ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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仏教93~天台宗・真言宗の共通点

2020-12-17 10:29:19 | 心と宗教
◆天台宗・真言宗の共通点

(1)平安時代の主流に
 平安時代の仏教は、シナから新たに摂取した密教が中心となった。密教は、加持祈祷を行って、現世利益を成就する。それが貴族を中心に受け入れられ、平安時代の仏教の主流となった。鎮護国家の役割を担うとともに、貴族の私的な祈願にも応えた。

(2)山岳仏教で、政治に距離を置く
 奈良仏教は都市仏教だった。寺院は平城京という国家の中心都市に存在し、僧侶はつねに政治に関わる環境にあった。仏教は政治に従属していた。これに対し、天台宗は比叡山、真言宗は高野山等の山岳に主な寺院を置く山岳仏教である。政治に一定の距離を置き、宗教の自立性を確保したうえで、国家の護持の儀礼を行った。また、王法と仏法は対等で相互依存の関係にあるとし、「王法と仏法は車の両輪のごとし」と説いた。

(3)現世を否定せず、現実を肯定する
 真言宗は、現世において成仏できるという即身成仏を説く。それゆえ現世を否定せずに肯定する。その思想は、如来蔵及ないし仏性の思想に基づく。
 如来蔵思想は、衆生を「その胎に如来を宿すもの」ととらえる。心は本来清浄なものだとする自性清浄心(しょうじょうしん)と、それが一時的に煩悩が付着して汚れているとする客塵煩悩染(ぼんのうぜん)という考え方による。また、仏性思想では、衆生には、仏と同じ本性、または仏となるべき要因が備わっているととらえる。衆生が仏陀の教えを学び、その教えを実践することによって、悟りに達することができるのは、そうなり得る可能性がもともと内在しているからだという考え方による。
 こうした思想を論理的に徹底したところに、天台本覚思想が現れた。この思想は、現実の世界や人間の心がそのまま真理であり、迷いと悟りを同一のものととらえる。人間の現実をそのまま肯定する思想である。天台本覚思想については、後の項目に詳しく書く。

(4)貴族の仏教
 平安時代の仏教は、貴族の仏教といわれる。多くの貴族が特に密教に帰依し、仏教を保護した。貴族による寺院の造営、貴族のための祈祷や法会が盛んに行われた。
 また、貴族から出家する者も多かった。比叡山では、出身や門閥を重視する風潮が生まれ、貴族の子弟が優遇され、修行で得た徳によってではなく、もとの身分の高さによって、上位の僧官・僧位を得るという悪習が広がった。

(5)難行苦行から堕落へ
 天台宗・真言宗は、難行苦行を行なう。延暦寺の修行規定である『山家学生式(さんげがくしょうしき)』は、一人前の僧になるには、12年間の籠山行と、その間一千日間の廻峰行が必要だとしている。また、修行僧は、その間、難解な教義・経典を研究しなければならない。こうした厳しい修行と高度な学問についていけない僧が増えるに従い、天台宗・真言宗の寺院は一般社会以上に俗悪化することになった。さらに権力や富や快楽に惑い、堕落する傾向にさえ陥ったのである。(4)に書いた出身や門閥の優る者が上位の僧官・僧位を得る悪習が、この俗悪化、堕落に拍車をかけた。

◆出家ではない皇族・貴族の入道

 平安時代には、天皇が譲位した後、仏教に帰依することが行われるようになった。これを出家ということが多いが、正確には入道というべきものである。
 入道とは、出家・剃髪して仏道に入ることである。また、そのようにして仏道に入った者のことをいう。それゆえ、本来は、出家と同じ意味である。ところが、日本では、皇族や三位以上の貴族等が仏門に入ることを入道といい、そうした人への敬称としても、入道を使うようになった。この意味での入道は、出家者ではない。在家のまま剃髪して僧衣を着けて、仏道を求める者についていう。外観は僧形だが世俗的な生活を行う者である。
 歴代の天皇で、天皇の御位にある間に、入道になった例はない。天皇は、もともと神道の祭祀を司る祭祀王であり、神道における最高位の祭司である。それゆえ、天皇が在位中に出家して仏教に帰依することはできない。聖徳太子以来、皇室では、神道を根本として神仏習合が進んだ。宗教儀礼のうち、最重要部分は神道の礼式作法で行い、それ以外の一部は仏教で行った。神道の儀礼を司りながら、仏教の教えを実践することが普通になった。
 天皇が譲位すると、太上天皇または上皇と呼ばれる。歴代天皇の中には、上皇になってから剃髪して、仏教に帰依した例が多くある。仏教に帰依した上皇は、太上法皇または法皇と呼ばれる。法皇は、出家して皇族の身分を離れて僧侶の身分になったわけではないので、出家者ではなく「入道した上皇」である。
 上皇や法皇の住居である御所を「院」と呼ぶ。そこから上皇や法皇を、「〇〇院」と呼ぶようになった。また、上皇や法皇が院庁で国政を行う政治形態を院政と呼ぶ。法皇の場合は、「入道した上皇」が俗世の政治を取り仕切ったわけである。
 歴代天皇で最初に法皇になったのは、平安時代中期の第59代宇多天皇である。宇多天皇は、887年(仁和3年)に即位し、897年(寛平9年)まで在位した。その後、剃髪して法皇と称し、931年(承平元年)に崩御した。その後、多くの法皇が出た。最後の法皇は、江戸時代中期の第112代霊元天皇である。
 法皇は、僧の姿をしているが、俗人として生活する。僧侶は、原則的に妻帯・女犯を禁じられるが、法皇は俗人であるから、その禁止の対象ではない。平安時代末期の後白河天皇は譲位して上皇になり、続いて1169年(嘉応元年)に法皇になった。その後、1181年(治承5年)に子供が生まれている。皇女・宣陽門院である。
 平安時代末期には、皇族に叙された武士が仏教に帰依した者も、入道と尊称するようになった。最も有名なのは、平清盛である。1168年(仁安3年)に51歳で入道し、「清盛入道」と呼ばれた。剃髪し僧衣をまとっても、平氏の中心として、六波羅第で権力を振った。また、入道の立場で戦争の指導をした。
 わが国では、平安時代から出家と在家、僧尼と俗人が峻別されない傾向が生じた。入道となった天皇や貴族や武士の例は、そのことを示している。また、これは、仏教界に、僧形を取りながら世俗的な生活を送って権力を振う者を容認したり、これに追従したりする姿勢があったことを意味している。

 次回に続く。

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