ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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ユダヤ59~アメリカにおけるユダヤ人の増加

2017-06-07 08:56:24 | ユダヤ的価値観
●アメリカにおけるユダヤ人の増加

 20世紀前半の世界の歴史において、ユダヤ人が最も活躍するようになったのは、アメリカにおいてである。そこでまずアメリカに関することから書く。続いて、イギリス、ロシア、ドイツ、東欧について書く。
 アメリカへのユダヤ人移民には、三つの大きな波があった。
 第1の波は、15世紀末にスペイン・ポルトガルから追放されたユダヤ人が、ブラジル経由でニューアムステルダム、後のニューヨークに移住したことである。この点は、先に書いたところである。イギリスから独立して建国されたアメリカ合衆国は、西欧以上にユダヤ人が自由と権利を得て活動できる希望の国となった。
 移民の第2の波は、1830年代にドイツ語圏の中央ヨーロッパから、ユダヤ人が多く移住したことである。移民の中から、商人、銀行家、卸売業者等で成功した者が多く現れた。この時期にアメリカに移住して成功したドイツ系ユダヤ人の代表的な存在が、ゴールドマン=サックス社の創業者マーカス・ゴールドマンである。行商からはじめて衣服店を開き、資金を増やして、後にウォール街の金融業界で屈指の大物になった。またクーン・ローブ社の創設者エイブラハム・クーンとソロモン・ローブもドイツ系ユダヤ人である。共同で雑貨商を営み、後に金融業界で名を上げた。 南北戦争後に、リンカーン政府の財政を支えたジョゼフ・セリグマンも、同時代のドイツからの移民ユダヤ人だった。J&W・セリグマン社は、モルガン、ロスチャイルド等と連合して、ヨーロッパに進出し、「アメリカのロスチャイルド」と呼ばれた。彼らの他に、ジーンズのリーヴァイ・ストラウス、通信販売のリチャード・ウォーレン・シアーズ、百貨店のローランド・ハッシー・メイシーらも、第2波の移民の中の成功者である。
 移民の第3の波は、1880年以降、ロシアやポーランド、ルーマニアなどの東欧から多数のユダヤ人がアメリカに移住してきたことである。貧困にあえぐ者や、工業化の進行で技術的失業の犠牲になった者や、ロシア皇帝のユダヤ人に対する迫害に苦しむ人々が新天地を求めたのである。1880年までアメリカのユダヤ人は、ドイツ系ユダヤ人が主だったが、ロシア・東欧からのユダヤ人が突然、渡来し始め、1881年から1920年までの40年間に、約200万人のユダヤ人がアメリカに入国した。その約70%はロシアから、25%はオーストリア・ハンガリーとルーマニアから、それぞれ移住してきた。彼らの多くは、第2波の移民に比べると、貧困や教養の低さ等が特徴である。第2波の移民で成功した者たちは、第3波の移民を蔑視した。ユダヤ移民の中にも、移民の時期、出身地域、背景の文化等によって、階層の違いが生まれた。

●WASP支配の社会でのユダヤ人の上昇

 アメリカへの移民が第1波、第2波、第3波と繰り返されるにつれて、国民の出身地域が多様になっていった。イギリス・アイルランドから南欧諸国や中欧へと広がり、19世紀末にはロシアや東欧から大量に流入した。それとともに徐々に、建国以来のWASP(ホワイト=アングロ・サクソン=プロテスタント)の支配が緩み出した。そこにユダヤ人が支配集団に食い込んだり、社会階層を上昇したりする余地が生じた。このWASP支配の時期からユダヤ人の参入・融合の過程を、建国の時代に遡って概観しよう。
 アメリカの独立宣言について先に書いたが、実は独立宣言は人間一般の平等をうたったものではなかった。インディアンや黒人は対象から除かれていた。「領主=奴隷主」であるような「領主民族」としての白人の平等を宣言したものだった。白人は差異の確信を、最初はインディアン、次いで黒人の上に固定した。そして、白人/黒人の二元構造が出来上がった。そのような構造を持つ米国のデモクラシーを「領主民族のデモクラシー」という。
 「領主民族」の中心であるWASPは、白人種には許容的である。白人であればアングロ・サクソン系でなくとも、プロテスタントに改宗した者は、WASPに準じた扱いをする。イタリアやアイルランド等からの移民は、カトリックである。プロテスタントが主流のアメリカでは、カトリックは非主流である。だが、カトリックからプロテスタントに改宗すれば、社会階層を上昇することが以前より容易になる。
 アメリカでは、ヨーロッパ各地から移住したプロテスタントは、様々は宗派に分かれている。その各宗派は社会階層に対応するという構造ができた。下層から上層へ順に挙げると、バプティスト、ルーテル派、メソディスト、長老派(プレスビテリアン)、会衆派、監督派(英国国教会系)となるといわれる。WASP以外の白人がプロテスタントになる場合、自らの階層によって宗派を選ぶ傾向がある。また社会階層を上昇するに従い、上の階層に対応する宗派に宗旨替えしていく傾向が見られる。宗派ごとに居住地が違うので、改宗によって居住地を変える移動も見られる。
 WASPを中心とするキリスト教白人社会は、多様性と流動性を持っていた。そこにユダヤ人が参入していく余地があった。
 白人種を「領主民族」とするアメリカ国民は、建国後、広大な西部への開拓を行った。新大陸に移住したピルグリム・ファーザーズ以来、彼らはフロンティア・スピリットを持ち続けた。フロンティア・スピリットは、開拓者精神である。未開拓地を開拓する進取・積極・実力重視などを特性とする。また、ピューリタニズムとフリーメイソン思想に裏付けられている。ピューリタニズムとフリーメイソンについては、先に書いた。白人キリスト教徒は、ピューリタニズム、フリーメイソン思想、フロンティア・スピリットが融合したアメリカ的な信念を広めることを神から与えられた使命感を感じた。これを「明白な使命(マニフェスト・デスティニー)」という。
 「明白な使命」は、ユダヤ=キリスト教的な観念である。西部を開拓し、さらに太平洋に乗り出して、アジア諸国に進出することは、ユダヤ=キリスト教的な神の正義を広めることだった。この使命感のもと、白人種は先住の異教徒であるインディアンを徹底的に虐殺した。そこには、古代ユダヤ人が異教徒を殺戮したことに通じる心理がうかがわれる。建国の祖ピルグリム・ファーザーズは、アメリカの地を新しいエルサレムとみなし、古代ユダヤ人にならって自らを神から選ばれた者と考えたのである。しかし、こうしたアメリカの「明白な使命」という観念は、WASPを中心とする白人社会が抱いたものであり、19世紀末からの大量移民によって国民が多民族化し、WASPの支配が緩むとともに、だんだん薄れていく。
 アメリカのキリスト教白人社会は、多様性と流動性を持っている。その社会において、ユダヤ教からプロテスタントに改宗し、キリスト教徒として社会階層を上がっていくユダヤ人が増えていった。ユダヤ教徒の中では、改革派は資本主義社会でユダヤ人が活躍するのを容易にした。クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフは、改革派のラビの息子であり、アメリカのユダヤ人社会で改革派の主導権の確立を進めた。同商会の共同経営者となったポール・ウォーバークらも改革派信者だった。彼らはユダヤ教徒のままで、支配集団に参入していった。

 次回に続く。

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