●罪と最後の審判
ユダヤ教では、神の意思に反することが罪である。具体的には、十戒を代表とする律法に定められた命令への違反である。特に重罪とされるのが、偶像礼拝、姦淫、殺人、中傷の四つである。
ユダヤ教は、人間は罪を犯しやすい弱い存在であるとする。憐れみ深い神は、悔い改めた罪人を必ず許す。しかし、正義の実現を目ざす神は、各人の責任を死後にも追及する。そこで、この世の終りに、神はメシアを派遣して神の王国の建設を準備させる。その後に新しい世界が始まると、すべての死者はよみがえり、生前の行為に応じて最後の審判を受ける。その結果、罪人は永遠の滅びに落とされ、義人は永遠の生命を受ける。
ここで注意すべきは、新しい世界は死後の来世としての天国ではなく、地上に建設される神の王国であることである。義人は天国ではなく、地上において永遠の生命を与えられる。心霊的存在ではなく身体的存在として、地上に永遠に生きると考えられている。
●天国と地獄
ユダヤ教の聖書には、天国という明確な概念がない。天国が空間的・場所的にどこにあるかは、具体的に記されていない。ユダヤ教では、天国は「国」「領域」というよりは、「神の支配」を意味する。神が統治者としてこの地上に君臨すること、あるいは神の意思を地上に実現することが、天国にほかならない。来世の天国ではなく、地上天国である。霊的な次元ではなく、また地球外の場所でもない。
地獄もまた明確な場所の概念ではない。神から離反している状態が、地獄と考えられる。
●死生観
ユダヤ教では、原罪に対する罰として、死をとらえる。原罪によって、人間は死すべきものとなり、死によって土に還る定めを負ったと理解する。
死後については、多くの宗教に見られるような死後の世界は、明示されていない。死の観念はあるが、現世とは別に存在する死後の世界という考え方がない。死後、別の世界に移り、その来世で報われるという考えがないのである。そのことから、ユダヤ教では、人は死んだ後、メシアの到来と最後の審判までの間、一種の休眠状態または停止状態に入ると理解される。メシアの到来で開かれる新しい世界も、地上に建設される神の王国であって、多くの宗教で死後の世界とされる霊界とは異なる。
それゆえ、ユダヤ教の死生観にみられるのは、強い現世志向である。この世での人生を何よりも大切に考えて生き、その人生の結果として最後の審判で地上において永遠の生命を得ることを目標にするのが、ユダヤ教徒の生き方と理解される。
●メシアとイエスへの評価
ユダヤ教では、今後メシアが出現することが期待されている。メシアは主すなわち神ではない。人間であり、ダビデの子孫とされる。それゆえ、「救済者」であって、「救世主」と訳すのは、厳密には誤りである。メシアは、神と新しい契約を結び、王国を復興して神殿を再建する。離散したユダヤ人を世界各地から呼び集める。イスラエルを率いて、世界を統治する。このような役割を果たすべき宗教的指導者であり、また政治的指導者が、メシアである。
キリスト教がメシアは既にイエス=キリストとして現れたとするのに対し、ユダヤ教はそれを否定する。キリスト教はイエスをメシアとしてのキリストとし、イエスに神性を認め、アダムの原罪から人間を解放したとする。すなわちイエス=キリストは、ただの救済者ではなく「救世主」とされる。だが、ユダヤ教はイエスをメシアとみなさない。またイエスを「主」とも「神の子」ともみなさない。イエスは人間であり、律法に背いた犯罪者とみる。
キリスト教徒は、イエスをキリストだとする最大の根拠として、『イザヤ書』53章を挙げる。そこには、第2イザヤの預言として、主すなわち神によって、人々の咎を負わせ、主の御心を成し遂げる者が現れることを述べた一節がある。すなわち、同章4~6節に「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とある。キリスト教徒は、この預言はイエス=キリストの出現を述べたものと解釈する。
だが、ユダヤ教徒は、キリスト教徒の解釈は間違いであり、その記述はイエスの出現を預言したものではないと断じる。
●隣人愛
紀元後2世紀のラビ・アキバは、ユダヤ教史上最高のラビと言われる。アキバはユダヤ教を一言で言うと、『レビ記』19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」であると述べている。ユダヤ教の隣人愛をユダヤ教徒に限らぬすべての人間への愛と考える解釈があるが、ユダヤ教徒の実践はそうなっていない。
イエスもまた「汝の隣人を愛せよ」と教えたが、ユダヤ教における隣人とは、ユダヤの宗教的・民族的共同体の仲間である。仲間を愛する愛は、選民の間に限る条件付つきの愛である。人類への普遍的・無差別的な愛ではなく、特殊的・差別的な愛である。なぜなら彼らの隣人愛のもとは、神ヤーウェのユダヤ民族への愛であり、その神の愛は選民のみに限定されているからである。ユダヤ教徒の隣人愛が普遍的・無差別的な人類愛に高まるには、神ヤーウェによる選民という思想を脱却しなければならないだろう。
次回に続く。
ユダヤ教では、神の意思に反することが罪である。具体的には、十戒を代表とする律法に定められた命令への違反である。特に重罪とされるのが、偶像礼拝、姦淫、殺人、中傷の四つである。
ユダヤ教は、人間は罪を犯しやすい弱い存在であるとする。憐れみ深い神は、悔い改めた罪人を必ず許す。しかし、正義の実現を目ざす神は、各人の責任を死後にも追及する。そこで、この世の終りに、神はメシアを派遣して神の王国の建設を準備させる。その後に新しい世界が始まると、すべての死者はよみがえり、生前の行為に応じて最後の審判を受ける。その結果、罪人は永遠の滅びに落とされ、義人は永遠の生命を受ける。
ここで注意すべきは、新しい世界は死後の来世としての天国ではなく、地上に建設される神の王国であることである。義人は天国ではなく、地上において永遠の生命を与えられる。心霊的存在ではなく身体的存在として、地上に永遠に生きると考えられている。
●天国と地獄
ユダヤ教の聖書には、天国という明確な概念がない。天国が空間的・場所的にどこにあるかは、具体的に記されていない。ユダヤ教では、天国は「国」「領域」というよりは、「神の支配」を意味する。神が統治者としてこの地上に君臨すること、あるいは神の意思を地上に実現することが、天国にほかならない。来世の天国ではなく、地上天国である。霊的な次元ではなく、また地球外の場所でもない。
地獄もまた明確な場所の概念ではない。神から離反している状態が、地獄と考えられる。
●死生観
ユダヤ教では、原罪に対する罰として、死をとらえる。原罪によって、人間は死すべきものとなり、死によって土に還る定めを負ったと理解する。
死後については、多くの宗教に見られるような死後の世界は、明示されていない。死の観念はあるが、現世とは別に存在する死後の世界という考え方がない。死後、別の世界に移り、その来世で報われるという考えがないのである。そのことから、ユダヤ教では、人は死んだ後、メシアの到来と最後の審判までの間、一種の休眠状態または停止状態に入ると理解される。メシアの到来で開かれる新しい世界も、地上に建設される神の王国であって、多くの宗教で死後の世界とされる霊界とは異なる。
それゆえ、ユダヤ教の死生観にみられるのは、強い現世志向である。この世での人生を何よりも大切に考えて生き、その人生の結果として最後の審判で地上において永遠の生命を得ることを目標にするのが、ユダヤ教徒の生き方と理解される。
●メシアとイエスへの評価
ユダヤ教では、今後メシアが出現することが期待されている。メシアは主すなわち神ではない。人間であり、ダビデの子孫とされる。それゆえ、「救済者」であって、「救世主」と訳すのは、厳密には誤りである。メシアは、神と新しい契約を結び、王国を復興して神殿を再建する。離散したユダヤ人を世界各地から呼び集める。イスラエルを率いて、世界を統治する。このような役割を果たすべき宗教的指導者であり、また政治的指導者が、メシアである。
キリスト教がメシアは既にイエス=キリストとして現れたとするのに対し、ユダヤ教はそれを否定する。キリスト教はイエスをメシアとしてのキリストとし、イエスに神性を認め、アダムの原罪から人間を解放したとする。すなわちイエス=キリストは、ただの救済者ではなく「救世主」とされる。だが、ユダヤ教はイエスをメシアとみなさない。またイエスを「主」とも「神の子」ともみなさない。イエスは人間であり、律法に背いた犯罪者とみる。
キリスト教徒は、イエスをキリストだとする最大の根拠として、『イザヤ書』53章を挙げる。そこには、第2イザヤの預言として、主すなわち神によって、人々の咎を負わせ、主の御心を成し遂げる者が現れることを述べた一節がある。すなわち、同章4~6節に「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とある。キリスト教徒は、この預言はイエス=キリストの出現を述べたものと解釈する。
だが、ユダヤ教徒は、キリスト教徒の解釈は間違いであり、その記述はイエスの出現を預言したものではないと断じる。
●隣人愛
紀元後2世紀のラビ・アキバは、ユダヤ教史上最高のラビと言われる。アキバはユダヤ教を一言で言うと、『レビ記』19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」であると述べている。ユダヤ教の隣人愛をユダヤ教徒に限らぬすべての人間への愛と考える解釈があるが、ユダヤ教徒の実践はそうなっていない。
イエスもまた「汝の隣人を愛せよ」と教えたが、ユダヤ教における隣人とは、ユダヤの宗教的・民族的共同体の仲間である。仲間を愛する愛は、選民の間に限る条件付つきの愛である。人類への普遍的・無差別的な愛ではなく、特殊的・差別的な愛である。なぜなら彼らの隣人愛のもとは、神ヤーウェのユダヤ民族への愛であり、その神の愛は選民のみに限定されているからである。ユダヤ教徒の隣人愛が普遍的・無差別的な人類愛に高まるには、神ヤーウェによる選民という思想を脱却しなければならないだろう。
次回に続く。
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