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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」狼病編..(14)

14.

 空には煌々と満月が照っている。月の周辺には少しだけ、細長いちぎれ雲が散っているが、薄闇の大空の、月から離れた外周には幾つも星が見える。くっきりとした満月の下には、真夏だというのに、大きめの長袖ブルゾンで上半身を包み、深々と帽子を被る、一人の男が立っていた。

 ブルゾンの袖から出る両手には手袋、顔は大きめのサングラス、顔の下半分は大きなマスクである。この男は全身を、まるで何かですっぽり包み込んだように、頭の先から足元まで余すことなく、隠してしまっている。体格が良くて身長もあり、成人の男性としては大きな方か。

 怪しい出で立ちの男が立つのは、満月の下の、雑居ビルの屋上である。夜とはいえ、夏真っ盛りの時季に、男は、暑くはないのか異様な出で立ちで、ビル屋上の端の鉄柵越しに、周辺を見下ろしている。この辺りは、ほとんどが四、五階建の雑居ビルが、密集して立っている。高くてもせいぜい、六階七階建のビジネスホテルが見えるくらいだ。西側に商店街アーケードの屋根が見える。この辺り一帯は、商業ビルが群立する繁華街なのだ。

 男は、五階建ビルの屋上から辺りを見回しながら、時間を待つように、ただ凝っと佇んでいる。顔を隠した大きなマスクの間からは、ふさふさと生えたような髭がはみ出して見えている。人の髭というより動物の体毛のように長い。濃い茶色の大型犬の体毛のようだ。

 「そろそろかな‥」

 男が独り言で呟いた。男はビル屋上の鉄柵を股越すと、二十センチの幅もないビルの淵に立った。風はないが、ビル五階の淵は、普通の人ならば怖気づいて固まってしまう高さだ。軽く勢いを付けて、片足でビルの淵を蹴る。フワリと浮いた身体は、繁華街の通りを越えて、真向かいの四階建てのビルに降り立った。下の通りは人が行き交っているが、上空を見上げる者などは居ない。ビルの屋上に軽々と着地した男は、またフワリと跳んだ。そのビルの屋上鉄柵の上に立つ。そこからまた軽々と跳んで、並びのビルの屋上へ移る。

 そうやって男は満月の夜の中、黒い影となって、牛若丸の八艘飛びよろしく、屋上から屋上へと四つ五つのビルを渡った。とても人間ワザではない。誰にも見つからず、男は目当てのビルの屋上に降り立った。

 男は着地した屋上で二、三度頭を巡らせた。四階建ての古ビルで、屋上を囲む鉄柵も錆び付いたところが目立つ。屋上の床面のコンクリも黒くくすんでいる。多分ビル壁面もところどころ剥げ落ちたりしてるのだろう。かなり年季の入った古ビルだ。もっとも、満月とはいえ月明かりだけの下では、そういったビルの状態なぞは見える訳がない。だがあたりを見回す男には、そういった細かなことも見えるようだ。

 「随分、古い物件を根城にしたもんだ…」

 男はまた独り言で呟いた。野太いくぐもったような声だ。聞きようによっては、野生の動物の唸り声のようにも聞こえる。やがて男はビル屋上から階下への降り口を捜した。男は手袋を嵌めた片手で、階下への扉のドアノブを握って引いてガチャガチャやったが、鍵が掛かっている。

 ドアに鍵が掛かっていることを知ると、男はドアを無理に開けようとはせず、ドアから離れた。目深に被ったハンチング帽にサングラス、顔にはマスクを掛け、ダボダボした長袖ブルゾンに両手袋で、この真夏の夜に完璧に正体を隠した男は、確かに鉄製のドアだが、こんな扉くらい力ずくで打ち破る自信もあった。しかし男は、ビル内に入るのに大きな音は立てたくなかった。

 男は振り返ると、表通りとは反対側の、ビルの裏側サイドに歩いた。屋上端の鉄柵まで来ると、フワリと鉄柵を越え、ビルの淵に立った。両手袋を脱ぐと甲にびっしりと毛の生えた、毛むくじゃらの手が現れた。指先まで毛に覆われ、指先には硬そうな長い爪が生えている。まるで野生の猛獣のような爪だ。男は手袋を丸めてブルゾンのポケットに突っ込んだ。

 男はビルの鉄柵側に向いたまま、ビルの端のコンクリから両足を離した。男は自然落下でビル壁面に沿って落ちる。が、直ぐに四階の窓ワクの壁面に指を掛け、ビル壁面にぶら下がった。ビル裏側の下には通りがあるようだが、路地の街灯もないようで暗くて見えない。

 男が淵にぶら下がった窓は、屈んだ大人の身体が入るくらいの大きさの窓だ。ビル四階のトイレの窓だろうか。男はするすると壁を伝い、雑作もなく窓ワクの端に立つと、窓を動かしてみた。窓は施錠されてなく簡単に開いた。

 男が窓からビル内に入ると、そこは男子トイレだった。四階建てビル内のトイレとしては広く、六畳間二つ並べたくらいの広さがあり、片方の壁面に沿って男子便器が六、七個並んでいる。反対側の面には、大便器だろうか、扉のある個室が三つほど並んでいる。

 男は先ず帽子を脱ぎ、マスクを取り、サングラスを取った。現れた顔は毛むくじゃらだった。吊り上って大きな目は鋭く、突き出た鼻と尖った耳は犬そのもので、半開きの口の中にはズラリと牙が並んでいた。そう、男はヒトオオカミだった。狼男だ。

 ヒトオオカミは、昼間の普段の姿は、ちょっと小太りめの穏やかそうな勤め人ふうで、そんなに大きな男でもないが、正体を表した今の姿は、衣服の上から見ても、鍛え上げた筋肉質のような体躯で、体格の良い、けっこう大きな男性だ。どうやら、昼間と月の出た夜とでは、身体がひと回り大きくなるようだ。

 ヒトオオカミがトイレ出口の扉に向かおうとして、立ち止まり、一歩後退して構えた。扉の向こうに何かを感じたのだろう。突然、ドアが勢いよく開けられた。男子トイレの中に、素早い動作で女が入って来た。赤い半袖シャツに黒っぽいスカート姿で、ロングにした黒髪。何処にでも居そうな若い女だ。だが、両目が異様だった。目が全面、充血したように真っ赤で、ちょっと見では瞳が判別できない。女が口を開くと、ヒトオオカミほどではないが、上下に並ぶ歯が全部、牙状に尖っている。女は今にも襲い掛からんばかりに、両手を上げて構える。両の手の爪も、固そうで長い。

 女は数日前に、藤村敏数のアパートの部屋から消えて、行方不明になったままの、警察が殺人事件の重要参考人として緊急捜索している人物だった。城山まるみは、こんなところに居たのだ。

 怪物化している城山まるみが、怪物であるヒトオオカミに、諸手を上げて、今にも嚙み着かんばかりに大きく口を開いて、飛び掛って来た。咄嗟にヒトオオカミは左に身体をかわし、城山まるみの両手は空を掴んだ。目の前から消えたヒトオオカミを捉えようと、まるみが首を回すと、刹那、ヒトオオカミがブンッと腕を振った。まるみの斜め後方に位置するヒトオオカミが、プロレス技のラリアットと同じように、真横に腕を振ったのだ。ヒトオオカミのラリアットは凄い勢いでヒットし、普通の女性の大きさのまるみの身体は、その衝撃に、宙に浮いてふっとんだ。

 怪物化している城山まるみだったが、背中と後頭部を勢いよく、壁面にぶつけて落ち、トイレの床に倒れ込んだ。そのままピクリとも動かない。一撃でしとめたヒトオオカミは、床にうつ伏せ状態で失神した城山まるみに、特別関心はなさそうにさっさと、トイレの出口ドアに向かう。ヒトオオカミは、その毛むくじゃらで猛獣のような爪の伸びた手で、ドアの取っ手を掴んだ。

  ドアを開けると、音楽が聞こえて来た。低音を利かしたロックミュージックだ。ビートの利いた音楽に、英語であろうボーカルが乗っている。トイレのドアから出ると、薄暗い廊下だった。廊下の両側は、コンクリートが剥き出しの壁だ。廊下の数メートル先、突き当たりにドアがある。音楽はそちらの方から聞こえて来る。ドアの向こうで大きな音量で、やかましい洋楽曲を掛けているのだろう。

 音楽の聞こえる方へと向かおうとしたヒトオオカミが、立ち止まる。突き当たりのドアが開いた。同時に大音量のロック音楽が廊下に入ってくる。ヒトオオカミはうるさくて耳を塞ぎたかった。誰かが入って来たのだが、薄暗い中で顔までは見えにくいが、男性のようだ。こちらに近付いて来る。

 長袖ワイシャツを着て、首にはネクタイを結んでいるらしい。頭髪もそれ程長髪でもないが、少々ボサボサしている。風体からしてサラリーマンのようだ。ゆっくりとだがヒトオオカミに近付いて来て、三、四メートルか手前で止まった。薄暗い中で相貌が解りにくいが、両目の辺りが異様だ。両目が全体に真っ黒い。瞳や白目の判別が着かない。まるで両方に深い穴が開いているようだ。

 この、サラリーマンの格好をした男は、行方不明になったままの、ワカト健康機器株式会社の係長職に着いていた、吉川和臣だった。この異様に変貌した吉川和臣も、異様に変わり果てた城山まるみと同じように、ゆっくりと両手を上げて構えた。まるみと同じように、両手で掴み掛かり噛み付いて来る寸法なのか。ヒトオオカミは、相手が飛び掛かって来たら、城山まるみのときと同じく、体をかわして死角に入り、ラリアットかパンチか一撃を喰らわすつもりでいた。

 まるでぽっかり開いた二つの穴のような目には眼球が判別できず、いったい何処を見ているのか解らず、敵の顔を見ているヒトオオカミは、相手の表情から次の動作が読み取れず、ただその真っ暗い両穴に吸い込まれてしまいそうな気がした。敵が飛び掛かって来るのを待つ体勢のヒトオオカミは、諸手を上げたままで次の動作に入らない、目の前の男に怪訝に思った。

 ヒトオオカミが「どうしたんだ?」と思って、態勢を緩めて力を抜いた瞬間、目の前に立つ、変わり果てた吉川和臣の口が大きく開いた。これも、深く真っ暗い、底なしの穴のようだった。突如、その穴から何か、白いものが吐かれた。無数の糸。何百本何千本という白い糸が、前方に伸びて来る。間一髪、左へ体をかわしたヒトオオカミは、白い糸の固まりを直撃で身体に浴びずに済んだが、右腕から右肩に糸の固まりが少し掛かった。

  「おまえは蜘蛛人間か」

 思わず、ヒトオオカミから言葉が漏れる。まるで野獣が吠えるときのような、低くドスの利いたダミ声だ。ヒトオオカミは人間の姿のときは、全体的に丸っこい感じの、猫背で小太りのおとなしそうな中年サラリーマンという雰囲気で、背丈もそんなに高くもないし、控えめで柔和そうな顔つきのアジア系男性なのだが、今、狼男の姿になった、その身体は筋肉質で人間時よりも一回り大きくなっているように見える。そして顔そのものは、狼の精悍な野獣の相貌だ。

 右の肩から腕に掛かっている幾筋もの白い糸は、ネバネバして粘着力が強く、簡単には取れそうにない。幾筋もの糸の先は、今や蜘蛛男と化した吉川和臣の口の中へと続いている。ヒトオオカミは長袖ブルゾンを脱ぎ捨てた。まだ右手の甲に蜘蛛の糸がくっついたままで取れないので、ヒトオオカミは揉みくしゃにしたブルゾンを力ずくで引っ張ると、手の甲のもじゃもじゃ生えた毛が抜けた。痛みが走り、ヒトオオカミは一瞬顔をしかめた。

 黒いTシャツ姿になったヒトオオカミは、獣の両腕が剥き出しで毛むくじゃらだ。蜘蛛男と化している吉川和臣は、今吐いた蜘蛛糸が意味がなくなったので、口元でプッツンと糸を切った。ヒトオオカミの方を向いて猫背姿勢のまま、両手を顔のあたりまで挙げて構え、蜘蛛男は再び口を大きく開けた。第二段の蜘蛛糸を発射するつもりだろう。

 ヒトオオカミは瞬時に身体三つ分くらい動いた。蜘蛛男の視線が追い付かない。蜘蛛男がヒトオオカミを捉えようと首を回したときには、ヒトオオカミはもう一度素早く動き、やはり蜘蛛男の視界には居ない。ヒトオオカミを視界に捉えることに懸命な蜘蛛男が身体を回す。いつの間にか蜘蛛男との距離を縮め、蜘蛛男の死角に入ったまま、斜め横まで来ていた。右腕を思いきり振って、ヒトオオカミのラリアットが、蜘蛛男の首の付け根あたりに入る。トイレの部屋で、城山まるみを倒したときと同じ攻撃だ。

 城山まるみのときと同じく、蜘蛛男の身体は軽々と吹っ飛んだ。宙に浮いて飛び、壁にいやと言うほど頭と肩をぶつけた。そのまま壁伝いに床に落ちる。ピクリとも動かない。ワカト健康機器産業の会社員係長職、吉川和臣の変わり果てた姿だ。仰向けになって気絶している男の顔は開いた両目と口が、ぽっかりと三つ真っ暗い深い穴が開いたままだ。

 ヒトオオカミの標的は、ゾンビ化した城山まるみや、ここに倒れている蜘蛛男ではない。ヒトオオカミはよく承知している。こいつらはあの化け物から自分の意思をもぎ取られ、思い通りに動くしもべにされた、元は普通の人間の、哀れな犠牲者だ。この廊下の先のドア、その向こうにヤツが居るに違いない。ヒトオオカミはドアに向かってずんずんと進む。

 ヒトオオカミが重いドアを開けた。廊下側は鉄製の頑丈なドアだが、廊下の向こうの部屋側ドア面は、クッションの入ったような赤いビニール張りで、ドアを開けたと同時にガンガンとうるさいロックミュージックが流れ込んで来た。重低音がズンズンと響く。

 部屋は広いフロアーで薄暗く、真っ赤い照明で統一され、部屋の中央の天井で、何か大きな照明が回転していて、真っ赤な空間で明暗がくるくる回っている。この広いフロアー全体に漂う、甘ったるい匂いがヒトオオカミの鼻を突いた。麻薬系の匂いだろうが、大麻ともマリファナとも違う独特の匂いだ。

 真っ赤で薄暗い室内は、クラブやキャバレーのように、何ヵ所かに分けた背の低い仕切り壁に沿って、幾つものテーブルとソファを置き、フロアいっぱいにたくさんのボックス席を作っている。ボックス席は半分以上が人で埋まっていた。突如部屋に入って来たヒトオオカミには誰も気が付かない。この部屋に居る者はみんな朦朧としているようだ。

 部屋の中に入ったヒトオオカミは、立ち止まったまま、しばしあたりを見回した。ボックス席の人間たちは、男と女がヘラヘラと笑いながらじゃれあっているが、みんな何かに酔っているように朦朧としていて、ゆっくりした動作でゆらゆらと揺れている。中には猛烈にキスしあっている男女も居た。

 全ての男性が客で全ての女性が店のホステスという訳でもなさそうだ。ホステス然としたドレス姿の女も居れば普段着姿だろう女も居る。男もサラリーマン風も居ればラフな格好の男も居る。だらしなく笑い、力が抜けているように身体を揺らす男女は、愉快そうにじゃれ合い、中にはキスしたり抱き合っている者たちも居るが、別に性行為までしている訳ではない。

 ヒトオオカミは室内を隅々まで見回したが、目指す者たちは居ないようだ。店内の奥に隠れているのだろう。奥に店の従業員が出入りするようなドアがある。そこに向かってヒトオオカミが一歩踏み出すと、一人の華奢な女がふらふらと歩いてこちらへ向かって来た。何処かのボックス席に居たのが立って来たのだろう。

 急に室内のBGMが変わって、それまで流れていた70年代から80年代頃までの、ボーカルがやかましくシャウトするロックミュージックが止まり、重低音の利いたダンスミュージックが流れ始めた。若者が踊りに集まるクラブなどで流される、洋楽としては比較的新しい、いわゆるEDMというダンスミュージックだ。

 黒い薄地のワンピース、茶髪の髪、濃い化粧。ヒトオオカミは思い出した。席を立ってヒトオオカミの方へと歩いて来る、この女は、さっき通りに居た女だ。夕方の飲み屋街で二人組の男の一人を誘導していた女。その男は催眠術に掛かったように、この女を追い掛けて歩いていた。その男を背の低いもう一人の方が必死で止めようとしていた。この女も、奴に使い魔のようにされて利用されているのだろう。

 ヤツの魔力で使い魔に改変された、この女は、男を性的に狂わせる力を身に付け、これと定めた男を、催眠術に掛けたように己れの意思を無くさせて、性的に惑わせ、操り人形のように歩かせてここに連れて来るのだろう。

 この女も、先程倒した二人のように、自分に攻撃をし掛けて来るのか?さっきの蜘蛛男は蜘蛛糸を吐いたが、この女も何か特殊な力があるのか? だが、自分の一撃で簡単に排除できるだろう。女はゆらゆらしながら近付いて来た。ヒトオオカミは特段力みもせずに女の前で構えた。

 室内には重低音の利いたEDMが流れ続ける。室内を支配する大きな音の音楽が変わったことには何の反応もなく、ボックス席を埋める男女はゆらゆらと緩慢に動きながら、お互い愛撫を続け合っている。女は赤色に染められた薄闇の空間の中、衣服を脱いだ。ブラジャーをしていない。女はなまめかしい表情をしながら、ヒトオオカミに近付き、両手を開いて抱き付いて来ようとする。

 馬鹿な人間だ。この、獣面の異様な怪物に対して、人間の女が色仕掛けで惑わそうというのか。華奢な身体に似合わず、たわわな両の乳房を揺らしながら抱き着いて来る女を、ヒトオオカミは片手で軽く払った。まるで紙で作られた木偶人形のように、重量感なく女の身体は飛んで行った。ヒトオオカミは女が飛んだ方を見向きもしない。

 また音楽が変わった。部屋を覆う大音量の音楽は、重低音で刻むリズムだけになった。それまで各々のボックス席で互いに愛撫し合いながら揺れていた男女が、全員がお互いに身体を離しゆっくりと立ち上がった。男女はボックス席から出て来ると、ジワリジワリとヒトオオカミに近付いて来る。全部で十四、五人は居そうな男女は、ヒトオオカミを包み込むようにやって来て、ヒトオオカミを囲った。

 ヒトオオカミが一声、猛獣のように吼えた。しかし催眠術にでも掛かっているのか、取り囲む男女は意に返さない。ロボットのようにジワジワと囲みを縮めて来る。四方前列の者が両手を上げた。ヒトオオカミに掴み掛かって来るつもりだ。ヒトオオカミは両腕を横に震い、前の二人を薙ぎ倒した。ロボットのようでも痛みは感じるのだろう、倒された者たちは悲鳴を上げる。次の列の二、三人も簡単に薙ぎ倒され悲鳴を上げる。

 三番目の列の二人は蹴り倒された。あっという間にロボット状の人間で作られた厚い壁は開かれた。両脇に倒れる男女は、ボックス席や通路で横になり痙攣している。ヒトオオカミの目指すドアがまた見えた。あそこに奴は居るに違いない。ヒトオオカミはドアに近付いて行く。

 キャバクラ店内の大フロアー、その部屋の隅にある一つのドアー。この向こうに追い続けて来た奴が居るのだ。今日こそ決着をつけてやる。長年追い続けて世界を飛び回った。いつも引き分けにされるか逃げられて来た。ここで殺して息の根を止めてやる。今こそだ。

 ヒトオオカミは興奮して身震いが来た。隅の小さなドアの前で、ヒトオオカミがドアの取手に向けて腕を伸ばす。

 そのとき、上方から何かが落ちて来てヒトオオカミを包んだ。ヒトオオカミは驚いた。何だ?? 網だ。太いロープを格子状に編んだ網だ。ロープの網にヒトオオカミは包まれてしまった。

 ぼんやりとした赤い照明の薄暗い空間の中、ヒトオオカミを包んだ網が引き上げられた。ヒトオオカミは太い格子状ロープの網ごと宙に浮いた。網の袋の中で丸くなっているヒトオオカミ。罠に掛かってしまった。そう気付いたヒトオオカミが必死に網のロープを掻く。

 ヒトオオカミの毛むくじゃらの両腕の先、硬く長い爪の生えた手が左右で網のロープを掻いて引っ張るが、ロープは強靭だった。ヒトオオカミの爪は少々な鉄線くらいならぶち切ってしまう。その、ヒトオオカミの爪が全く歯が立たない。かなりな硬度のワイヤーが芯に入ったロープのようだ。

 山林で罠に掛かった獣よろしく、ロープ網ごと宙に吊り上げられたヒトオオカミ。網の中でどんなにもがいてもロープの網が空中で揺れるばかりだ。ヒトオオカミの喉から悔しさに溢れた獣のうめきが漏れる。

 ヒトオオカミが目指していた、フロアの隅のドアが開いた。出て来たのは怪物だった。胸をはだけたワイシャツに、下はスラックスを穿いて革靴を履いているが、顔はさらけ出している。ギョロリとした目、少々尖った口に、その上に爬虫類のように二つ開いた鼻の穴、鱗が覆うように見える肌。口にはズラリと牙が並ぶ。素顔のトカゲ男だ。

 トカゲ男は、網に捕らわれて中でもがくヒトオオカミを見て、笑っている。トカゲ男が左に除けて、ドアに向かってうやうやしく迎え入れるような仕草をした。ドアの向こうから次に出て来たのは背の高い痩せた人物だった。

 胸まで伸びる長い髪。部屋全体が赤い照明に支配されているから、何色かは解り辛いが、白色系統だろうと思われるドレスを着ている。長い髪は黒色であろう、光沢があってつやつやしている。顔にはサングラスが掛けられていて、その下の肌は首周りまで真っ白い。分厚く白塗りの化粧をして、耳の近くまで裂けているような口元は真っ赤な口紅を塗っている。

 網の中でもがくヒトオオカミは、その髪の長いドレス姿の人物を喰い入るように見詰めてうなった。背の高い厚化粧の女が笑った。甲高いが濁りのあるダミ声だ。口が耳元近くまで裂けて真っ赤な唇が目立つ。

 「あっはっはっは…。ヒトオオカミ、のこのこ出向いて罠に掛かって手も足も出ないとは、おまえも馬鹿な犬コロだな」

 網の中から、悔しげな獣のうめきが漏れる。背の高い女の隣のトカゲ男が低いダミ声で笑う。

 「ぐうっ…。化け物蛇女め…」

 ヒトオオカミが呻くような声で言った。

 「黙れ、野良犬!蛇姫様に何という口の聞き方だ」

 トカゲ男が怒鳴った。トカゲ男の声は、叫んでもダミ声だ。

 トカゲ男が蛇姫様と呼ぶ背の高い女が、右手を上げた。手袋をしている。真っ赤な照明の中で解りにくいが、これも白色だろう。その合図で、突っ立ったままだったフロアの大勢の男女が一斉に動き出した。それぞれが元の席に戻って行く。いつの間にか音楽がやんでいる。

 蛇姫様と呼ばれる女が降ろしていた方の左手を上げると、拳銃が握られていた。オートマチックの銀色の拳銃だ。それを胸の下あたりに構えた。

 「ヒトオオカミ。これが解るか。この銃には普通の弾丸は籠められていない。狼男のおまえには拳銃のタマなぞ効かないからな。唯一おまえを殺せる弾丸だ。この銃には銀の弾丸が籠められている」

 残忍そうに笑いながら蛇姫が言った。隣のトカゲ男もニヤニヤ笑っている。フロア·ボックス席の男女たちは、シンと静かにしている。このフロアに居る普通の人間たちは、蛇姫の力に寄って完璧に人格操作されているようだ。みんな意思の無い木偶人形そのものになっているのだ。そして指示があればロボットのように動く…。

 蛇姫が左手を伸ばして銃口を、天井から吊られた袋状の網に向ける。網の中のヒトオオカミは旋律した。狼男である自分はほとんど不死身と言っていい身体だが、唯一、銀の弾丸だけは弱点だ。しかも致命的な弱点。

 網の中のヒトオオカミは悔しくてたまらず歯ぎしりしながら唸り声を上げる。蛇姫のオートマチックの銃口がこちらを向く。網の中で身動き取れないヒトオオカミは、手足を身体の中心に寄せて精一杯、心臓の上など内臓を庇った。

 「無駄だ。この銃の口径は大きい。そんな手足で庇ったところで銀のタマはおまえの内臓をくり貫く」

 蛇姫はそう言い放ち、引き鉄をひいた。銃の音が響く。今の拳銃は射撃してもそれほど大きな音は出ないらしい。そこまで大きな音でもないが銃音が響いたのに、ボックス席の男女たちは無反応のままだ。

 宙吊り網の中でまるくなってるヒトオオカミは、懸命に自分の急所を庇っていたが、蛇姫の撃った銀の弾丸はヒトオオカミの両腕をすり抜けて、胸のあたり、内臓に撃ち込まれてしまった。

 ヒトオオカミが「うっ!」と声を上げた。歯を喰いしばる。どうやら銀弾は心臓のあたりにヒットしたようだ。ヒトオオカミには痛みは解らなかった。だが突然、苦しさが襲って来た。苦しい。苦しさがどんどん増して来る。呼吸ができなくなって来る。身体の力が入らず、網を掻きむしる力もない。息ができない。目の前が真っ赤になって見えなくなって来た。意識が遠のいて行きそうだ。意識が朦朧として来る。

 「俺は死ぬのか‥?」とぼんやりした頭の中で思った。ヒトオオカミは“死”を意識した。蛇姫が「山に埋めて来い」と命じる一声が微かに聞こえた。どんどん意識が失われて行く。もう何も見えず何も聞こえない。闇が迫る。突然、真っ暗になって、ヒトオオカミの意識が落ちた。

※「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編(14)、終了。このお話は続きます。「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編(15)へと続く。

◆2016-07/05 小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編..(13)

◆2016-02/20 小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編..(12)

◆2012-08/18 小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1)

◆2012-09/07 小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ 」 狼病編 ..(2)

◆2012-01/01 小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(1)

◆2013-05/18 小説・・「じじごろう伝Ⅰ」..登場人物一覧(長いプロローグ・狼病編)

 

 

  

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