ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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映画「杉原千畝 スギハラチウネ」が描いていないこと

2016-01-09 08:48:38 | 歴史

 チェリン・グラック監督、唐沢寿明主演の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」を見た。基本的には、通説に基づいて杉原がユダヤ人難民を救ったことを感動的に表現した映画である。杉原が人道主義的な行為をして世界のユダヤ人から感謝される善行をしたことは、日本人が誇りとすべきことである。だが、通説には、いくつかの点で事実と異なることがあり、また見落とされていることもある。杉原はビザ発給の責任で外務省を解雇されたのではない。また杉原の前に日本はユダヤ人2万人を救援していた。杉原への評価はそれらを踏まえて補正する必要がある。



●杉原の前に日本はユダヤ人2万人を救援

 まず重要なことは、戦前のわが国はナチスによるユダヤ人迫害に加担せず、杉原のビザ発給以前からユダヤ人の救助をしており、杉原の善行は国家的に許容されるものだったことである。
 1930年代、ナチスは、国家社会主義とユダヤ人を敵視する排外的民族主義とが一体になった特異な運動を推進した。ナチスによる迫害は、政府によって組織的・計画的に行われ、またその規模において、史上に前例がない。迫害は第2次世界大戦前から行われており、戦争による虐待・虐殺とは異なり、人種差別によるものである。
 わが国は、昭和12年(1937)11月、日独伊防共協定を締結した。これは共産主義革命を防止するための政策協力であって、わが国がナチスのユダヤ人迫害に賛同したものではない。
 防共協定の翌年、杉原の輝かしい功績の陰に隠れてしまった重要な出来事があった。オトポール事件である。昭和13年(1938)3月、約2万人のユダヤ人が、ソ連と満州国の国境沿いにあるシベリア鉄道のオトポール駅にいた。ナチスの迫害から逃れて亡命するには、満州国を通過しなければならない。しかし、ユダヤ人は零下数十度の中、で野宿生活を行っていた。彼らの惨状を見た樋口季一郎陸軍少将は、部下の安江仙江大佐らとともに即日、ユダヤ人に食糧・衣類等を与え、医療を施し、出国、入植、上海租界への移動の斡旋を行った。
 大戦末期、樋口はソ連軍千島侵攻部隊に打撃を与え、北海道占領を阻止した。スターリンはその樋口を戦犯に指名した。これに対し、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行った。その結果、マッカーサーはソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護した。樋口の名は、イスラエル建国功労者として、「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者」として刻印され、その功績が顕彰されている。
 樋口は、杉原とともに日本人が誇りとすべき人物である。だが、樋口のユダヤ人救援は、独断で行われたものではない。満州国通過ビザは、当時関東軍参謀長だった東条英機の許可で発給された。また満鉄総裁だった松岡洋右がハルビンや上海へ移動する特別救援列車を手配した。こうした連携によって、日本国が約2万人のユダヤ人を救ったのである。杉原はビザ発給で約6千人のユダヤ人を救ったとされるが、オトポールで樋口・東条・松岡らが救ったユダヤ人は、その3倍以上である。
 樋口は世界のユダヤ人からその功績が顕彰されているが、東条・松岡のユダヤ人救援への関与は、無視されている。東条・松岡は東京裁判でいわゆる「A級戦犯」とされた。松岡は獄中で病死し、東条は絞首刑とされた。東条の弁護人は、東条のユダヤ人救援には触れていなかった。私は、東条や松岡が親独路線・対米敵対政策で日本の針路を誤ったことを厳しく糾弾するものであるが、そのこととユダヤ人救援とは別である。
 オトポールでのわが国のユダヤ難民救済に対し、ドイツ政府は抗議してきた。これに対し、わが国は昭和13年(1938)12月6日、近衛文麿内閣の五相会議で、日本・満州・シナ大陸におけるユダヤ人政策を決定した。この会議は、内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣による国策決定会議である。この時決定された「猶太人対策要綱」は、「ユダヤ人排斥は人類平等の八紘一宇の精神に合致しない」として、ユダヤ人保護のための対策を策定したものである。ドイツの要請を断って、わが国は独自の方針を決めたのである。その方針は、明治維新以来、わが国が取ってきた四海同胞・一視同仁の精神を、ユダヤ人に対しても適用したものである。当時、政府決定でユダヤ人を差別しないと定めた国は、他になかった。この五相会議の時の陸軍大臣は、板垣征四郎だった。板垣も東京裁判で絞首刑にされた。弁護人は板垣のユダヤ人保護についても触れていなかった。板垣についても、日本人は、東条・松岡に対すると同様、独立国の国民として、是々非々の判断と自主的な評価をする必要がある。

●杉原はビザ発給の責任で外務省を解雇されたのではない

 ナチス・ドイツは、昭和14年(1939)9月、電撃的にポーランドに侵攻した。それによって第2次世界大戦が始まった。ドイツの勢いはすさまじく、わが国では、その勢いに幻惑され、「バスに乗り遅れるな」という風潮が強まった。そして、昭和15年(1940)9月、わが国は日独伊三国軍事同盟を締結してしまう。同盟締結へとわが国が向かいつつあるその時に、杉原のビザ発給は行われた。



 この年夏、ドイツ占領下のポーランドから多数のユダヤ人がリトアニアに逃亡した。彼らは当地で各国の領事館・大使館からビザを取得しようとした。しかし、リトアニアはソ連に併合されており、ソ連政府は各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。第2次世界大戦の開始時、ヒトラーとスターリンには密約があった。その密約の下にドイツとソ連はポーランドを分割し、ソ連がバルト三国を併合したのである。
 ユダヤ難民は日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。リトアニアのカウナスで領事代理だった杉原は、彼らのために日本への渡航ビザを発給した。7月29日から9月5日の期間だった。杉原の職を賭した決断は、本国外務省の訓令に背く職務規定違反とされた。だが、ここで重要なことは、日本政府がビザ発給を拒否したわけではないことである。当時の外務省の杉原宛て訓令電報では、日本通過ビザ発給は、最終目的地の入国ビザを持っていること、また最終地までの旅行中の生活を支え得る資金を保持しているという2点を条件としていた。これらは通過ビザの性格上よくある条件であって、日本政府がビザ発給を拒否したのではない。
 また、仮に杉原がサインしてビザを発給したところで、本国の命令に反して不正に発給されたものであれば、日本政府はそれを持った外国人の入国を拒否する。杉原が政府の基本政策に全く反したことをやったのなら、発給は無意味になる。杉原がビザ発給を行ったのは、政府の方針に反したものではないという信念があったからだろう。
 杉原の勇気ある行動によってリトアニアを出ることのできたユダヤ難民は、シベリア鉄道でソ連を横断し、ユーラシア東岸のウラジオストックに着いた。ここで、日本に船で渡れるかどうかが、次の問題だった。しかし、ウラジオストック総領事代理の根井三郎は、独断でユダヤ難民の渡航を認めた。昭和16年(1941)2月から6月にかけてのことである。根井は後藤新平が校長をした満州のハルピン学院出身で杉原の2年後輩だった。映画は、この点をよく描いていた。
 ユダヤ人難民は、船で敦賀港に向かった。映画は、ユダヤ人難民のその後に触れていないが、杉原と根井の行為が政府として絶対許可できないことであれば、敦賀港に着いたユダヤ人を受け入れないということになったはずである。だが、敦賀についたユダヤ人難民は、ここで温かくもてなされた。そして神戸へ向かった。滞在許可は10日間だったが、ユダヤ文化研究者・小辻節三が政府・自治体に働きかけ、ビザが延長された。
 ここで再び松岡洋右が登場する。当時松岡は外務大臣という外交政策の最高責任者の地位にあった。小辻は松岡が満鉄総裁だった時に、松岡に招かれて総裁顧問をしていた。その縁で、小辻は松岡に会い、「滞在期間の延長は自治体に権限がある」と示唆した。松岡外相は普通電報で訓令を発した。松岡は「わが国に住む限り、一切の心配は無用である」と公言した。こうして、ユダヤ人難民は、わが国で安心して滞在でき、上海やアメリカ、パレスチナ等へ向かっていった。
 昭和60年(1985)、杉原は、イスラエル政府から日本人で唯一、「諸国民の中の正義の人」としてヤド・バシェム賞を受賞し、顕彰碑が建てられた。杉原個人がクローズアップされているが、杉原の善行が可能だったのは、わが国が三国同盟締結後もユダヤ人政策を根本的には変えなかったことであり、杉原・根井・小辻・松岡の連携があったのである。杉原のビザ発給後にこの連携がなされなかったら、杉原の善行は実を結ばず、歴史の澱に深く沈んでしまったことだろう。
 さて、通説では、杉原は訓令に違反してビザを発給した責任を問われ、戦後外務省を解雇されたとされている。だが、この点は事実と異なる。まず杉原はカウナス領事館閉鎖の後も順調に昇進した。昭和19年(1944)に杉原は長年の功績を認められ、日本政府から勲五等瑞宝章という勲章まで授与されている。また、敗戦後、杉原は昭和22年(1947)に外務省を退職したが、これは懲戒免職ではない。占領下で外務省の業務が激減したのに伴う人員整理が行われ、約3分の1の職員が解雇された。杉原もそのうちの一人である。仮に辞めざるを得ないように圧力がかけられたとしても、懲戒免職とは全く違う。人員整理による解雇は組織の都合である。杉原は政府から退職金を受け取り、年金を受給している。

●杉原の諜報能力が裏付ける大塚寛一先生の比類ない慧眼

 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」は、杉原のビザ発給の人道主義的行為だけでなく、諜報外交官としての優秀さをも描いている。私はその点が、興味深く感じられた。
 リトアニアでの命のビザ発給後、赴任したドイツで杉原は諜報活動を行い、ドイツがソ連への侵攻を計画していることを察知し、大島浩駐独大使に報告。ドイツのソ連侵攻後も「日本がアジア進出を続ければ、アメリカと戦争になる」と杉原は予測。大使はドイツの動向を日本に伝えるも、本国は動かず。杉原は「アメリカと戦争すれば日本は負ける」との推測を述べ、ルーマニアに転任。ソ連の捕虜収容所で日本の敗戦を知るーーー杉原は自ら集めた情報を分析して、こうした判断をしたというわけだが、当時の我が国の指導層は、海外から伝えられる情勢分析を冷静に理解して総合的に判断する能力を欠いていた。
 戦前の日本の曲がり角は、独伊と三国同盟を結んだことである。わが生涯の師にして神とも仰ぐ大塚寛一先生は、昭和14年9月三国同盟の締結に反対して、時の指導層への建白書の送付を開始し、米英と開戦すれば、必ず大敗を喫すると警告。言論統制厳しいさなかに、逮捕も投獄もされることなく、敗戦の間際まで具体的な対策を建言し続けられた。だが、我が国の指導層は大塚先生の建言を容れることなく、我が国は警告通りの結果となってしまった。先に触れた東条・松岡・板垣らは、残念ながら大塚先生の警告に従わなかった指導者たちの一部である。
 戦後70年たってもまだ多くの人々が、大塚先生の超人的な洞察力、予見力の偉大さ、そして大塚先生が日本再建のために提唱された啓発活動の意義、さらに21世紀に人類が体験するだろう大変化の予告の重要性に気づいておられないのは、残念なことである。大塚先生の比類ない慧眼を知るには、マイサイトの次のページをお読みください。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/keynote.htm

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2 コメント

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三国同盟 (名無し)
2019-11-11 07:10:14
>だが、我が国の指導層は大塚先生の建言を容れることなく、我が国は警告通りの結果となってしまった。先に触れた東条・松岡・板垣らは、残念ながら大塚先生の警告に従わなかった指導者たちの一部である。

日米戦(真珠湾)は、それに至るまでの過程で複数の国内外のファクターが錯綜競合していて単純に二択の問題ではないでしょう。それに5年10年20年30年50年100年というタイムスパンの問題もありますね。幕末明治以来我々の先達は渦中にあって精一杯国の安全保障に努力してきたと思います。いくら日本一国がこうしたいああしたいと思っても戦争、国際関係は相手があることですから、単純に右から左へというように事は運ばないでしょう。林房雄『大東亜戦争肯定論』はお読みですか。
>名無しさん (ほそかわ)
2019-11-11 13:01:34
林房雄著『大東亜戦争肯定論』は、40年ほど前に読みました。100年という長期的な観点から大東亜戦争をとらえ、戦後の日本人に東京裁判史観から脱却することを促した先駆的な本だと思います。

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