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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(5) 

5.

 市の外郭の、山地を切り開いて造り上げた、大規模な多目的運動公園は、野球用・サッカー用の二面のグランドを持つ他、各種遊具やアスレチック設備を揃えた広場や、イベント広場も有り、また、緑の自然そのものも残していて、二つ三つの小山や谷合いなどをぐるりと、幾通りもの遊歩道が巡らされている。広域な公園内を、迷路の如く張り巡らされた、通路や遊歩道だが、散策や鍛練歩行用の遊歩道も、いつも大勢の利用者が歩いているメインロードと、ほとんど利用されていない通りとがある。その、普段あまり人が歩かない通路の中には、どうしてこういう道を作ったのか、ひときわ深い森の中へ入って行く、行き止まりの遊歩道もある。この、森の中への遊歩道引き込み路は、普段ほとんど人が入ることがなく、最初に遊歩道として舗装された通路は、その後、全く整備されておらず、何年もの間、放ったらかし状態で、路面は堆積した腐葉土に、さらに落ち葉が重なった状態で、雨でも降ろうものなら泥道然としていて、上空を生い茂る樹木の枝葉が覆っていて、路面が乾くことがなく、常にじめじめして汚い。

 今、その遊歩道引き込み路の一箇所に、十人以上の人が居た。ほとんどが市立中学校の生徒で、この中学校の卒業生で現在は学業にも仕事にも就かず、毎日ぷらぷら遊んで過ごしている、ハイティーンの若者も二人ほど居た。その、中学生ら少年たちのほとんどが、一匹の犬と対峙していた。少年たちと四、五メートルの間隔を開けて立つ、一匹の犬は見た目、大型の日本犬で、毛色は白っぽく尾は巻いていて、仮に秋田犬種としても、相当大きい。少年たちは各々、鉄パイプや木の棒、通販武器の特殊警棒や、鉄製チェーンなどを構えて、犬を取り囲むように、じりじりと動き間合いを詰めていた。

 そして、その、戦闘態勢の少年たちの後方には、一人だけ離れて、魂が抜けたように、ボーッと突っ立った少年。その、通路を挟んだ向かいには、中腰に座る少女と、立っている小さな子供。犬は、一番前で鉄パイプを斜め上に構えた男を、睨み付け、小さく唸っていた。この唸りは威嚇ではなく、怒りの唸りのようだ。犬を、ほぼ半円形に取り囲んだ少年たちは、一番前の男が、鉄パイプを振り降ろしたら、それを合図に一斉に、犬を叩くつもりでいた。そこへ、闖入者が現れた。遊歩道メインロードの方から、遊歩道引き込み路へと歩いて来た、一人の男は、吉川愛子や和也、後能滋夫を無視してやり過ごし、少年たちの塊の、すぐ後ろまで来た。

 くたびれた背広に、ヨレッと曲がったネクタイ。薄くなり始めた頭髪を整髪した頭。どう見ても、中年のサラリーマンのオッサンという雰囲気である。男はツカツカと、少年たちの間を掻い潜って、前に出て来た。

 「いよ~ォ、ジャックの旦那。お久しぶりですね」

 男は、大きな声を出して、少年たちの一番前で鉄パイプを構えた、ハイティーンの少年の前まで出て来た。ひしゃげたような声音で、大きな声だが、随分間の抜けた声に聞こえた。虚を衝かれた少年たちは、呆気に取られポカンとしてしまった。

 「いやぁ~、探しましたよ。随分長い間、お会いしませんでしたね。ジャックの旦那も、お元気そうで」

 男は、犬に向かって話し掛けている。犬の方も、少年たちを睨むのも唸るのも止めて、じっと立っていた。背広姿の、くたびれたサラリーマン然とした男は、ギョロリとした両目が離れていて、鼻は低く、薄い唇の口は幅広く、見るからにカエルに似ていて、ユーモラスな顔をしていた。少年たちの一人が、口火を切って言った。

 「バッカじゃねーの? 犬に話し掛けてら」

 続けて、もう一人が言った。

 「このオッサン、頭イカれてるぜ」

 少年たちが、一斉に爆笑した。男は、少年たちの言動を意に介さず、尚も、犬に話し掛ける。

 「ジャックの旦那。ところで、じじごろう先生はどちらに?」

 犬は無表情に、カエル顔の男をじっと見ている。鉄パイプを持ったハイティーンの少年が、空いた方の手で、カエル男の肩を持ってグイと引いた。

 「おいおい、キジルシのオッサンよォ。もういいから、病院帰って、壁と喋ってろよ。こっちは取り込み中なんだ!」

 またドッと、少年たちが笑った。カエル男は無視する。そしてまた、犬に向かって喋った。

 「いや、ジャックの旦那。実は、俺は、じじごろう先生に相談ごとがありましてね‥」

 鉄パイプの少年が、無視されたことに気分を害し、顔つきが変わった。

 「おい、オヤジ。いい加減にしねえか! いくら頭がおかしいからって、ここから退かなきゃ、タダじゃ済まさねえぞ!」

 今度は、少年たちも笑わない。

 「おい、馬鹿オヤジ。早く、ここから立ち去れよ。でないと、痛い目みるぞ。それもかなり‥」

 チェーンをぶらぶら揺らしながら、中二の西崎慎吾が、精いっぱいドスを利かせた声で言った。リーダー・西崎の言葉に、一同は “くたびれたサラリーマン氏” のオヤジを睨み付けながら、囲むように動く。犬は無表情に、ただ、じっとしたままだ。もう、少年たちと一戦交えようという、怒りや緊張感は見られず、静かに成り行きを見守っているようだ。カエル顔のサラリーマン氏は、ようやく少年たちに気が付いた。

 「何だ、おまえたち。早く、帰れ帰れ」

 荒い言い方だが、ひしゃげたような声音で、まるで迫力のない命令形だ。そして首を回して、少年たちの構えるチェーンや、通販武器の特殊警棒を指して言った。

 「そんな、オモチャみたいなもん振り回してないで、早く帰らんと、大変なことになるぞ」

 相変わらず、鼻に掛かったひしゃげ声だ。それからまた、犬に向き直り、犬に向かって話し出す。

 「ということで、ジャックの旦那。申し訳ないが、ここは俺に免じて、納めてくれませんか。何しろ、この姿のときは俺は、もう、血の海なんか見たくないんで‥」

 カエルのオヤジが、言い終わるかどうかの際で、西崎慎吾がチェーンをひと振りした。

 「ギャッ」 サラリーマン氏が、叫びを上げた。

 西崎の振ったチェーンは、サラリーマン氏の背中にヒットし、グレイの背広に一筋、破れが入った。かなり痛かったのだろう、カエルオヤジは苦悶の表情で、退けぞっていた。

 「やい、オヤジ。頭がおかしいのか知らねえが、ナメた口利いてんじゃねえぞ! 犬に、何言ってやがる!」

 西崎の怒鳴り声に、少年たちの間から笑いが起こる。

 「頭おかしいオヤジは、真っ直ぐ、精神病院帰ってろ」

 年長の少年が、鉄パイプを低く薙ぐように振った。カエル顔のオジサンの、両膝裏にヒットして、オジサンは後ろにひっくり返った。

 「何するんだ!?」

 転んだオジサンが怒鳴るが、ひしゃげ声なので迫力がない。

 「馬鹿野郎、この爺ィ!」

 少年の一人が、転んでペタリと座った状態の、オジサンの顔を蹴る。オジサンは悲鳴を上げて、横に倒れる。西崎が一歩出て、横向きに寝た状態の、オジサンの腹を蹴ると、別の一人が、背中の腰の辺りを蹴った。オジサンが苦しそうに、身体を丸めて喘ぎながら、何か喋り始めている。

 「おまえら‥、こんなことをしていると、中のヒトが‥」

 「うるせえっ!」

 一人が顔を踏んづけて、オジサンの喋りを遮断した。少年たちは、袋叩き状態で、みんなで寄ってたかって、寝転がって丸まったオジサンを、蹴り続けた。

 オジサンは最後に、「中のヒトが‥」 と言って、動かなくなった。

 だが、ピクピクと、全身痙攣はしている。年長の少年が言った。

 「もう止めろ。本当に死んでしまうぞ」

 続けて、もう一人の年長が言う。

 「殺してしまうと、まずいぞ‥」

 このグループの、実質リーダー・西崎慎吾が言った。

 「そうだ。この大人を、殺してしまうのはまずい。もう止めよう」

 吉川愛子は、緊張感と焦燥感で、「どうしよう、どうしよう‥」 と、パニック状態のような気持ちだった。

 スーパードッグ・ジャックと、二年二組の西崎慎吾ら不良グループの、約十人との対峙の間に割って入った、カエル顔のオジサンが、見る見る内に、西崎たち総掛かりで袋叩きに合い、のされてしまった。大人数で、あれだけ痛め付けられれば、多分、重症を負っているだろう。

 「大変だ。どうすればいい!?」 愛子は、成す術なく、ただただ、そう思うばかりだった。

 この近さだ。携帯を出して、警察へ通報しようとしても、直ぐに見つかり、携帯を取り上げられ、西崎らにひどい目に合わされるだろう。

 隣には、幼い弟も居るのだ。それにしても、スーパードッグであるジャックは、どうして何もしないのだろう? カエル顔のオジサンは、犬のジャックに話し掛けていた。オジサンは、その言葉の内容から明らかに、ジャックとは旧知の間柄のようだ。そしてだいいちに、犬に普通に話し掛けるオジサンは、多分、ジャックがスーパードッグだと知っている。愛子は、疑問に思っていた。ジャックは何故、旧知の間柄であろう、カエル顔のオジサンを助けず、黙って見ているのか?

 ふと、愛子は、隣に立つ弟を見た。黙ったまま、真っ直ぐ、成り行きを見ている。

 「ねえ、和也。ジャックはどうして、あのオジサンを助けてあげないの?」

 和也はゆっくりと首を回し、姉の顔を見た。妙に落ち着いている。

 「よく解らないんだけど、ジャックさんは、そんな必要を感じてないみたいだ。もう、ジャックさんの怒りも納まってる‥」

 「ハチさんの方は、まだ居るの?」

 「うん。奥の方の茂みの中から見てるけど、ハチさんも、気持ちは落ち着いてる‥」

 「ふう~ん、そうなんだ」

 ジャックが現れてからは、愛子は、自分たちの身の危険に対しては、妙に安心していた。和也が側に居る限りは、スーパードッグが絶対に助けてくれる、という確信のようなものがあった。

 「ねえ、和也。解んないかな。あのオジサン、誰?」

 愛子の問いに、和也は平然と、ボソリと答えた。

 「あのオジサンは、人間じゃないよ」

 驚きで、愛子は大声を上げそうだった。愛子は、もう一度、西崎たちの方を見た。倒れて、うつ伏せになったまま動かないオジサンを、西崎ら、十人近くが取り囲んでいる。ジャックの姿が見えないが、ジャックは去ってしまったのだろうか。

 「和也。だって、ジャックやハチの仲間にしたら、あまりにも弱過ぎるじゃない?」

 和也は、その問いにも、平然とした様子で答える。

 「人間じゃないと思うけど、ジャックさんやハチさんとも、また違うみたい。ただ、あのオジサンは本当は、すごく怖いような感じも、受けるんだよね。よくは、解んないんだけど‥」

 和也は、首をひねって見せた。和也の話に、返す言葉が見つからず、西崎たちの方を見てると、その視線に少年たちの二、三人が気付き、西崎もこっちを見た。愛子の背筋に緊張が走る。西崎が、愛子と和也の方に近寄って来た。他の連中も、リーダー格にならって、ゾロゾロと動く。

 「おい、おまえら。今日のところは、俺たちはこれで引き上げる。今日、おまえらは命拾いしたと思え。いいか。もし、今日ここで見たコトを、先公でも親でも誰でも、少しでも誰かに喋ってみろ。タダじゃおかないからな!」

 西崎慎吾が精いっぱい、威嚇する態度で、愛子と和也に向かって言った。愛子を睨み付けながら、確認の文句で脅す。

 「解ったな!」

 思わず愛子は、一度コクッと頷いた。

 西崎は身体を回して、突っ立ったままの後能滋夫を見た。俯いたままの滋夫は、西崎の顔を見ていない。ツカツカと滋夫のもとへ寄った西崎が、皮手袋をしたままの右手で、滋夫にボディアッパーを一発入れた。西崎は、いつの間にかチェーンは、手下である生徒の一人に渡していた。滋夫が苦しそうに、身体をくの字に折って呻いた。

 「おい、後能。おまえ、今度チクったら、マジ殺すからな。いいな、解ったな!」

 そして再び、愛子の方を向いて、少し声を荒げて言った。

 「あのオヤジは、放って帰れ。いいか、絶対、救急車とか呼ぶな。黙って、真っ直ぐ帰れ。妙な真似したら、おまえらだって殺す!」

 西崎はそう、念押しに脅した。

 西崎が、「行こう」 と一言、言って歩き始めると、一同もゾロゾロ動き出した。一行、十人近くは、遊歩道メインロードの方へ、ゆっくりと進む。生徒たちの何人かが、愛子と和也を、脅しのために睨み付けた。コトを垂れ込ませない、念押しのつもりだろう。西崎を先頭にした一行は、遊歩道メインロードへと出て行き、角の林を、最後の生徒まで曲がり終えて、不良グループは姿が見えなくなった。

 愛子がホッと、大きな溜め息を衝いた。そして、中腰に屈んでいる滋夫はさて置いて、倒れたまま動かない、オジサンのところまで駆け寄った。オジサンは、ピクリとも動かない。サラリーマン氏のグレイの背広は、上下全体的に泥で汚れていた。もう痙攣もしていない。

 「オジサン、大丈夫?」

 愛子は一言、大きな声を出して呼び掛け、サラリーマン氏の傍らに腰を降ろし、その肩口にそおーっと、片手を伸ばした。

 「お姉ちゃん」

 真後ろで、和也が呼んだ。急に声掛けられて、愛子は驚き、慌てて手を引っ込めた。和也は、走る愛子を、すぐ後ろから追っ駆けて来ていたのだ。愛子は振り返り、和也を認めて言った。

 「あー、びっくりしたあー。止めてよ、和也。心臓、止まりそうだったよ」

 先程の和也の洩らした一言、「人間じゃない」 が影響していて、愛子の中には恐怖心も湧いていたのだ。和也の一言は、愛子の、ウダツが上がらないが気の良いサラリーマンのオジサン、というイメージから激変し、今は、得体の知れない不気味な存在、というイメージが、この意識不明状態のサラリーマン氏を覆っていた。

 「あのね。ハチさんが触るな、放っとけ、って」

 和也がそう言うと、ガサガサと音がして、右手の藪から茶色い毛並みの、少し小さな中型犬が出て来た。ハチだ。愛子はびっくりした。和也とハチが、お互いを認め合った。ジャックの姿は先程から、もう何処にも見えない。ハチの顔から視線を外し、愛子の方を見て和也が言う。

 「この男は大丈夫だ、って。明日の明け方には、普通にケロッとしてるって。君たちは早く帰れ、って言ってる」

 愛子は、ハチの顔を見た。知性の宿る目だ。和也が伝えていることは、間違いなくハチの意思の言葉だろう。和也は、スーパードッグのハチと、テレパシーで会話しているのだ。愛子は和也に、たまらなく羨ましさを感じた。愛子は、和也に向かって言った。

 「でも、このオジサン、重症だよ。病院に運ばなくて、本当にイイの?」

 和也は、ハチの方を見た。ハチの目の動きは、何ら人間と変わらない。ただ、何も言葉が出て来ないだけだ。和也は、愛子に視線を移して言った。

 「この男は不死身だ、って。それに‥」

 和也が途中で言葉を切り、ハチの様子を見る。ハチは、上空を見上げた。森の上空は、木々の枝葉が覆っているが、その隙間から空も見える。もう薄暗い。雲間に、月がうっすらと見える。半月の左側が、ぷっくりと膨らんでいる。十日夜の月だ。和也も愛子も、つられて上空を見上げる。薄暗さに愛子は、もう、帰途に着かなければ夜になってしまう、と、少しばかり気持ちが焦った。

 和也がハチの方を向いて、「えっ!?」 と疑問の声を上げた。

 「どうしたの?」 咄嗟に愛子が尋ねる。

 「う~ん、何かハチさんが、あと四、五日すれば解る、って。何だか、自業自得だが、可哀想にな、だとか、って‥」

 「どういう意味なの?」

 そうこう話してる内に、うつ伏せで倒れている、泥だらけのサラリーマン氏が突然、むっくりと起き上がった。四つん這いの姿勢になり、大きく息をした。服は泥まみれで、顔は腫れ上がっていて口や顎は血で汚れている。すぐ近くに立つハチを認めると、泥と血で真っ黒い顔で、ニヤリと笑った。

 「これはこれは、ハチさん。お久しぶりで。じじごろう先生に会いに来たんですが、少し休んで来ます‥」

 喋るのも辛そうに、そう言って、傷だらけのサラリーマン氏はヨロヨロと立った。

 「まあ、身体の方は、少し休めば大丈夫ですが、何しろ中のヒトが‥」

 立ち上がったサラリーマン氏は、見下ろす姿勢でハチに向かってそう言うと、フラフラしながら、遊歩道引き込み路の奥の方へ向かい、やがて林の中へと入って行って、姿が見えなくなった。ウダツの上がらないサラリーマンのオジサンの、姿を見送っていた愛子が、視線を辺りに戻すと、ハチの姿が消えていた。

 「あれっ? ハチは?」

 愛子が和也に問う。和也が茂みの方を指差した。

 「早く帰れ、ってまた言われた」

 「そう。ホントに早くしないと、真っ暗になっちゃうね。和也、リュック」

 「うん」

 愛子は、ショルダーバッグを置いた場所まで戻り、和也も追っ駆けて来て、バックパックを地面に降ろした。

 愛子が、ショルダーバッグのジッパーを開いて、中の物を取り出そうとした時、真ん前に立つ、後能滋夫に気が付いた。滋夫は、先程から大きな樹木の、太い横枝の下の同じ位置に突っ立ったままだ。

 「あはっ、ご免なさい。後能君‥」

 愛子は、ジャックやハチやカエル顔のオジサンの存在に、和也の口から漏れ出す驚きの話に、後能滋夫の存在をすっかり忘れてしまっていて、悪びれた照れ笑いをしながら謝った。滋夫は力なく、情けない顔をしながら愛子を見ていた。口元が動いたので、ごくごく小さな声で返事したのだろう。滋夫の顔は、涙と血で真っ黒に汚れていた。

 愛子と和也は急いで、お互いのバッグから紙袋を取り出し、口を開いて、滋夫の近くの大樹の根元に置いた。そして愛子は、森の中に向かって叫んだ。

 「ジャックさん、ハチさん、差し入れだからー! 遠慮なく食べてねー」

 そして、もう一言付け足した。 「サラリーマンのオジサンもねー」

 もう辺りは、すっかり暗くなって来ている。愛子と和也と滋夫の三人は、近道の林の中の道なき道は避け、遊歩道の正規のルートへと出て、野球グランドの方へと向かった。グランド先の駐車場には、公園内に来たとき停まっていた、二台の乗用車は既になかった。やはり、西崎たち不良グループの面々が、二台の車に別れて乗って来たのだ。だが、年齢的に彼らに、自動車免許があったのだろうか。愛子は疑った。免許を持っているとしたら、あの二人の年長の不良だが、だがまだ、幼さが残る顔立ちで、せいぜい高校生年齢の面影だった。自動車は、金持ちのワガママ息子、西崎慎吾の調達だろうが、無免許運転で乗り回していたのかも知れない。

 愛子たち三人は、市民公園の出口まで来て、愛子が携帯でタクシーを呼んだ。病院へ行こうかと訊くと、滋夫は真っ直ぐ自宅へ帰ると言うので、タクシーには後能滋夫の家を経由して、駅まで行って貰うことにした。もう、すっかり夜だ。車中、愛子の携帯に、母・智美から電話があり、愛子が現在地を告げると、電話ながら大目玉を喰らった。

 途中、滋夫を降ろして、タクシーは駅前に止まり、愛子と和也は駅に入って行った。ローカル駅の、ローカル線の列車の本数は驚くほど少ない。祖父母の家のある郡部の、小さな無人駅に行く列車の到着まで、あと40分も待たなければならなかった。二人は改札を抜けて、ホームまで登った。ホームのベンチに腰掛ける。真夏の暑さの中、ホームを吹き抜ける夜風が心地好い。

 「ごめんね、和也。ファーストフードのお店でも入りたいけど、差し入れ買うので、お金使っちゃってさあ。もう余裕なくて」

 「ううん、イイよ、お姉ちゃん。僕、ジュース代持ってるよ」

 「そのくらいなら、あたしが持ってる」

 二人は、ホームの柱に据え付けてある自販機まで行って、ペットボトルの清涼飲料水を買い、またベンチに戻った。

 「ねえ、和也。ちょっと訊きたいんだけどさあ‥」

 愛子が、横で、両手で抱えた500ミリリットルのペットのオレンジジュースをあおる、弟の方を向いて話し掛けた。

 「あんた。いつから、そういう力が身に着いたの?」

 「そういう力って?」

 「だからあんた、ハチとかジャックとかと、会話してるじゃん。あたしたちには、あんたの話だけしか聞こえないけど。それに、いろいろと解るし、普通じゃないよ」

 「うん。何だか、ハチさんたちと出会ってから。ハチさんは、僕の頭に話し掛けて来るんだ。何か、妙な勘も良くなったみたいだし‥」

 「そうだよね。私たちの前に、スーパードッグが現れてから。あんただけ、何だか日に日に、変わって行っちゃうみたいで。あたしなんて、全然変わんないのに‥」

 「あのね、僕はサイキックだって」

 「サイキック? 何それ」

 「よく解らないけど、ハチさんが言ってた。ハチさん、今の、お祖父ちゃんお祖母ちゃんの家にも来たんだ」

 「ええーっ! いつ?」

 「一昨日と、その前。お姉ちゃんは、お母さんたちと居間で話してたもん」

 祖父母と母・智美は、現在別居中になっている亭主である、吉川和臣との正式離婚や、今後の生活のこと等を、よく、話し合っていた。その場には、中学二年生の愛子も加わることもあった。しかし、小学三年生の和也には、不安を与えてはいけないと、大人の話だからと外していた。たいていは、夕食と子供たちの入浴が済んだ後の時間だ。

 「ああそうか。あの間に、奥の部屋に来てたんだ!」

 「うん。で、ハチさんが言うには、サイキックになる人は、人間の10万人とか100万人に一人の割合でなるんだって。生まれた時からサイキックの人も、僕みたいに何かのきっかけでなる人、それから、実は内側に持ってるけど、とうとう死ぬまでその能力の出ない人。また、能力の強弱も人サマザマなんだって。力の種類も、微妙に違うとかって‥」

 「ふう~ん。サイキックって何だろ? 超能力者?」

 「さあ。でも僕は、SFのアニメみたいに念力なんてないよ。ただ、ハチさんたちと話が出来るだけ。あとは勘が良いくらい‥」

 「でもあんた、あの背広のオジサンのこと、人間じゃない、なんて言ってたじゃない? そんなコト、解る訳?」

 「うん。何て言えばいいのか、違うんだ。僕らとは違う、ってコトは解るんだ」

 「ふう~ん。10万人に一人とか、100万人に一人なんてすごいよね。良いなあ、和也は。あたしもそんな、何だっけ? サイキックに、なりたかったよ」

 「うん。でも、悪い面もあるらしいよ。魔物とか悪霊とか、見えちゃうから、そういう闇の存在は本来、隠れていたいから、自分の存在が見えるサイキックを、邪魔に思うらしい‥」

 「えーっ! じゃあ、魔物とか悪霊に、狙われるってこと?」

 「んー、何か、そんなことみたいだね」

 「で、さあ。あの、ヒトの良さそうなサラリーマンのオジサンも、魔物なの?」

 「う~ん、魔物かどうか、解らないけど。普通の人間じゃないと思う‥」

 愛子は、西崎たちにボコボコにやられて、泥だらけ傷だらけになった、男の顔を思い出した。

 「妖怪カエル男‥」

 愛子はそう口に出して、吹き出して笑ったが、和也は真面目な顔で答えた。

 「カエル男とかじゃないと思う‥。何だか、あの人の内側に、恐いモノを感じるんだよね」

 愛子は、和也の態度に笑うのを止めた。

 「ふう~ん‥」 と返事をして、愛子はペットボトルのお茶をひと飲みし、上空を見上げた。

 ホームの屋根のすぐ隣に、月が覗く。上弦の月が成長した、十日夜の月だ。

 「そういえば、ハチも空を見上げてたね」

 「うん。もう僅かだ、自業自得だ、って‥」

 「それ、どういう意味なんだろう?」

 「解らない。でも、その時のハチさんは何だか、憐れんでるような目をしてたよ」

 「ふうん。そう‥。あ、それからあのオジサンが、ほら、言ってたじゃない? 『じじごろう先生に話がある』 とかって。その “じじごろう” って、誰なんだろう?」

 愛子のこの問い掛けには、和也も困った顔をして口を閉ざした。

 「言いたくないの? 大丈夫だよ、和也。お姉ちゃんは絶対、誰にも言わないから。それに、あたしはもう、ハチやジャックというスーパードッグのことも知ってるし。実際、彼らには三度も四度も、会ってるんだもの!」

 愛子が、和也を強く説得する。和也は迷っている様子で、なかなか次の言葉が出て来ない。

 「和也。お姉ちゃんは本当に、あんた以外には、誰にも喋らないよ。勿論、お母さんにも。ねえ、和也。じじごろうって誰よ? あの公園の森に居るの?」

 愛子の執拗さに、和也は仕様がなく、降りて来た。

 「『ワシらのコトは誰にも話さないでくれ』 って、言われたんだよ‥」

 弱りきったふうに、ボソボソと和也が話す。

 「大丈夫。お姉ちゃんは、誰にも喋らない。お姉ちゃんだけだから!」

 愛子の強い口調に、和也は話すことを決心した。

 「あのね、じじごろうさんはほら、五月頃だっけ、話したでしょ。調度、通り魔に襲われた頃。僕が、お姉ちゃんに、野球のグランドの奥の林で初めて、ハチさん見たとき、 “幽霊のお爺さん” が一緒に居たって」

 「ああ、そういえば、あの当時、あんたそんなコト言ってたわね」

 「うん。その “幽霊のお爺さん” だよ。身体がすごく大きくてプロレスラーみたいに、もっと大きいんだけど、いつも裸で、胸毛もゴワゴワ生えてるんだけど、頭が禿げてて、顔は間違いなくお爺さんなの」

 「へえェ~。そんなお爺さんが、あの森で暮らしてるんだ? 要するにホームレス? で、ハチとかジャックとはどういう関係なの? まさか、飼い主‥?」

 愛子が矢継ぎ早に質問する。

 「詳しいコトは解らないんだけど、まあ、仲間は仲間みたいだね。実は‥」

 もう仕方がない、お姉ちゃんには話してしまおう、と一度決めたら、和也は躊躇わずに、自ずから進んで話し始めた。

 「僕が隣の、義行兄ちゃんに頼んで、公園の森に一緒に行ってもらって、通り魔に捕まっちゃったことがあったでしょ。あの時、助けてくれたのは実は、“じじごろうさん” だったんだ。じじごろうさんには 『自分たちのことは黙っててくれ』 って、頼まれたから、だから、警察にも言わなかったんだ」

 「へえ~。スーパードッグじゃなくて、そのお爺さんだったんだあ」

 「うん。そこには、ハチさんも居たけど、通り魔の奴を気絶させたのは、じじごろうさん」

 「身体は大きいのかも知れないけど、お爺さんなんでしょ。だけど、ジャックみたいに、素早く動けたりするんだ?」

 「う~ん、どうかよく解んないけど、あの時はただ、後ろから杖みたいので殴っただけ」

 「えーっ!?」

 「じじごろうさんて、よく、杖みたいな長い棒、持ってるんだ。いつの間にか、通り魔の後ろに現れてて‥」

 「通り魔はその、“じじごろうさん” を見てないんだね? だろうね。通り魔の供述には、何処にも、そんな “お爺さん” の話は、出てないみたいだから。あれは五月だよね。まだ、日に寄っては寒い日もあるし、雨も降るし‥。そのお爺さんは、いつも裸なんでしょ?」

 「うん。僕も会ったのは、まだ二度くらいだけど、いつも裸で、腰回りだけ何か、白い布がある‥」

 「ああ、フンドシ。今の季節は、虫に刺されたりしないのかしら?」

 そう言って愛子は、捲り上げた自分の腕を、反対の手で勢いよくバシンと叩いた。

 「チキショー、逃げられちゃった。公園着いた時、虫除けスプレー掛けたの、もう効き目切れたんだね。和也、蚊がいるよ」

 「じじごろうさんのコトは、よく解らないし、ハチさんに訊いても、ハチさんも 『一緒に居て友達みたいなもんだけど、いったい何者なのか解らない』 って。何だか、不思議なお爺さんだよ」

 「和也。あんた、その何だっけ? サイキック。サイキックの能力で、感じないの? あのカエル顔の、サラリーマンのオジサンみたいにさあ」

 「じじごろうさんに会ったのは五月だから、まだ、そういう力はなかったもん」

 「あ、そうか。ハチとかジャックに会い始めて、ジワジワと力が着いたんだものね。良いなあ、和也。スーパードッグと友達になれて。あたしはその、“じじごろうさん” にも会ってみたいよ」

 プラットホームの天井の蛍光灯の一本が、古くてチカチカと点滅していた。愛子は、その先の、天井から吊るした大時計を見た。もうそろそろ、電車が来てもいい頃だ。愛子が首を回して辺りを見渡すと、薄暗いホームに何人かが電車を待っていた。愛子はふと、父親のことを思い出した。一週間前まで住んでいたあの自宅には、この駅から自転車でも、二、三十分で行ける。この一週間、父・和臣は、あの家に帰って来てるんだろうか? 変わってしまってても、やはり実の父親だ。常に愛子は心配になる。

 「ねえ、和也。お父さんのことだけど、あんた、ハチに相談とかしてないの? その、お祖父ちゃん家にハチが来たとき‥」

 「ハチさんが言ってた。『お父さんはもう、元には戻らないだろう』 って。ハチさんにも、まだよくは解らないけど、『多分、未知の病気みたいなものだろう』 って」

 「えーっ! やっぱり、病気?」

 愛子は驚いたが、また、そう、ハチの言葉を告げる、和也の冷静な態度にも驚いていた。和也に取っても、和臣は実の父親だ。和也は窮めてクールに言ってのける。

 「じゃあ、お父さん、入院させなきゃいけないじゃん!」

 そうこう言っている内にも、プラットホームに電車が滑り込んできた。ローカル線の二両編成の電車のドアが開いた。二人が入ると車内はがらんとしていた。夕方過ぎの時間だが、今日は日曜日だ。自家用車を持っていないと生活に不便な地方の、田舎のローカル線。車内は愛子と和也を含めても、十人も乗っていなかった。二人はこの駅から数えて、四つ目の郡部の無人駅まで電車に揺られた。

「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編..(6)へ続く。

小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1)

小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(1)

小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(12)

◆(2012-08/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1)
◆(2012-09/07)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ 」 狼病編 ..(2)
◆(2012-09/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(3)
◆(2012-10/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(4)
◆(2012-10/28)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(5)

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