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ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

この50年6~外国人土地取得の増加、巨大地震・広域災害の発生

2022-03-20 09:12:30 | 歴史
11.外国人土地取得の増加(2008, H20頃~)
 
 日本各地で外国人・外国資本による土地取得が増加している。諸外国では一定の制限が設けられている場合が多い。わが国も戦前は、外国人土地法で、国防上必要な土地について制限していた。だが、大東亜戦争の敗戦後、すべての勅令が廃止され、同法の実効性が失われた。2008年(平成20年)に韓国資本が長崎県・対馬の土地買収などを行っていることに対して、法的整備が課題になり、ようやく2021年(令和3年)、土地利用規制法が成立した。だが、調査範囲や罰則の対象行為などがあいまいで、政令や閣議決定に委ねられており、実効性が疑われている。

関連掲示
・拙稿「外国人土地取得の規制を急げ~北海道の事例を踏まえて」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13w.htm

12.巨大地震・広域災害の発生(2011, H23東日本大震災以後)

 2001年(平成23年)3月10日、東日本大震災が起こった。戦後最大の災害となった。その年、政府の中央防災会議は、今後30年以内にM8.0クラス(関東大震災がM7.9)の地震が起こる確率を、首都直下型地震が70%、東海地震が87%、東南海地震が60%、南海地震が50%と発表した。その後の発表では発生の確率が上がり、予想される被害の規模が大きくなっている。今後、いつかは来る巨大地震に耐え、日本が存続し、繁栄を維持していくためには、防災を強化し、災害に強い日本を創ることが急務である。

関連掲示
・拙稿「東日本大震災からの日本復興構想」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13l.htm
・拙稿「日本の復興は日本精神の復興から~東日本大震災による国難を乗り越えよう」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13.htm
 目次から21へ

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

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この50年5~中国の脅威の増大、新しい「北の守り」の必要性

2022-03-18 09:04:12 | 歴史
9.中国の脅威の増大(2006, H18頃~)

 中国で作られた2050年の東アジアの予想地図には、日本の西半分(愛知県・岐阜県・石川県より西)は「東海省」、東半分は「日本自治区」と書かれている。この地図の意味は、出生率の低下で人口が減少する日本の西半分に中国人を1億人単位で移住させ、「東海省」として中国の一部とする。日本人は東半分に強制移住させ、「日本自治区」とし、これも中国の版図に組み込む、というものと理解される。背景には、アジアの覇権を目指す中国共産党の戦略があると見られる。

関連掲示
・拙稿「『フランス敗れたり』に学ぶ~中国から日本を守るために」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08l.htm
・拙稿「核大国化した中国、備えを怠る日本~日中戦後のあゆみ」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12c.htm

10.新しい「北の守り」の必要性(2008, H20頃~)

 北海道では、中国資本が各地で水資源・農地・森林等を買い占めている。少なくとも東京23区以上の面積の土地が買われている。2017年(平成29年)頃から中国では、「北海道は10年後には、中国の第32番目の省になる」という予想がされている。チベットや新疆ウイグルでは、共産党が固有の文化を破壊し、宗教を弾圧し、虐殺・虐待を行い、民族的に弱小化する政策を強行している。今やロシアからという以上に、中国から北海道を守るという、21世紀の「北の守り」を真剣に考え、行動しなければならない。

関連掲示
・拙稿「中国の日本併合を防ぐには」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12a.htm
・拙稿「外国人土地取得の規制を急げ~北海道の事例を踏まえて」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13w.htm

 次回に続く。

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 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

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この50年4~デフレと経済的停滞、皇位継承の危機

2022-03-16 08:59:36 | 歴史
7.デフレと経済的停滞(2000, H12頃~)

 わが国は1998年(平成10年)以降、デフレに陥った。デフレは継続的に物の価値が下がり、貨幣の価値が上がる現象である。これが続くと、企業は利益が上がらず、消費者は消費を控え、失業者や倒産が増え、経済は悪化し、縮小していく。戦後、先進国でデフレになったのは日本のみである。安倍政権は、アベノミクスというデフレ脱却の経済政策を実施し、日本経済は大きく回復した。だが、なおインフレ目標2%には程遠い。過去20年以上、国民の給与はほとんど上がっておらず、岸田政権は「分配と成長の好循環」を目指している。

関連掲示
・拙稿「日本経済復活のシナリオ~宍戸駿太郎氏1」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13h.htm
・拙稿「経世済民のエコノミスト~菊池英博氏」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13i-2.htm
・拙稿「『救国の秘策』がある!~丹羽春喜氏1」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13j.htm
・拙稿「デフレ脱却の経済学~岩田規久男氏」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13s.htm
・拙稿「アベノミクスの金融政策を指南~浜田宏一氏」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13t.htm

8.皇位継承の危機(2004, H16頃~)

 敗戦後、GHQの圧力によって、11宮家51方が臣籍降下し、存続したのは、直宮3家16方のみとなった。2006年(平成18年)、小泉政権下で皇位の男系継承の伝統を否定し女性・女系天皇を容認する皇室典範の改正が国会で決議されようとした。だが、同年9月6日、悠仁親王殿下が誕生され、その動きにストップがかかった。以後、悠仁様以後の皇位の安定的継承が課題となっている。昨年末、有識者会議が政府に対して、①女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持する、②養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とするという2案を中心とする報告書を出した。

関連掲示
・拙稿「皇位継承問題――男系継承への努力を」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion05b.htm
・拙稿「旧皇族には男系男子が多数~女性宮家・女系天皇は必要なし」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion05.htm
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・拙稿「安定的な皇位継承のための方策を急げ」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion05f.htm

 次回に続く。

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 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
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この50年3~公明党が連立与党に、外国人参政権付与の動き

2022-03-14 08:45:48 | 歴史
5.公明党が連立与党に(1999, H11~)
 
 創価学会は、もともと日蓮正宗によって日蓮の教えを日本の国教にすることを目指す団体である。1964年(昭和39年)に公明党を結党して政界に進出した。1993年(平成5年)に自社二大政党の55年体制が崩壊した後、非自民・非共産連立政権で政権入りした。その後、1999年(平成11年)から自公連立政権を成した。この政権は2009年(平成21年)まで続き、また2012年(平成24年)から現在まで継続中である。自民党は選挙で公明党に依存し、公明党が自民党の生命維持装置のようになっている。憲法改正、対中外交等で、公明党が足を引っ張っている。

関連掲示
・拙稿「日本的な『保守』の役割と課題~右翼・左翼・リベラル等との対比を踏まえて」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13a.htm

6.外国人参政権付与の動き(2000, H12頃~)

 2000年(平成12年)頃から、外国人に参政権を与えようとする運動が広がっている。永住外国人には、サンフランシスコ講和条約の発効で日本国籍を失った者とその子孫である「特別永住者」と、経済的基盤が日本にあることなどを条件に法相が永住許可を与えた「一般永住者」がある。参政権付与の主たる対象は、特別永住者、在日韓国人である。憲法は参政権を「国民固有の権利」と定めている。「国民」とは日本国籍を持つ者のことであり、日本国籍のない者は「国民」ではない。外国籍の人間に参政権を与えることは、明白な憲法違反である。

関連掲示
・拙稿「外国人参政権より、日本国籍取得を」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03f.htm

 次回に続く。

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 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
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この50年2~夫婦別姓の導入運動、ジェンダ-フリーの暴走

2022-03-12 08:37:23 | 歴史
3.夫婦別姓の導入運動(1990年代後半~)

 1990年代後半から、夫婦別姓導入の法制化が進められようとしている。近年は保守系の政治家の中でも、夫婦が別姓を選択できる選択的夫婦別姓を実現しようとする者が増えている。別姓を導入すると、①事実婚が増加して結婚制度が否定される、②離婚の急増によって子供が被害者になる、③夫婦別姓は親子の別姓になり、祖父母と孫の姓もバラバラになる。④老人介護や祖先の祭祀がおろそかになる、⑤その結果、家族の絆が弱まり個人主義が徹底されるようになる。ーーと予想される。結婚後も通称を使用できるように法制度を整えれば、改姓による不便さは解消できる。

関連掲示
・拙稿「家族の危機を救え!」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion02a.htm
・拙稿「男女の調和が日本再生の鍵」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03e.htm
・拙稿「夫婦別姓の導入に反対しよう」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03b.htm
・拙稿「急進的なフェミニズムはウーマン・リブ的共産主義」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03d.htm

4.ジェンダ-フリーの暴走(1996, H8~)

 1999年(平成11年)6月、男女共同参画社会基本法が制定された。その後、ジェンダーフリーの思想が席巻している。ジェンダーとは、生まれつきの男女の差ではなく、社会的・文化的に作られた性差を意味する。両性の本質的な違いを無視した考え方である。ジェンダーフリーは自然の法則に反しており、男女両性の特徴を発揮できないから、健全な子育てはできない。母親の本能的な愛情や父親の本質的な役割がともに失われてしまう。その結果、家庭教育はうまくいかなくなる。だが、欧米を中心にLGBTQの性的少数者の権利の主張と結びついて勢いを増している。

関連掲示
・拙稿「猛威のジェンダーフリーと過激な性教育」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03c.htm
・拙稿「嘘つきはジェンダーフリーのはじまり~『ブレンダと呼ばれた少年』を読む」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03g.htm

 次回に続く。

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 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
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この50年に新たに現れた諸問題1

2022-03-10 10:22:36 | 歴史
はじめに

 50年前の1972年(昭和47年)、私は、18歳、高校3年生だった。この半世紀の間に、世界は急速に変化した。
 第2次世界大戦後、長く続いた米ソの冷戦は1989年(平成元年)に終結を迎えた。ソ連は1991年(平成3年)に解体した。東欧諸国でも共産政権が次々に崩壊した。また欧米諸国が衰退の色を濃くする一方、アジアは活動発展期を迎えた。日本が1960年代に高度経済成長を遂げたのに続き、70年代には韓国、台湾、香港、シンガポールなどが急速に発展し、80年代にはタイ、マレーシア、インド等も経済開発に成功した。90年代からは、市場経済を導入した中国も経済成長の軌道に乗った。
 21世紀には、日本は今は下り坂になっているが、中国・インドが経済大国になると予想されている。アジアは、まさに世界の経済的中心地域となっている。人口、生産力、発展可能性等で他の地域を抜いている。アジアが経済的に発展するとともに、アジア諸文明の精神文化の再評価が進んでいる。
 21世紀は、西洋物質文明の欠陥を是正するため、東洋に精神文明の興隆が期待されている。とりわけ日本の精神的伝統のもつ潜在力が大きく開花する時を迎えつつある。だが、米中の覇権争いが激しさを増しており、核戦争と地球温暖化が人類の二大危機となっている。新しい文明への飛躍か、それとも自滅か。人類は決定的な岐路に立っている。
こうした時において、過去50年間に現れたそれまでにはなかった新たな諸問題を振り返っておきたい。多種多様な問題が生じたが、そのうち私がネット等で主題として取り上げたり、何らかの発言をしたものを以下に掲載する。
 国内、国際、世界の三つに分け、合計33項目となる。各項目に関連掲示として私の掲示文を掲載する。16回の連載の予定である。

<国内>

1.高齢化(1970, S45~)・少子化(1989, H1~)・人口減少(2000年代後半~)

 日本は、1970年(昭和45年)以降、どの国も経験したことのない速度で高齢化が進行している。世界で高齢者の割合が最も高く、2020年(令和2年)時点で、日本の人口の28.8%が65歳以上で、14.9%が75歳以上である。また1975年(昭和50年)に出産年齢にある女性全体の平均出生数(合計特殊出生率)が2.0を切り、少子化がスタートした。1989年(平成元年)には、「1.57ショック」が起こった。高齢化と少子化の複合によって、1999年(平成11年)から労働力人口が減少に転じ、2008年(平成20年)以降、人口減少が続いている。

関連掲示
・拙稿「脱少子化は、命と心の復活から」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion02k.htm
・拙稿「脱少子化と日本再建は一体の課題」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion02f.htm
・拙稿「少子化・高齢化・人口減少の日本を建て直そう」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion02g.htm

2.靖国神社の首相参拝(1985, S60~)

 1975年(昭和50年)昭和天皇が秋の例大祭に参拝されて以来、天皇のご親拝は途絶えている。同年8月15日、三木武夫首相が私人としての参拝を表明したため、憲法問題として公式か私的かの論議が紛糾したことが影響している。首相の靖国参拝に中国が干渉するようになったのは、中曽根首相が公式参拝した1985年(昭和60年)8月15日以降である。中曽根氏は翌年から参拝をとりやめ、その後の多くの首相は中韓に過度に配慮をし、靖国参拝を見送った。小泉首相、安倍首相は参拝したが、その後、首相の参拝は続いていない。

関連掲示
・拙稿「慰霊と靖國~日本人を結ぶ絆」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08f.htm
・拙稿「冨田メモの徹底検証」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08k.htm
・拙稿「安倍首相の靖國参拝――意義と反響」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08o.htm

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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敗戦後、朝鮮で日本人1万7千人超が惨死した

2019-03-19 08:49:37 | 歴史
 敗戦後、朝鮮半島で抑留された日本人の一般市民17,690名が惨死したことを伝える記録があります。偽りの徴用工問題より、人道上はるかに重大な問題です。
 次のブログに詳細が掲載されています。
https://tainichihate.blog.fc2.com/blog-entry-359.html#Q80eJjG.facebook_share_ninja_l
 記事は、『秘録 大東亜戦史』(富士書苑、昭和28年刊)所収の元京城日本人世話会・森田芳夫氏が書いた「朝鮮引揚史」に基づくものです。ブログの記事は 本書から引用しなから、この史実を伝えています。
 森田芳夫氏については、デジタル版 日本人名大辞典+Plusが次のように記しています。

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森田芳夫 もりた-よしお
 1910-1992 昭和時代の官吏。明治43年生まれ。京城帝大で朝鮮史をまなび,朝鮮総督府勤務のとき終戦をむかえる。戦後,外務省にはいり,14年にわたる日韓国交正常化交渉の記録にとりくむ。退職後ソウルの誠信女子大でおしえた。この間,日本人引き揚げ者からの聞き取り作業をつづけ,昭和39年「朝鮮終戦の記録」を刊行。平成4年8月3日死去。82歳。

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 ブログの記事の筆者の文章の部分から、以下抜粋して編集し、概略を紹介します。関心のある方は、ブログにて全文をお読み下さい。

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 戦後、朝鮮半島で虐殺された日本人17690名と言っても軍人ではありません。日本敗戦直後、朝鮮半島で虐殺された一般の日本人の数です。この中には赤ん坊や女性、子供も含まれています。
 在鮮日本軍人のソ連への強制連行や引揚は終戦の翌年四月までに完了しましたが、日本の民間人は「米ソ協定締結後に送還する」という理由で戦後三年間も朝鮮半島に抑留されました。
その三年間の間に、朝鮮人、米軍、ソ連軍に全財産を没収された日本人は、家もなく乞食同然に野辺をさまよいながら朝鮮人の暴力や病気、飢餓、寒さなどで次々に死んでいきました。その遺体は棺を買う金も、火葬する金もないためにコモやムシロで巻かれ土葬されました。
 戦争は終わったのに、軍人ではない民間人が抑留され、殺されたのです。(略)
 まず、米軍と朝鮮人は日本人の身ぐるみをはぐことから開始しました。朝鮮人は暴力で日本人の財産を接収し、接収後は日本人の立ち入りを禁止しました。また米軍も接収した日本人の資産を朝鮮人に管理させました。
 次に米軍は日本に引き揚げる際の手荷物を二個まで、と規定して家財や他の荷物は宅配で送る、と言って日本人から手数料を取りました。しかし日本に帰還した人の手元に荷物は届きませんでした。なぜなら、米軍と朝鮮人が荷をほどいて山分けしてしまったからです。その上、米軍は在鮮日本人がすみやかに帰国できるよう、在鮮日本人が組織した日本人世話会の資金も凍結しました。
 北朝鮮の咸興といえば、韓国ドラマにもよく登場する場所ですが、その咸興駅前で約4000人の日本人が乞食同然に寝起きしていました。ある避難民は、ワラで編んだ袋を頭にかぶって雨にふるえながら鮮人家屋からゆうげの煙がのぼるのを見た時、家族と抱き合って泣きくずれた、と言っています。そして咸興から移動させられた新中里(しんちゅうり)では、昭和21年1月までに日本人避難民6400名が死亡し、その後も一日50人平均で死んでいきました。
 咸興から富坪(ふうひょう)に移動させられた日本人避難民は零下15度という極寒にありながらムシロ一枚とわずかな配給しかなく、栄養失調、発疹チフスなどの伝染病で1431名が死亡しました。
 昭和21年1月なかば、日本人共産主義者の訴えで朝鮮側の検察が避難民の状態を視察しに来ました。しかし時すでに遅しで、富坪での日本人避難民死亡率は四割に達しました。
 咸興の近隣にある興南には日本チッソがありましたが、それも北朝鮮に接収されました。その後、日本人は工場への立ち入りを禁止され、社宅を追放されて約3000名が死亡しました。
 元山(げんざん)では日本人避難民に食糧の配給がありませんでした。ソ軍にかけあっても取り合ってくれないので、日本人は使役で働くからという条件を提示してわずかな配給を得ました。そして元山と高原では約1100名の日本人が、冬を越せずに死亡しました。
 平壌の日本人避難民は昭和20年12月から食糧の配給がなかったため、2371名が死亡しました。日本人はせまい収容所につめこまれ、仕事をすることも、持ち物を売ることも、商売も許されませんでした。
 同じ平壌に和歌山県の開拓団がいましたが、南鮮に南下する途中で娘さんが行方不明になったそうです。それに、南下途中で死んだ家族を山に埋めたりもしているで、朝鮮で死んだ日本人避難民の数は17690名よりも、もっと多いと思います。
 鎮南浦(ちんなんぽ)では約1700名の日本人避難民が死亡しました。そのうち200名は幼い子供たちで、死因は悪性のはしかでした。このはしかで、子供全員を失った母親もいたそうです。
新義州では発疹チフスが原因で日本人20名が死亡しました。
 日本が36年間統治しても、朝鮮の不衛生は改善できなかったのです。まるで伝染病の巣窟のような朝鮮に、日本人は丸裸で投げ出され、次々と死んでいったのです。
 これらの人々は朝鮮抑留がなければ、生きて日本に帰還できたはずでした。
 日本の朝鮮統治36年間の間に、朝鮮で暮らし死んだ日本人の遺骨もありました。
 これもふくめると、朝鮮半島には相当な数の日本人の遺骨があるはずです。
 日本人の資産を接収したものの自力で運営できなかった北朝鮮は、日本人に残留を強制しました。のち、ソ軍から日本人引揚が許可されますが、南鮮に進駐していた米軍が「日本人移動禁止令」を発したため、北朝鮮に残留せざるを得なくなりました。
 なぜ米軍がこんな禁止令を出したのかは不明です。
 この日本に帰りたくても帰れなかった日本人たちは北朝鮮でどうなったのでしょうか? 「なりすまし」に利用されたのでしょうか?
 「ヘイトだ!ヘイトだ!」とうるさい在日外国人は、日本人が朝鮮で受けたヘイトスピーチやヘイトクライム以上の暴力を日本で受けたことはないはずです。
 現に、共産主義思想でいまだに「侵略」呼ばわりする資本主義国日本にコッソリ上陸して、戦前と同じように日本の福祉に寄生してヌクヌクと暮らしている。生命が奪われることもない。残留を強制されたり、抑留されているわけでもない。なのに日本の都市には在日外国人の言うことを聞いて、「ヘイトスピーチ抑止条例」などというバカな条例を制定してしまう所もある。本当のヘイトというのは、日本人が朝鮮で受けたヘイトクライムのように完全無視されて存在を否定され、生存権を奪われることです。
 日本人は朝鮮を近代化し、米の増産にも成功した。その結果がこの対日ヘイトだったことを、日本人は決して忘れていません。

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ヤルタ密約にチャーチルは疑義を抱いていた

2018-07-01 08:40:53 | 歴史
 ロシアは、旧ソ連時代からヤルタ密約を北方領土領有を主張する最有力の根拠としてきました。ヤルタ密約とは、ヤルタ協定のうちの極東密約をいいます。
 ヤルタ密約は、米英ソ三カ国の首脳が交わした軍事協定にすぎず、条約ではなく国際法としての根拠を持っていません。当事国が関与しない領土の移転は無効という国際法にも違反しています。日本政府は「当時の連合国の首脳間で戦後の処理方針を述べたもので、領土問題の最終処理を決定したものではなく、当事国として参加していない日本は拘束されない」(平成18年2月8日、国会答弁)との立場をとっています。
このヤルタ密約の有効性について、英政府が大戦終了後の昭和21年(1946)2月に、疑念を示していたことが、平成28年(2016年)12月英国立公文書館所蔵の英外交電報によって明らかになりました。
 電報は、米英ソ3か国が密約を公表する2日前の2月9日に、英外務省から全世界の在外英公館54カ所に「緊急かつ極秘」に一斉に送られたもの。電文は、冒頭に「ソ連のスターリン首相、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相が45年2月11日にクリミア会議(ヤルタ会談)でソ連の対日参戦条件について極秘に合意した密約内容の文書が含まれる」と記し、米英ソ3政府が合意から1年後にあたる46年2月11日に、それぞれの議会で合意文書を発表すると述べました。そして、「ソ連の樺太、千島列島の占拠は日本が敗戦するという文脈の中で取り扱われるべきだ」とした上で、「ルーズベルト大統領が権限を越えて署名したことや、米上院の批准もない状況下での有効性について米国内で論議が起こるかもしれない」として、「(英国は)その議論に巻き込まれないよう注意すべきだ」と警告しているとのことです。
 チャーチル首相は、昭和16年(1941)8月、ルーズベルト大統領と領土不拡大の原則をうたう大西洋憲章に署名しています。今回見つかった英国政府の電報は、昭和21年(1946)当時から、英国政府はヤルタ密約が大西洋憲章に反するとの認識を持っていたことを示唆しています。
 さらに、続いて、チャーチル首相が、ヤルタ密約について、「米ソ首脳が頭越しで決定した。両国との結束を乱したくなかった」と、不本意ながら署名したことを示唆する個人書簡が英国立公文書館で見つかりました。
 この書簡は、昭和28年(1953)2月22日付で、イーデン外相に宛てたもの。この中でチャーチル首相はヤルタ密約について、ルーズベルト米大統領とソ連のスターリン首相が「直接取り決めた」とし、「全ての事項がすでに(米ソで)合意された後に昼食会で知らされた」「私たちは(取り決めに)全く参加しなかった」と主張し、英国の頭越しに米ソ間で結ばれたと強調していると報じられます。
 チャーチルが密約に署名した昭和20年(1945)2月の時点では、連合国は欧州ではヒトラーのドイツとの戦いで最終局面を迎え、対日戦線でも結論が見通せなかったため、米ソ両国との「結束を乱したくなかった」と述べて、チャーチルは融和を優先したと釈明しているとのことです。
 これまで、ヤルタでの協議に参加した米国のハリマン駐ソ大使の「覚書」によると、チャーチル首相は密約の合意が成立すると、自分も文書に署名すると割り込み、会談最終日に署名したと伝えられていました。「極東における英国の権益保護」が目的だったとされていました。
 今回の書簡は、その実態をチャーチル自身が述べたものとなります。書簡が出されたのは、共和党のアイゼンハワー米大統領が昭和28年(1953)2月の年頭教書演説など、共産主義ソ連を念頭に「あらゆる人々の奴隷化」に同意せず、ヤルタ密約など外国との秘密協定の有効性を認めず、「あらゆる秘密協定を破棄する」と宣言した直後のこと。
 イーデン外相は昭和28年(1953)2月20日付でチャーチル宛てに書簡を送り、アイゼンハワーの方針を伝えました。チャーチルの書簡はこれに対する返信と位置づけられます。この返信でチャーチルは、「ヤルタで起きたことは詳(つまび)らかにすべきだ」「米国務長官だったステティニアス氏ですら、(密約に関して)相談されなかった」との見方を記しており、大戦中のルーズベルト米大統領が独断でスターリン首相の要求に応じたと考えていることを示しているとのことです。
 ロシア外務省は、平成23年(2011)2月、北方領土に対するロシアの主権は「合法」であるとの声明を発表し、その根拠を「第二次大戦の結果」とし、ヤルタ協定、ポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約、国連憲章107条(旧敵国条項)で認証されたと強調しました。プーチン現政権は、「北方領土は第二次大戦の結果、ソ連(ロシア)領になった」といった主張を繰り返しています。
 しかし、米国は戦後、日本の立場を支持し、ソ連の法的根拠を認めない姿勢を示してきました。米上院は昭和26年(1951)にサンフランシスコ講和条約を批准承認する際、ソ連に有利となるヤルタ密約の項目を「含めない」との決議をしました。アイゼンハワー政権は、昭和31年(1956)に「ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米政府の公式文書でなく無効」との国務省声明を発表し、ソ連の領土占有に法的根拠がないとの立場を鮮明にしました。また、平成17年(2005)ブッシュ子大統領が、ラトビアのリガで「ヤルタ会談は史上最大の過ちの一つ」と批判しました。
英国政府は、冷戦時代、フランスとともにソ連との正面衝突を回避するため、ヤルタ協定に対する立場を明らかにせず、これまでその姿勢を続けてきました。しかし、先に書いた電報で、当初からヤルタ密約の有効性を疑っていたことがわかりました。さらにチャーチルの書簡は、ヤルタ密約に署名したチャーチル首相自ら疑義を持っていたことを示しています。
 ヤルタ密約は米英ソ三カ国の首脳が合意したものですが、米国は既に無効としており、そのうえ英国も疑義を持っていたことが明らかになりました。この密約を根拠に北方4島の主権を主張するロシアには、何ら法的根拠がなく、不法占拠を続けていることはあきらかです。
 なお、私は、ヤルタ密約について、拙稿「日本を操る赤い糸~田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等」に書いていますので、ご参考にどうぞ。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion07b.htm
 第9章 ヤルタ会談にソ連スパイが暗躍

映画「杉原千畝 スギハラチウネ」が描いていないこと

2016-01-09 08:48:38 | 歴史

 チェリン・グラック監督、唐沢寿明主演の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」を見た。基本的には、通説に基づいて杉原がユダヤ人難民を救ったことを感動的に表現した映画である。杉原が人道主義的な行為をして世界のユダヤ人から感謝される善行をしたことは、日本人が誇りとすべきことである。だが、通説には、いくつかの点で事実と異なることがあり、また見落とされていることもある。杉原はビザ発給の責任で外務省を解雇されたのではない。また杉原の前に日本はユダヤ人2万人を救援していた。杉原への評価はそれらを踏まえて補正する必要がある。



●杉原の前に日本はユダヤ人2万人を救援

 まず重要なことは、戦前のわが国はナチスによるユダヤ人迫害に加担せず、杉原のビザ発給以前からユダヤ人の救助をしており、杉原の善行は国家的に許容されるものだったことである。
 1930年代、ナチスは、国家社会主義とユダヤ人を敵視する排外的民族主義とが一体になった特異な運動を推進した。ナチスによる迫害は、政府によって組織的・計画的に行われ、またその規模において、史上に前例がない。迫害は第2次世界大戦前から行われており、戦争による虐待・虐殺とは異なり、人種差別によるものである。
 わが国は、昭和12年(1937)11月、日独伊防共協定を締結した。これは共産主義革命を防止するための政策協力であって、わが国がナチスのユダヤ人迫害に賛同したものではない。
 防共協定の翌年、杉原の輝かしい功績の陰に隠れてしまった重要な出来事があった。オトポール事件である。昭和13年(1938)3月、約2万人のユダヤ人が、ソ連と満州国の国境沿いにあるシベリア鉄道のオトポール駅にいた。ナチスの迫害から逃れて亡命するには、満州国を通過しなければならない。しかし、ユダヤ人は零下数十度の中、で野宿生活を行っていた。彼らの惨状を見た樋口季一郎陸軍少将は、部下の安江仙江大佐らとともに即日、ユダヤ人に食糧・衣類等を与え、医療を施し、出国、入植、上海租界への移動の斡旋を行った。
 大戦末期、樋口はソ連軍千島侵攻部隊に打撃を与え、北海道占領を阻止した。スターリンはその樋口を戦犯に指名した。これに対し、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行った。その結果、マッカーサーはソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護した。樋口の名は、イスラエル建国功労者として、「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者」として刻印され、その功績が顕彰されている。
 樋口は、杉原とともに日本人が誇りとすべき人物である。だが、樋口のユダヤ人救援は、独断で行われたものではない。満州国通過ビザは、当時関東軍参謀長だった東条英機の許可で発給された。また満鉄総裁だった松岡洋右がハルビンや上海へ移動する特別救援列車を手配した。こうした連携によって、日本国が約2万人のユダヤ人を救ったのである。杉原はビザ発給で約6千人のユダヤ人を救ったとされるが、オトポールで樋口・東条・松岡らが救ったユダヤ人は、その3倍以上である。
 樋口は世界のユダヤ人からその功績が顕彰されているが、東条・松岡のユダヤ人救援への関与は、無視されている。東条・松岡は東京裁判でいわゆる「A級戦犯」とされた。松岡は獄中で病死し、東条は絞首刑とされた。東条の弁護人は、東条のユダヤ人救援には触れていなかった。私は、東条や松岡が親独路線・対米敵対政策で日本の針路を誤ったことを厳しく糾弾するものであるが、そのこととユダヤ人救援とは別である。
 オトポールでのわが国のユダヤ難民救済に対し、ドイツ政府は抗議してきた。これに対し、わが国は昭和13年(1938)12月6日、近衛文麿内閣の五相会議で、日本・満州・シナ大陸におけるユダヤ人政策を決定した。この会議は、内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣による国策決定会議である。この時決定された「猶太人対策要綱」は、「ユダヤ人排斥は人類平等の八紘一宇の精神に合致しない」として、ユダヤ人保護のための対策を策定したものである。ドイツの要請を断って、わが国は独自の方針を決めたのである。その方針は、明治維新以来、わが国が取ってきた四海同胞・一視同仁の精神を、ユダヤ人に対しても適用したものである。当時、政府決定でユダヤ人を差別しないと定めた国は、他になかった。この五相会議の時の陸軍大臣は、板垣征四郎だった。板垣も東京裁判で絞首刑にされた。弁護人は板垣のユダヤ人保護についても触れていなかった。板垣についても、日本人は、東条・松岡に対すると同様、独立国の国民として、是々非々の判断と自主的な評価をする必要がある。

●杉原はビザ発給の責任で外務省を解雇されたのではない

 ナチス・ドイツは、昭和14年(1939)9月、電撃的にポーランドに侵攻した。それによって第2次世界大戦が始まった。ドイツの勢いはすさまじく、わが国では、その勢いに幻惑され、「バスに乗り遅れるな」という風潮が強まった。そして、昭和15年(1940)9月、わが国は日独伊三国軍事同盟を締結してしまう。同盟締結へとわが国が向かいつつあるその時に、杉原のビザ発給は行われた。



 この年夏、ドイツ占領下のポーランドから多数のユダヤ人がリトアニアに逃亡した。彼らは当地で各国の領事館・大使館からビザを取得しようとした。しかし、リトアニアはソ連に併合されており、ソ連政府は各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。第2次世界大戦の開始時、ヒトラーとスターリンには密約があった。その密約の下にドイツとソ連はポーランドを分割し、ソ連がバルト三国を併合したのである。
 ユダヤ難民は日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。リトアニアのカウナスで領事代理だった杉原は、彼らのために日本への渡航ビザを発給した。7月29日から9月5日の期間だった。杉原の職を賭した決断は、本国外務省の訓令に背く職務規定違反とされた。だが、ここで重要なことは、日本政府がビザ発給を拒否したわけではないことである。当時の外務省の杉原宛て訓令電報では、日本通過ビザ発給は、最終目的地の入国ビザを持っていること、また最終地までの旅行中の生活を支え得る資金を保持しているという2点を条件としていた。これらは通過ビザの性格上よくある条件であって、日本政府がビザ発給を拒否したのではない。
 また、仮に杉原がサインしてビザを発給したところで、本国の命令に反して不正に発給されたものであれば、日本政府はそれを持った外国人の入国を拒否する。杉原が政府の基本政策に全く反したことをやったのなら、発給は無意味になる。杉原がビザ発給を行ったのは、政府の方針に反したものではないという信念があったからだろう。
 杉原の勇気ある行動によってリトアニアを出ることのできたユダヤ難民は、シベリア鉄道でソ連を横断し、ユーラシア東岸のウラジオストックに着いた。ここで、日本に船で渡れるかどうかが、次の問題だった。しかし、ウラジオストック総領事代理の根井三郎は、独断でユダヤ難民の渡航を認めた。昭和16年(1941)2月から6月にかけてのことである。根井は後藤新平が校長をした満州のハルピン学院出身で杉原の2年後輩だった。映画は、この点をよく描いていた。
 ユダヤ人難民は、船で敦賀港に向かった。映画は、ユダヤ人難民のその後に触れていないが、杉原と根井の行為が政府として絶対許可できないことであれば、敦賀港に着いたユダヤ人を受け入れないということになったはずである。だが、敦賀についたユダヤ人難民は、ここで温かくもてなされた。そして神戸へ向かった。滞在許可は10日間だったが、ユダヤ文化研究者・小辻節三が政府・自治体に働きかけ、ビザが延長された。
 ここで再び松岡洋右が登場する。当時松岡は外務大臣という外交政策の最高責任者の地位にあった。小辻は松岡が満鉄総裁だった時に、松岡に招かれて総裁顧問をしていた。その縁で、小辻は松岡に会い、「滞在期間の延長は自治体に権限がある」と示唆した。松岡外相は普通電報で訓令を発した。松岡は「わが国に住む限り、一切の心配は無用である」と公言した。こうして、ユダヤ人難民は、わが国で安心して滞在でき、上海やアメリカ、パレスチナ等へ向かっていった。
 昭和60年(1985)、杉原は、イスラエル政府から日本人で唯一、「諸国民の中の正義の人」としてヤド・バシェム賞を受賞し、顕彰碑が建てられた。杉原個人がクローズアップされているが、杉原の善行が可能だったのは、わが国が三国同盟締結後もユダヤ人政策を根本的には変えなかったことであり、杉原・根井・小辻・松岡の連携があったのである。杉原のビザ発給後にこの連携がなされなかったら、杉原の善行は実を結ばず、歴史の澱に深く沈んでしまったことだろう。
 さて、通説では、杉原は訓令に違反してビザを発給した責任を問われ、戦後外務省を解雇されたとされている。だが、この点は事実と異なる。まず杉原はカウナス領事館閉鎖の後も順調に昇進した。昭和19年(1944)に杉原は長年の功績を認められ、日本政府から勲五等瑞宝章という勲章まで授与されている。また、敗戦後、杉原は昭和22年(1947)に外務省を退職したが、これは懲戒免職ではない。占領下で外務省の業務が激減したのに伴う人員整理が行われ、約3分の1の職員が解雇された。杉原もそのうちの一人である。仮に辞めざるを得ないように圧力がかけられたとしても、懲戒免職とは全く違う。人員整理による解雇は組織の都合である。杉原は政府から退職金を受け取り、年金を受給している。

●杉原の諜報能力が裏付ける大塚寛一先生の比類ない慧眼

 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」は、杉原のビザ発給の人道主義的行為だけでなく、諜報外交官としての優秀さをも描いている。私はその点が、興味深く感じられた。
 リトアニアでの命のビザ発給後、赴任したドイツで杉原は諜報活動を行い、ドイツがソ連への侵攻を計画していることを察知し、大島浩駐独大使に報告。ドイツのソ連侵攻後も「日本がアジア進出を続ければ、アメリカと戦争になる」と杉原は予測。大使はドイツの動向を日本に伝えるも、本国は動かず。杉原は「アメリカと戦争すれば日本は負ける」との推測を述べ、ルーマニアに転任。ソ連の捕虜収容所で日本の敗戦を知るーーー杉原は自ら集めた情報を分析して、こうした判断をしたというわけだが、当時の我が国の指導層は、海外から伝えられる情勢分析を冷静に理解して総合的に判断する能力を欠いていた。
 戦前の日本の曲がり角は、独伊と三国同盟を結んだことである。わが生涯の師にして神とも仰ぐ大塚寛一先生は、昭和14年9月三国同盟の締結に反対して、時の指導層への建白書の送付を開始し、米英と開戦すれば、必ず大敗を喫すると警告。言論統制厳しいさなかに、逮捕も投獄もされることなく、敗戦の間際まで具体的な対策を建言し続けられた。だが、我が国の指導層は大塚先生の建言を容れることなく、我が国は警告通りの結果となってしまった。先に触れた東条・松岡・板垣らは、残念ながら大塚先生の警告に従わなかった指導者たちの一部である。
 戦後70年たってもまだ多くの人々が、大塚先生の超人的な洞察力、予見力の偉大さ、そして大塚先生が日本再建のために提唱された啓発活動の意義、さらに21世紀に人類が体験するだろう大変化の予告の重要性に気づいておられないのは、残念なことである。大塚先生の比類ない慧眼を知るには、マイサイトの次のページをお読みください。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/keynote.htm


日本弱体化を進めたWGIP文書が発見された

2015-05-20 10:44:26 | 歴史
 わが国は大東亜戦争で大敗を喫した。敗戦後、アメリカの日本占領政策は、日本人に戦争の罪悪感を植え付け、民族の誇りと自尊心を奪い、日本が決してアメリカに報復することのないようにすることを目的としていた。
 日本占領の最高司令官マッカーサーがワシントン政府から受けた第1号命令は、日本を再び米国及び連合国の脅威にならないよう、徹底的に無力化、弱体化することだった。すなわち「降伏後における米国の初期対日方針」(昭和20年9月6日受け、26日公表)に「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」とその目的は明記されている。そして、この目的の下に行われた占領政策は、日本人を精神的に去勢し、当時の日本人が持っていた愛国心を抹殺し、アメリカの属国的・被保護国な存在へと貶めようとするものだった。すなわち日本弱体化政策である。
この政策を実行するにあたっては、秘密計画が存在した。その名は、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム。「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画」だった。私は「戦争犯罪周知宣伝計画」と呼ぶ。
 日本弱体化政策には、周到な計画が存在した。それは、日米戦争中から立案され、占領後は、その方針にそって、日本人から、力と弾圧によって、民族の歴史、道徳、団結心等を奪っていった。「戦争犯罪周知宣伝計画」の実行は、連合国軍総司令部の民間情報教育局(CI&E)が強力に展開した。これは民間検閲支隊(CCD)による検閲と相乗効果をなして、日本弱体化を進めるものだった。
 このたび「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の原資料が発見された。戦後70年という年に原資料が発見された意義は大きい。発見者は、関野通夫氏という本田技研出身の実務翻訳家である。関野氏の報告が月刊『正論』5月号に掲載された。ネットに一部掲載されているので、その部分を以下に転載して紹介する。

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●月刊『正論』 平成27年5月号

http://www.sankei.com/life/news/150408/lif1504080003-n1.html

2015.4.8 03:04更新
【月刊正論】
これが戦後の元凶だ! 米占領軍の日本洗脳工作「WGIP」文書、ついに発掘

 WGIP(War Guilt Information Program)とは、大東亜戦争後の昭和20(1945)年からサンフランシスコ講和条約発効によって日本が主権回復を果たした昭和27年までの7年間の占領期間に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策として行った、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画です。
 はじめに何故、私がWGIPを取りあげたのか、という理由から述べます。WGIPが行われたのは今から約65年前ですが、決して過去の話ではありません。むしろ今でも効き目を発揮し、ますます毒性が強まっている、いわば現在進行中の話なのです。
 WGIPが残した毒は、政、財、官、法律、教育等あらゆる分野で、今も枢要の地位を占める人を含む、多くの日本人の思考を今も縛っています。最近も、戦後70年の首相談話を検討する「21世紀を構想する有識者懇談会」の北岡伸一座長代理が、「総理に侵略だといわせたい」などと、およそ信じがたい発言をされました。自民党の三役の一人が、「慰安婦問題は終わっていない」などと、歴史事実を知りもせず、韓国に媚びた発言をする光景には、あきれ返るばかりです。普通の国では起こりえない、自虐的な発想や、非常識な外交対応などが頻発する背景には教育などさまざまな要因があるでしょう。ですがその源流はWGIPによる洗脳にほかなりません。そしてその洗脳から日本人は解放されていないのです。
 このままでは日本は、どうかなってしまうのではないか。諸悪の根源を突きとめ、その元凶を絶つ必要がある。そのために多くの日本人にWGIPについてしっかりとした認識を持って欲しいという思いがありました。
 WGIPについてはこれまで、江藤淳氏や高橋史朗教授が、立派な著作を残されています。なぜ、私が屋上屋を重ねるようなことをするのかという疑問もあるかもしれない。ですがインターネット上の百科事典とされるウィキペディアにはWGIPについてこう書かれているのです。
 《文芸評論家の江藤淳が『閉された言語空間』(1989年)において、この政策の名称がGHQの内部文書に基づくものであると主張し、江藤の支持者らが肯定的にこの名称を使用している。しかし、この内部文書そのものは江藤らによって公開されておらず、実在するかどうか明確ではない》
 今や一部では存在すら危ぶまれているのです。現資料が紛れもなく存在することを世の中に示したい。それがWGIPの文書を探し始めた大きな理由でした。

ピンポイントで文書を特定する困難
 そのようなわけで文書を探し始めた私はまず私は国会図書館に足を運びました。検索で資料が出ないか、と試みましたがどうにもうまく進みません。自宅でも検索を重ね、目当ての文書がどうやら明星大学(東京都日野市)戦後教育史研究センターに所蔵されていることがわかりました。早速、明星大学に足を運びましたが、2万5千点もの膨大な資料があって、この中から目当ての文書を特定しなければなりません。全ての文書に目を通すことは到底できないし、絞るにしても目録だけで500ページ近くあって、至難のワザでした。
 高橋史朗教授や勝岡寛次氏にもアドバイスをいただき、さらに私なりの“読み”を加えながら、丹念に絞り込んでいきました。そしてようやく目指す文書を手にすることができました。ここにその文書のリスト(表1)を示します。「江藤らによって公開されておらず、実在するかどうか明確ではない」というウィキペディアの記述が誤りであることがこれで明白になりました。

日本人洗脳工作の構図
 まず、ブロックダイヤグラム(図1)を見て下さい。文書に入る前に、洗脳作戦の全体的構図を説明し、その中でWGIPとは何かを説明します。
 占領下の日本人洗脳作戦において、実際、一番権力を持っていたのは、アメリカ本国の大統領府であり、当時の大統領トルーマンは、極め付きの反日、侮日主義者で、原爆投下については、「獣を扱うには、獣にふさわしい方法でやった」と、日本人を獣扱いしていたと言われています。
 それに比べると、日本に進駐してきた軍人は、進駐当時こそ、JAPとか黄色い猿とか言っていた人も、暫く経つと親日的に変わっていった人が多かったようです。特に、海軍の場合は、海軍同志で、戦前から交流の機会が多く、特にワシントン海軍軍縮交渉で知り合った同志は、終戦直後でも、比較的友好的な交流があったようです。
 日本で最高権力者として権勢を誇ったマッカーサーですが、最後はアメリカ大統領には適いませんでした。後に、朝鮮戦争での原爆使用の可否で意見が対立し、トルーマンによって解任されています。
 日本の中での最高権力組織は、もちろんGHQですが、これは正確には、GHQ/SCAPという名称でした。GHQは、General Headquartersの略で、いわゆる総司令部、SCAPは、Supreme Commander for the Allied Powers(連合国総司令官)の略です。マッカーサーは、両方を兼ねています。
 このGHQ/SCAPの下に、WGIPの主役となる、CIE或いはCI&E(民間情報教育局)や、G-2(参謀第2部)、CIS(民間諜報局)或いは、CCD(民間情報検閲支隊)、極東国際軍事法廷(いわゆる東京裁判法廷)などがあり、そして日本政府も、この一翼を担っていたわけです。
 CIEは、日本人を洗脳するために、どのように日本のメディアを操り、どのような情報を流すかを考え実行したわけです。その内容が、私が収集した原資料に繰り返し出てきます。これに対して日本人に知られたくない情報を日本人から隠したのが、焚書(占領軍にとって有害な図書の没収)や、報道の削除や禁止を定めた命令でした。
 しかし、いずれの場合でも、占領軍は、日本の一般人に対しては直接実行する方式ではありませんでした。日本政府や日本の報道機関を通じて実施した間接統治であったことが、この作戦の巧妙な所であり、多くの日本人は、それらの思想が、占領軍から押し付けられたことに気づかない。日本政府や日本人自らが行ったと錯覚させられてしまう。そういう巧妙な構造のもとで進められました。

WGIPとは何か
 東京裁判と「日本=戦犯国家」という刷り込みは、どのように行われたのでしょう。前段でも触れましたが、WGIPは、占領軍が行った日本人洗脳作戦の中核をなすものです。そして、そのなかで最優先かつ最重要な案件が、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)です。
 そのことは、最初に紹介するCIE文書にも-まだウォーギルトインフォメーションプログラムという言葉はこの時点では使われてはおらず「インフォメーションプラン(Information Plan)」となっていますが-出てきます。
 まず昭和20(1945)年12月21日付で、GHQ/SCAPから出されたものと思われる、CIEの局長あての文書をご覧下さい(写真(1)(2)と英訳)。
 これは、日本の占領初期に出されたものです。非常に基本的ですが、その後の作戦の主要部分の根幹を示す重要な文書です。その3ページ分の英文の全訳を示しました。下記にその趣旨を説明します。
 この文書の原文には、各ページの上下に、極秘(Confidential)と表示されていて、日本人には見せたくない文書であることを示しています。
 WGIPには、積極的に日本人を洗脳する作戦と、アメリカにとって都合の悪いことを糊塗する作戦の二つの側面がありますが、この文書では、積極的に日本人を洗脳する作戦の基本が書かれています。
 この文書は、I、II、IIIの3部からなっており、第I部は、日本の戦争犯罪を定義したものであり、極東国際軍事裁判(東京裁判)における、戦犯訴追の基本をなす、非常に重要なものです。CIE文書の始めに出てくるということは、東京裁判が、WGIPの1丁目1番地であることを示しています。
 ここで述べられた、BおよびCは、それほど不当な内容ではありませんが、Aに書かれていること(いわゆるA級戦犯の訴追原因)は、非常に問題があります。これは、一般に事後法で裁いたと批判されていますが、反論する人は、おそらく1928年のパリ不戦条約(Pact of Paris)、別名ケロッグ=ブリアン条約(Kellogg-Brian Pact)を持ち出してくると思われます。このパリ不戦条約も考慮しながら、このA項を考察、批判してみましょう。続きは月刊正論5月号でお読みください

★関野通夫氏 昭和14年神奈川県鎌倉市生まれ。39年、東京大学工学部航空学科卒業後、本田技研工業に入社。フランス、イランなど海外駐在が長く、米国ではホンダ関連法人の社長を務めた。平成13年に退職。実務翻訳に従事。
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関連掲示
・拙稿「日本弱体化政策の検証~日本の再生をめざして」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08b.htm