「戦没者靖国合祀」の要望によって、戦没者の靖国神社への合祀に協力する事業を行なった。この事業は、合祀事務協力事業と呼ばれる。担当部局は、引揚援護局(当時)だった。
 厚生省引揚援護局は、戦傷病者戦没者遺族等援護法と恩給法の適用を受ける戦没者の名簿を作成し、その名簿を靖国神社に提出した。昭和31年から46年まで、名簿提出が続けられた。
 この名簿は、引揚援護局の課長名による通知として送られた。その通知が「祭神名票」と呼ばれる。
 靖国神社は「祭神名票」をもとに、その年に合祀する人々の名簿を作成する。それが「霊璽簿(れいじぼ)」である。この作成の際、もう一つ「上奏簿」を作成する。一定の書式に則って奉書に墨で清書し、絹の表紙でとじたものだという。上奏簿とは、天皇に上奏するための名簿である。
 靖国神社は戦前も戦後も、毎年合祀の前には必ず上奏簿を作成して、上奏簿を宮内庁にお届けし、天皇に上奏してきたという。戦前は、祭神の合祀は天皇の裁可を受けた。戦後も、上奏が慣例として行われた。
 「祭神名票」は、国会が制定した法律を基準として行政当局が合祀されるべき人を選定し、書面として作成したものである。靖国神社は「祭神名票」を受け、それをもとに合祀者の名簿を作る。靖国神社は、「祭神名票」に載っていない人を、独自に合祀するのではない。

 昭和41年、厚生省から靖国神社に祭神名票が提出された。その中に、14柱の元「A級戦犯」の名前が含まれていた。そもそも祭神名票の提出は、事務次官らの承諾を得ずに行われ、元軍人が多かった援護局の独断だったという説がある。しかし、援護局の課長名で出だされた通知は公式文書であり、民間団体は国からの通知として受理する。
 こういう事務に何か問題があれば、厚生省で業務の改善がされるなり、国会で法律が改正されるなりしたはずである。実際には、31年からずっと同じように通知が出されていた。41年の通知も同様にされた。

 靖国神社による元戦犯の合祀は、厚生省が提出した名簿に基づくものであり、厚生省の名簿は、国会の決議や諸外国の承認を踏まえて作成されたものである。だから、靖国神社が元「A級戦犯」を「戦争による公務死亡者」として合祀したことは、法律に基づき、行政の通知に従って実行したものである。このこと自体は、靖国神社が批判を受ける立場にない。
 元「A級戦犯」の合祀を不適当と言う者は、厚生省の名簿への記載、さらにその元になっている国会決議を批判すべきであろう。そこまでしないで分祀・新施設等をいう政治家は、国民を欺くものである。

 先に引用した朝日新聞の記事は、戦争犯罪に問われた軍人らの靖国神社への合祀について、旧厚生省が日本の独立回復翌年の昭和28年(1953)に、公的援護制度の拡充などに応じて順を追って無理なく進める、との方針を決めていたという。この決定は、昭和28年8月に、国会がいわゆる戦争犯罪人は国内法的には犯罪者ではなく、法務死者とみなすことを決議したことによるものだろう。旧厚生省の資料には、その方針に沿って、先に地方の護国神社での合祀を目指すとの記述もあり、朝日新聞が調べたところ、6カ所でA級戦犯3人を含む先行合祀の記録が残っているという。先行合祀は、国会決議に沿った行政事務の一環と考えられる。
 朝日の記事は、「『A級戦犯』合祀の原点となる方針が、独立回復に際して政府内で練られていたことになる」と書いているが、この方針は、国会決議に基づくものであって、政府当局として当然の動きである。また「今回の文書で、終戦までと同様、政府が合祀という靖国の根幹領域に立ち入って方針を定め、戦犯合祀の環境をつくり上げたことがわかった」とも書いている。その文書を読んでみないとわからない部分があるが、先に合祀の経緯を書いたように、合祀は官民一体の共同作業として進められたものである。問題は、政府が元戦犯の靖国合祀を主導したことではなく、昭和60年以降、中国から筋違いの批判を受けて、歴代首相が参拝を自粛したり、政府が誤りまたは偽りの答弁をしてきたことにあるのである。

関連掲示
・拙稿「冨田メモの徹底検証」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08k.htm
 目次から「補説1 靖国問題と元『A級戦犯』合祀の経緯」

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