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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(1)

1.

 コーチの打ったフライは大きく、外野で構える和也の頭上を越えた。慌てて和也は後ろを向き、ボールを追った。高いボールを目で追って振り返る時の視界の隅に、明らかにフライを大きく打ち上げ過ぎたコーチのお兄さんが、片手を挙げて何か一言叫んでいるのが見えた。和也に打ち損じを一言詫びたのだろう。コーチのお兄さんは監督と違って、とても良い人だ。監督はすぐに怒鳴って、威張っててちょっと恐くて、苦手な嫌なオヤジだが、コーチのお兄さんは、バットの振り方やゴロの捕り方を、優しくていねいに教えてくれる。監督は和也にはいつも怒ってばかりだ。

 和也の追ったフライボールはグランドの端っこに落ちて、てんてんと転がってグランド奥の林の中に入って行ってしまった。和也の所属する少年野球チームが利用しているグランドは、市の管理する広範な総合公園の一区画にあり、広いグランドは野球用とサッカー用に二面があり、その周辺には小さな森林や小山が残されていて、遊歩道が整備されてあり、また、子供用にブランコやシーソーや、ジャングルジム系の簡単なアスレチックなどが設備された遊具公園の区画もあり、総合的な市民運動公園となって市民に利用されていた。野球用グランドの奥の一面がちょっとした森林然となっている。

 ボールはグランドと林の境目の側溝を越えて、草むらもバウンドして林の中へ消えていた。  

 「ええ~、もう。嫌だなあ」

 見るからに暗く、木々がうっそうと生い茂った林の中を前に、一度立ち止まった和也はひとりごちた。和也は人一倍怖がりだったのだ。和也は地元の公立小学校へ通う三年生の男の子で、三年生になったこの4月から、区域の有志の市民が主催してやっている小学生限定の少年野球チームに入った。元々、家の中でゲームをしたりテレビを見たり、漫画や児童書を読んだりして一人遊びの好きな和也は、野球チームになんか入りたくはなかったが、両親の半ば強引な奨めで断りきれなかった。特に、いつもは会社に行っていて夜遅くまで帰って来なくて休みの日は、やれゴルフだ付き合いだと家に居ないことの多い父親も一緒になって、子供は仲間と外で運動をしなければ駄目だ、球技はチームワークを学びながら身体を鍛えるから非常に良い、と強く言われては逃げようがなかった。和也は母親には甘えていたが、普段はあまり一緒に遊んだり過ごすことのない父親は、何となくよそよそしくもあり怖かった。そんな和也がチームに参加してもう一ヶ月以上経つ。

 意を決した和也が、うっそうとした暗い林の中へ入ろうと一歩出た時、林の暗い中からボールが転がり出て来た。おもむろにボールを拾った和也は、顔を上げてボールの出て来た方を見た。林は木々が生い茂り、その間は暗い。目を凝らしてよく見ると、薄暗い林の中にぼんやりと人影が浮かんでいる。かなり大きな大人の人影で、片脇の下方には犬のような動物らしき影がある。裸の大きなお爺さんとちょっと小さめの犬、薄ぼんやりして下手すると透き通って見えてしまいそうな、並んだ大きいのと小さい影は、和也がもっとよく見ようとボールを握った手で両目をこすって目を凝らすと、しっかり形をとらえるどころか視界から消えてしまった。

 それは、ふっと瞬間的に消えてしまい、和也はキョロキョロと首を回して当たりに人影を探した。しかし前面は覆い被さって来るような深い林で暗くて奥は見えず、周囲はシンとして静かで生き物の気配などない。背後からは遠い声で、チームのコーチや仲間の子供たちの掛け声の叫びか聞こえて来る。和也は我に返り、早く練習に戻らなきゃと、林を前にして不気味な恐怖心が湧き上がって来て、急いで振り返り、林の前から走り出た。グランドのまぶしい陽光のもとに戻ると、和也は遠いホームへと力一杯ボールを投げた。

 練習が終わって、チームの子供たちみんなとコーチで道具を片付け、コーチの前に二列で整列した。いつもはここで監督のお説教のような訓戒の話が数分間あるのだが、今日は監督が用事があるということで休んでいた。代わりのコーチのお兄さんは監督のように長々とお説教のような話をすることはなく、簡単に次の練習の予定日と、お風呂に入ってよく身体を洗ってよく温まるように、とだけ言って挨拶を終えて解散した。ちなみにいつもは威張ってる監督は後片付けは、見てるだけで一切手伝ってくれない。コーチのお兄さんは優しい。 ホーム後ろに広く張ってあるネット裏に、固定された長椅子に座って、スパイクをズックに履き替えている、同級生の勇人のもとへ和也は駆けて行った。

 「ねえ、さあ。勇人くん!」

 下を向いてスパイクの紐を一生懸命ほどいていた勇人が顔を上げた。勇人は、和也と同じ小学校の三年生だが、クラスは違う。

 何? と勇人が、顔を上げて応えた。和也はベンチの隣に腰掛けて、勇人の顔を覗き込んで囁き声で訊いた。

 「あのさ、この間、勇人くん、僕に話してくれたじゃない、裸の大きなお爺さんの話」

 「え?」 勇人は子供なりに、怪訝な顔をして聞き返した。

 「ほら、ホームレスのお爺さんの話だよ、何だか汚れた犬を連れてるんだって。見たことあるって言ってたじゃない。幽霊かも知れないって」

 「ああ、乞食のお爺さんの話。でも、お母さんに叱られたんだ。“乞食”なんて言葉を使っちゃいけない、って。貧乏でご飯の食べられないような可哀相な人だから、乞食とかホームレスとか言って、じろじろ見たりしちゃいけないって。近づいてもいけないんだって。あの人たちはあの人たちで一生懸命、生きて行ってるんだから、そっとしておきなさい、って。世の中が悪いんだって」

 「でも、幽霊なんでしょ?」

 「うん。お母さんにそう言ったら、また怒られちゃった。幽霊なんて言っちゃ駄目だって。可哀相な人たちなんだって。ご飯を食べてなくて身体に力が入らないから、うっすらとしか見えないんだって。元々は普通の人なんだから、事情があって貧乏してるんだから“幽霊”とか言っちゃ駄目だって」

 「勇人くんは裸のお爺さん、何度も見たの?」

 「ううん、一度だけ。でも、見たって言ってる子は多いよ」

 「僕も見たんだ」

 「えっ!?」 勇人は驚いて、まじまじと和也の顔を見た。驚きと共に疑いの様子も見せている。返事の、次の言葉が何も出て来ない勇人に、なおも和也は驚きの言葉を掛けた。

 「さっき、見たんだ。あの森の中で。うっすらしてた。本当に幽霊みたいだった」

 「ええ~っ!…」 驚くばかりの勇人は、返事の言葉が何も出て来ない。呆然とした態で、和也の顔をじっと見ているだけだ。

 「勇人くん、今から一緒に見に行かない? 林の中に」

 子供たちが帰り支度をし、グランド前の通路やすぐ傍の駐車場には、子供を迎えに来ている母親たちが話をしたりしながら待っていた。中には子供の隣まで来て帰り支度を手伝っている母親も居る。まだ陽は落ちていないがもう夕方だ、その内薄暗くなって行くだろう。勇人君は怯えた様子を見せた。

 「嫌だよ。もうすぐお母さんが迎えに来るもん。それに子供だけで人の居ない寂しいところや暗いところに行っちゃいけない、ってお母さんに言われてるし」

 勇人君は名前負けしている、と思った。和也はその名前の漢字の本来の意味を知っていた。和也が黙っていると、コーチがぶらぶらとやって来た。

 「ええと、池田くんと吉川くん、か。君たちはまだ帰らないのかい? もうちょっとしたら暗くなってしまうよ」

 コーチの問い掛けに勇人は応えた。勇人君はフルネームを池田勇人という。

 「あ、はい。お母さんがまだなんです。でも、もうすぐ来ると思います」

 コーチは笑顔で、「ん」と応え、和也の方に顔を向けた。

 「吉川くんところもお母さんが来るのかい?」

 和也はその問い掛けには応えずに、唐突にコーチに向かって訊いた。

 「コーチ。コーチは大きなお爺さんの幽霊って見たことありますか?」

 勇人君が咎めるような顔で和也を見た。おい、何てこと言うんだよ!と、和也に文句を着けたいような目つきで睨んだ。コーチは驚いた顔をしたが、笑いながら呆れた様子で言う。

 「どうしたんだい、吉川くん。幽霊の爺さんだって? そんなもの居るものか。さあさ、そんな話してないで、早く帰り支度しないと。君んとこもお母さんが来るんだろう?」

 コーチが笑うのをやめて、他の子供たちのところへ行った。迎えに来ている母親の一人と挨拶をしている。勇人君が少し怒ったような調子で咎めた。

 「馬鹿だな、和也くんは。あんな話を大人にしちゃ駄目だよ!」

 「どうして?」

 「どうして、って決まってるじゃないか‥」

 勇人の話の途中で、勇人のお母さんが声を掛けて来た。スパイクをズックに履き替え終えた勇人は返事をしながら、ユニフォーム姿のまま自分の用具を持って、後方に居る母親の元へ駆けた。コーチが勇人の母親のところへ行って挨拶をしている。残った和也はバッグにグローブなど自分の用具をしまいながら、遠くの林を見ていた。

 「あれは何だったんだろう? 幻かなあ?」

 和也は、幽霊の正体を確かめにもう一度、林の中に入って行きたい気持ちでウズウズしていた。だが、一人ではとても怖くて行けなかった。林の中へと冒険したい気持ちと恐怖心が和也の中で争っていた。しかし、やっぱり怖いので諦め気分だった。

 「和也、帰るわよ」

 後ろで呼ぶ声がした。姉の愛子だ。愛子は和也より五つ年上で、市内の公立中学校に通っている。学校帰りだろう、濃紺のセーラー服のままだ。

 「何してるの、急いでよね」

 「あれ? お母さんはどうしたの?」

 「お母さん、急用だって。車運転して芳江叔母さんのとこ、行っちゃったわ」

 「ええ~っ。どうするのさ? じゃ歩いて帰るの?」

 「仕方ないでしょ。私も急に言われたんだから。さあ、早く、あんたの荷物を自転車の後ろに乗せなさいよ」

 愛子は機嫌が悪く、イライラした調子で和也を急かした。和也は荷物を抱えて、グランドと公園内の通路との間の、低いコンクリの柱と鉄パイプの垣根を乗り越えて、姉の元へ走った。姉は通路の端に自転車を停めてある。

 姉は自転車の荷台に乗った自分の鞄の上に、和也のバッグを載せてゴムロープで括った。

 「僕、乗れないじゃん」

 「歩くのよ。決まってるでしょ」

 和也はオオゲサに驚いて見せたが、機嫌の悪い姉は黙って自転車を押し始めた。ユニフォーム姿のままの和也は、仕方なく後ろから追いて歩いた。だいたいチームの子供たちみんなは、ユニフォームのままで帰途に着く。和也は、いつもは母親が家の軽自動車で送ってくれているが、歩けば家まではけっこう距離はある。チームの仲間は大部分が帰ったようだ。ほとんどが迎えの車に乗って帰って行った。中には自転車をこいで帰る上級生も居た。コーチの姿も見えない。 

 もうかなり陽が落ちて来ていた。二人は黙って歩き続けた。自動車ではものの10分も掛からない距離だが、徒歩ではけっこうある。愛子は和也を連れているので、自転車を押して、乗ってこいだら早いのになあ、と思いながら辛抱強く歩き続けた。和也は、姉にも、裸のお爺さんの幽霊の話をしたかったが、機嫌の悪い姉に話すと怒鳴られそうで言えなかった。

 しばらく歩くと、民家が途切れ、前方の何箇所かに小さな林がポツポツと見え、間は畑と田んぼばかりの寂しい道路に出た。人けはまるでない。民家も林の間に2、3軒ほど見えるだけだ。陽はかなり落ちて来ていて、あたりはそろそろ薄暗くなり始めていた。突然、愛子は怖い思いに駆られた。

 「ねえ、和也。あんた知ってる? このあたりに出る通り魔の話」

 「知らない」

 「そうか、知らないのか。いつもはお母さんの車で走ってんだもんね。地方のニュースで出てたんだよ。確かこのあたり四方だよ。学校で友達も噂してた」

 愛子は朝のTVのワイドショーの、地方ニュースのコーナーで報道されていた、通り魔出没のニュースを思い出して、じわじわと恐怖心が沸いて来て、緊張しながら自転車を押していた。幼い弟を連れて、突然目の前に通り魔が現れて襲われたらどうすればいいのか、と不安でたまらない気持ちになった。逃げるにも、弟を置いたまま自分だけ逃げる訳にもいかない。愛子は、急用で自動車に乗って叔母のところに行ってしまい、自分に弟を迎えに行かせた母親を恨んだ。

 あたりはさらに薄暗さが増している。弟と歩く道路は寂しく、人影は全く見えない。と、突然、前方に自転車が現れた。こちらに向かって来る。何処から出て来たのだろう? 自転車に乗る人影が確認できた。フードを被っているようで顔は解らないが、肩幅が広く、がっちりして見える。大人の男だ。どんどん近づいて来る。愛子は戦慄した。自転車上の男は上背が大きく見えて怖い。そして、黒っぽい色のパーカー状上着のフードを被った下、顔の部分は覆面をしている。多分、スキーなどで被る毛糸の目出し帽だ。愛子は頭の中を瞬時に、ここ最近のこの近辺で起こっている事件が巡った。ひったくりに合って重症を負った中年のオバサンの事件、背後から襲われて、からくも逃げることが出来た小学生女児のニュース、そして自転車で向かって来て、女子高生を擦れ違いざま、切りつけた通り魔のニュース。そうだ、あれだ、あの通り魔だ。

 自転車は愛子を目掛けてまっしぐらに走って来た。目の前で、車上の男の左手が水平に上がった。何かを持っている。ナイフだ。愛子は咄嗟に身をかわした。愛子の自転車が音を立てて倒れる。愛子を襲撃した自転車が通り過ぎた。間一髪でナイフの攻撃を除けた愛子は振り返り、和也を見た。和也は無事だ。呆然と立つ和也。和也をやり過ごした通り魔の自転車は、少し先まで行ってブレーキを踏んで、ピタリと止まった。呆然と立ったまま動かない和也の顔は真っ青だ。恐怖に凍りついた表情。中学の部活動でバスケットをやっている愛子は運動神経には自信があった。しかし刃物を持った大人の男を相手に、格闘を出来る訳がない。だけど、弟を守らなければならない。愛子は和也が少年野球で使っているバットを探した。ああ、そうなんだ、バットはグランド脇の保管庫に置いて来てるんだ。愛子は恐怖心に絶望的になった。

 パーカーのフードを深く被り、その下に目出し覆面で完璧に顔を隠した男が、自転車を降りてこっちへ向かって来る。手袋をした左手にはナイフを持っている。刃渡りが7、8センチくらいの、多分折りたたみ式のナイフだ。ゆっくりと歩いて近づいて来る。和也が走って愛子の傍まで来て叫んだ。

 「お姉ちゃん!」

 「和也、あたしの後ろにっ、早く!」

 和也は愛子に並んで立ち、愛子は和也の腕を掴んで自分の後ろ側へと押しやろうとする。しかし、道路の端に立つ二人の後ろは土手で、その下は田畑だ。土手には草が茂っているが、田畑まで二、三メートルあり、ちょっとした崖だ。愛子は絶体絶命だと思い、覚悟を決めた。自分が切りつけられても弟を守る。愛子は右の拳をギュウッと握り締めた。

 ナイフを構えた男は、愛子たちにじわりじわりと近付いた。もう愛子の2、3メートル手前まで迫って来た。被ったフードの下の目出し帽からは、両目だけしか表情は解らない。愛子はきっと、男の見えない口元は、得物を追い詰めた猛獣のような表情で、ニヤニヤと笑っているんだろうと思った。愛子とその後ろの和也は一歩後ずさった。後ろは崖状の土手である。もう後がない。愛子は男の襲撃に対して、飛び掛って両手で相手の身体を押すか、右のパンチで頭部を殴ってやろう、と思っていた。後ろの土手下は畑だ。土は柔らかいに違いない。和也を後ろに落とそうかと愛子は思い、チラッと後ろを見た。

 「ぐわっ!」

 通り魔がのけぞった。三、四歩後ろに後ずさると、そのまま仰向けに倒れ込んで、通り魔は尻餅をついた。愛子には一瞬、何が起こったのか解らなかった。ただチラッとだけ後ろを向いた瞬間、後方から真っ黒い塊が、猛スピードで飛んで来たように見えた。何だかそれもはっきりしなかった。夢でも見ているようだ。しかし確かに、自分たちの後方から何かが飛び出して来て、通り魔にぶち当たったのは間違いなさそうだ。あたりはもう薄す闇だ。後方は土手の崖である。何か黒い塊は、崖下の畑から飛び上がって来たのだろうか。暗くてさっぱり状況が掴めない。では、通り魔にぶつかったものはいったい何処へ行ったのか? 

 通り魔が身体を起こした。ぶるぶると首を振って、意識を戻そうとしている。尻餅をついた状態から背中を起こして、自分の身にいったい何が起こったのか全く掴めずに、しばし呆然とした様子だ。愛子は薄暗い中、目を凝らしてあたりを見回した。後ろの弟が、「あっ!」と叫んで指差した。

 犬が居た。愛子たちから5、6メートル離れた、道路の向こう端に座っていた。大きな犬だ。薄す闇の中なので、色は解りづらいが多分白色っぽい。身体を起こし膝をつき、体勢を立て直しつつある通り魔の方を、犬は余裕で見ている。愛子には何だか、その犬が、通り魔を馬鹿にして見ているようにも感じられた。

 通り魔が覆面の下から、くぐもった声で何か言いながら立ち上がった。通り魔も今度は愛子たちではなく、犬の方を見て、ナイフを構えている。犬は動じない。愛子には、相変わらず犬が、通り魔を小馬鹿にした様子で見ているように感じられる。と、座ったままの犬は幾分、顔を上げ、愛子たちの向こう側に視線をやった。こちらの方へ自動車がやって来ている。離れた向こうの田んぼ側の道路に、スモールランプを点けた自動車が認められる。白い軽自動車が一台、スモールランプを点けてこっちへ向かって来た。

 「お母さんだ!」

 和也が弾かれたように叫んだ。通り魔は慌てて振り返り、後方へ駆けて自転車の元へ行き、すぐさま自転車にまたがり、そのまま、車とは反対方向へと自転車で逃げた。軽自動車は愛子たちの前で停まった。サイドウィンドーが開くと愛子と和也の母、吉川智美が顔を覗かせた。倒れたままの愛子の自転車や二人の子供の様子を見て、智美は血相を変えて叫んだ。

 「あんたたち、どうしたの!?」

 和也は泣き顔になってドアの方に寄った。愛子はホッと安心した、ため息をついて、そのままその場へ、へたり込みそうになって、身体を折って息をつく。両足を踏ん張って座り込むのをこらえると、後ろへ自転車を起こしに行った。愛子も自然と涙が出て来た。

 「いったい、どうしたって言うのよ?」

 泣いてドアへりに掴まる和也を見て、母親はもう一度叫んだ。言葉は愛子に投げ掛けられている。愛子も半分泣きながら、母親に事の顛末を全て話して聞かせた。見る見る智美の顔色は蒼白になって行った。

 「本当に怖かったんだからあっ!」

 愛子の叫びに、智美は、どうしてケイタイで警察を呼ばなかったのか? と問うた。愛子はハッと気が付き、自転車の荷台のゴムロープを外し、鞄を取って開いた。慌てて警察へ電話しようと、ケイタイを手にする愛子を制して、智美が言った。

 「いいわ。私が警察に電話する!」

 母が警察を呼ぶ間に、和也はあたりをキョロキョロした。

 「お姉ちゃん、助けてくれた犬がいないよ」

 その言葉に、愛子は初めて犬のことに思い当たり、愛子も首を回してあたり四方、犬を探したが、もうかなり暗くなってしまっているので遠くまで視界も叶わず、犬は見つけられない。

 「帰っちゃったみたいね。あの白いワンちゃんのお蔭なのにね。警察の表彰ものなのに。この辺の飼い犬かしら」

 「何処行っちゃったのかなあ。何か似てるんだけどなあ」

 「え? あんた知ってんの、あのワンちゃん」

 「いや‥。違うんだけどさあ。夕方、野球の練習の時、公園の森の中に居た犬に雰囲気が似てたんだよ。大きさとか色とか違うんだけど、何かさあ、不思議な雰囲気でさ。何か、人間みたいにものがよく解ってるみたいな‥」

 警察への連絡を終えた母が、話を引き取った。

 「何、言ってるの。普通の犬よ。それに、和也。近頃はぶっそうなんだから、野球の練習中でも一人だけ森の中なんかに行っちゃあ駄目よ。何処に変質者が現れるか解らないんだから。助けてくれたワンちゃんはきっと、警察が捜し当ててくれるわよ」

 智美は、和也に車の後部座席に乗るように言い、パトカーが来るのを待った。

 愛子も、危機を救ってくれた白い大型犬が、何だか普通の犬ではないよう思われた。通り魔を睨んでいた犬の目には、明らかに実力差の違う相手に対して、見下したような余裕があり、まるで相手を小馬鹿にしているような、そんなムードがあるようにも思われた。確かに大きな犬だったし、実際、飛び掛って行けば強いんだろうけど、人間のような表情に感じられた雰囲気は自分の思い過ごしだろう、と愛子は思った。

※長いプロローグ..(2)へ続く。

 

◆(2012-01/01)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(1)
◆(2012-01/19)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(2)
◆(2012-01/26)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(3)
◆(2012-02/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(4)
◆(2012-02/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(5)
◆(2012-03/02)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(6)
◆(2012-04/02)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(7)
◆(2012-04/25)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(8)
◆(2012-06/01)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(9)
◆(2012-06/16)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(10)
◆(2012-07/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(11)
◆(2012-08/04)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(12) 

 

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