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●音楽・・ 「あの素晴らしい愛をもう一度」

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 10月16日の訃報を受け、本当に驚いた。まさか加藤和彦さんが首を吊って自殺をするなんて。もう、信じられない、の一言だけしかなかった。最近というか、ここ3、4年の音楽活動の断片をTVで見ても、いつもニコニコしていて、スマートで知的で皮肉屋の紳士で、歳を喰ってもカッコイイ姿だけだった。何よりもバンドの仲間と楽しそうに音楽をやっている。“自殺”なんて言葉とはおよそ無縁のスタイリッシュな爺さんに見える。爺さんは失礼な年齢か。カッコイイばかりの初老の紳士。一人の友人ミュ-ジシャンかのコメントで、「これくらい自殺とは似合わない男もいない」という言葉があったが、正にそのイメージで、それは、取り巻きの親しい友人らにしてみてもそうだったのだろう。62歳、加藤和彦さんの自殺に寄る死は、僕自身が子供の頃から最近まで、その音楽に親しんで来ただけに、ショックなものだった。

 やっぱり最初に、僕たちのその幼いアタマにドカンと鮮烈に衝撃を与えたのは、全く新しいコミックソング、「帰って来たヨッパライ」だった。僕は小学生で、学校でみんなと毎日口ずさんでいた。その次のフォークルのヒット曲はガラリと変わり、しっとりと訴えて来る、小さな胸が初めてキュンとなりそうでもあった、実際そういう気分にさせられてたのかも知れない、「悲しくてやりきれない」。心優しいバラードで、まだ幼いながら僕はこの歌が大好きだった。「イムジン河」の曲の話は聞いたような気がする。でもよく解らなかったのか、気にも留めなかったのだろう。発売禁止になった「イムジン河」の曲の逆回転メロディーから、「悲しくてやりきれない」が出来たというのは後年知ったエピソードだ。フォークルは、TVで「悲しくてやりきれない」を何度か歌うのを聴いた後、すぐ解散する。その後確か、ズートルビーというグループを作るんじゃなかったかなあ(?)。メンバーが変わってズートルビーで何か一曲。違ったかなあ。調度当時、世界を席巻する大人気のビートルズのパロディーネームで。「水虫の歌」は、ズートルビー名義で歌っていた記憶があるのだが‥。「笑点」の座布団運びでおなじみになる山田隆夫が昔在籍したコミック系アイドルグループ、“ずうとるび”とは別の。“ずうとるび”は“ズートルビー”の何年か後結成の、全然別口のグループですね。

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 70年代半ばになって知る曲、小説家の五木寛之作詞の「青年は荒野をめざす」も、フォークル時代の曲なんですね。僕はねえ、16、17歳の頃、五木寛之にメチャ心酔してたんですよ。勿論、「青年は荒野をめざす」も、他の好短編群と共に17歳の頃読んだ。後に、こんな歌があったなんて知って驚いて聴きました。それから今回知ったのは、「悲しくてやりきれない」の作詞はフォークルのオリジナルメンバー、北山修だろうと思っていたんですが、サトウハチロー作詞だったんですね。北山修さんが現在、九大の大学教授だというのも今回知りました。

 ちなみに、フォーククルセダーズのデビュー曲にしてそれまでの日本歌謡界空前の大ヒット、「帰って来たヨッパライ」ですが、超特大ヒットを受けて劇場版映画化されたんですが、興行は全くダメで、上映館は毎日閑古鳥が鳴く状態で、何処の上映館もわずか1週間で上映を取り止めてしまった、というような客の入らぬ様のひどい不人気だった、という話を昔聞いたか読んだかしました。1968年の映画ですが、僕が見たのは70年代後半です。見たと言っても、都内ローカルの小さなホールで10日間か2週間だけ、ATG映画の特集上映会を開いていて、興行と言うよりも自主上映会的な小さなイベントの中の、ATG系映画何十本かの内の1本で、僕は、しかも、仕事が終わってから会場に急いで向かい、開映時間に大幅に遅れて上映ホールに入ったので、最後の方を20分くらい見ただけでした。

 68年の映画、「帰って来たヨッパライ」はおよそコミックソングの歌の、タイトルや歌詞のイメージとは遠く掛け離れた、政治思想色が強いような難しい映画で、多分、僕は、僕の小六か中一頃の時代に家の斜め前にあった邦画ロードショー専門館で上映され、その看板は目にしている筈だとは思うんですけど、映画そのものは見ていなく、またまさか内容がこんなにも深刻そうな難しい映画とは、アタマの悪い子供だった当時の僕は夢にも思わず、きっと爆笑の青春喜劇なんだろうな、くらいにイメージしていたのだと思いますが。確か舞台は朝鮮半島の国境線みたいなトコロで、戒厳令下みたいな機関車内で、軍服にライフルを構えた軍人が何人も出ていたシーンがあったよーな微かな記憶があります。だいいち、監督が大島渚だし、調べてみると、脚本が佐々木守や足立正夫になっている。3人とも当時の左翼系の知識人じゃないですか。左翼知識人と決め付けられないけれど、思想的には反体制派の人たちですよね。足立正夫さんはもう、もろ当時の左翼でしょう。足立さんとか、行動派の、過激派に近い立ち位置みたいな、新左翼に属するんじゃないのか的な人ですよねえ。こういうメンバーのスタッフなら、そら政治思想色の強い難しい映画になるし、娯楽目的で見に来る客は入らんわなあ。大島渚がこういうふうな映画にしたのは、フォークルが「イムジン河」を歌って、レコードが発売禁止になったからかなあ(?)。確かに映画エンディングの、タイトルロールBGMは「帰って来たヨッパライ」でしたね。

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 アタマの悪い中高生で居た僕は、「イムジン河」と当時の韓国の反体制詩人“金芝河”を混同していて、フォークルの出した「イムジン河」のレコードが発売禁止になったのは、金芝河が原曲の作詞をした歌だからと思い込んでいた。そうしたら後年知るのだが、全然関係なかった。「イムジン河」は元々、朝鮮の曲で、フォークルが歌ってたのは、原曲に加藤和彦や北山修の仲間内の作詞家、松山猛が日本語詩を着けたもの。あの時代、反体制的左翼知識人というのはヒーローでスターでカッコ良かったから、当時のアタマの悪い少年~青年だった僕も、若手の左翼系思想の文化人に憧れた。大江健三郎とか小田実、小中陽太郎とかね。当時愛読していた流行作家の五木寛之や野坂昭如も、エッセイとか評論の随所に垣間見れるのは何となく、反体制的反権力的左翼的思想らしいようなものだったし。まァ、僕がズッポリ、左翼思想にのめり込むことなぞはなかったけどね。実際の本当は、ずうっと政治的にはノンポリでした。情けない。

 

 そうして迫り来るフォーク大ブームの中、あの名曲が生まれ、ヒットする。僕は中三か高一かの頃ですね。「あの素晴らしい愛をもう一度」は素晴らしい曲でした。あの曲のヒットの後を受けるかのように、吉田拓郎や泉谷しげるたちフォークソングのシンガーソングライターたちがうじゃうじゃと現れて来て、若者たちのヒーローとなる。その才能の原石たちを新進気鋭のフォークソングのスターシンガーとして世に出す、裏方プロデューサーとして力を発揮したキーパーソンが加藤和彦だった。今はパナソニック住宅なんだろうが、当時のナショナル住宅のCMテーマソングの「家をつくるなら」が流れていたのも、70年代初めくらいですよね。音楽のパイオニア、加藤和彦さんは、あの時代のフォークソングミュージックの、優しく和やかな新しいメロディーをたくさん、紡ぎ出していましたね。

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 次に加藤和彦さんの曲を聴いたときは驚きでした。メチャメチャ、ロックです。ビートが効いて強くて早い、シャウト気味の力強い女性ボーカル。僕は神奈川県川崎市の郊外の喫茶店あたりでよく聴いていて、あんまりノリノリのロックの良い曲なんでアルバムで買ったら、他の曲はバラエティーに富んでいて僕にはちょっと難解で、ヒット曲のロックだけ何度も何度も聴いていた。世代を越え何度も歌われ継ぐ名曲、「タイムマシンにお願い」です。衝撃的な、日本で誕生した本格的ロック。加藤和彦さんは自分も重要なポジションで加担、開拓して行った、日本のフォークソングミュージックを卒業して、また新たな日本ポピュラー音楽の未分野の開拓に乗り出したのです。この、ヒット曲「タイムマシンにお願い」を含む、サディスティックミカバンドのファーストアルバム「黒船」は、バラエティーにいろいろな種類の曲が入っていて、加藤和彦の新たな、日本ポピュラー音楽の実験場でもあったんじゃないか、という気がする。このサディステックミカバンドは当時、後の日本の音楽界を代表するようなミュージシャンとなる、錚々たるメンバーで形成されていたんですねえ。

 加藤和彦さんは1977年に、これも日本ポピュラー音楽史に名を残した、昭和後半の超売れっ子作詞家、安井かずみさんと再婚します。ここから作曲・加藤和彦、作詞・安井かずみの黄金コンビで、日本歌謡史に残る、フォーク・ロック・Jポップの先駆けの名曲を量産して行きます。それらには、第一線の有名歌手たちが歌い上げたヒット曲もたくさんあります。僕がこの時代で一番好きな曲は、女優・岡崎友紀さんがYuki・Okazaki名義で歌い上げた、フォークロック調の軽快な曲、「ドゥユリメンバーミー‐Do You Remember Me」です。吉田拓郎の最初のヒット曲「結婚しようよ」や、泉谷しげるのデビューヒット「春夏秋冬」のプロデュースが、加藤和彦さんだとは今回初めて知りましたが、70年代後半に泉谷しげるが衝撃的な、良く出来たギンギンのアルバムを一枚出すんですけど、これに含まれる巻頭曲「翼なき野郎ども」などやフォークロックのバッチリ良い曲がいっぱい入っているんですけど、このアルバム「80のバラッド」の総プロデューサーが加藤和彦ですね。加藤和彦さんは、日本歌謡史の、新たな土地の開拓のパイオニアであり、また音楽においては文句なく天才ですね。Jポップの重要なパイオニア。僕の大好きな「Do You Remember Me」や「悲しくてやりきれない」などの名曲は、何世代にも渡りいろいろな歌手に歌われ続けていますね。

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 2006年、サディスティックミカバンドは加藤和彦により、新たなボーカルに木村カエラを迎え、突然復活します。新生サディスティックミカバンドは、その中心に目立つ、若手実力派美形ボーカルの木村カエラちゃんの名前から、サディスティックミカエラバンドとも呼ばれてました。それはキリンビールのTVのCM映像から始まりました。キリンラガービールのCMでの屋外ライブ場面。木村カエラちゃんボーカルで演奏するロック、「タイムマシンにお願い」は抜群の出来でした。加藤和彦も、サディスティックミカバンドはイロイロな女性ボーカルがやったがカエラが一番良い!と言ってました。カエラちゃんのはっきりした張りのある声量。加藤和彦はボーカルを、日本語をはっきりと歌わないと認めないそうです。バックミュージシャンに錚々たる実力派メンバーを揃えた新生サディスティックミカバンドのアルバム、「ナルキッソス」もヒットしました。映像で見る、このバンドで、ギターを操る初老の加藤和彦の姿もカッコ良かったですね。解散後の08年だったか、NHKスペシャル番組で加藤和彦らミュージシャンたちが、ボーカルに尾崎亜美さんを迎え、尾崎亜美のピアノ弾き語りを入れての、サディスティックアミバンドの演奏も良かったです。何しろ尾崎亜美さんの夫はバンドオリジナルメンバーのギタリスト(ベース)、小原礼さんですもんね。僕はデビュー時代頃の木村カエラちゃんは知らなかったけど、セカンドシングルの「Happiness!!!」の曲に魅了され、可愛いカエラちゃんのすっかりファンになったんですが、メジャーになるに連れそれ程興味もなくなって行ってたけど、このサディスティックミカバンドのボーカル姿で再度魅了されてました。その後まァ、醒めたけど。ミカエラバンド後、まあまあ気に入った曲は、「スノードーム」くらいかな。

 加藤和彦さん、どうして自殺なんてしちゃったんだろうなあ。まだ62歳。「もう自分には音楽でやることは何も残っていない」と言っていたのか、遺書に書かれていたのか、ということで自分の人生の重要なライフワークである、音楽で行き詰っていたと言うし。また遺書には、「これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい」という旨が書かれていたと報道にあった。このところはうつ病に罹患した状態で、うつ病で通院していたそうであるが、何とか出来なかったのか?と思われるが、僕ら凡人は、もう日本の音楽の世界ではそれ相応の功績は充分残したのだから、もう隠居して後の老齢の自分の時間は、お金もあることだし、内縁でも連れ合いの良い人も居るようだし、音楽を離れて悠々自適に、寝たいだけ寝て美味しいものを食べて映画をたくさん見たりしてあちこちの温泉にでも旅して、何でもいいから好きなことしてゆったりのんびりとお迎えが来るまで過ごして行けばいいのに、と考えちゃうんだけど。お金はいっぱい持ってるんだし。数々の名曲の印税も入って来るんだし。「企業戦士」という言葉を生んだ、団塊世代を含む戦後すぐの世代の厳しい価値観、というものを考えさせられるなあ。盟友・北山修氏の言葉、「彼の中には2人の加藤和彦がいました。1人はいつもニコニコ笑ってステージに立っている加藤。もう1人は作品作りにかける厳しい加藤。この2人のバランスが彼の天才を作っていた。いつもみんなにいろいろと相談していたが、今回だけはだれにも相談せずに1人で逝ってしまった」という感想が表わす通り、日本のポピュラー音楽の天才、加藤和彦は本当は、自分の人生にとても厳しい人だったんだろう。死ななくてもよかったのに勿体ない、くらいに凡人の自分は考えるが。この死は、何か「人はパンのみにあらず」みたいな、すごい真面目さを感じるなあ。御冥福をお祈りします。天国でジョン・レノンとセッションをやって欲しいですけど、音楽はとりあえず置いて、美しい天界で悠々自適にのんびりゆっくり楽しく過ごしてください。最後に拓郎の言葉。「『日本の若者のポップシーン』を作ったさきがけとなったのは、フォーク・クルセダーズであり、加藤和彦に間違いない。ギターが本当にうまい。指が長いので、俺たちが不可能な指が届いているから、やわらかく弾く。天才肌のセンスとテクニックをもった男・加藤和彦、永遠なれ」。

 

※(09-12/11記)○500人で追悼唱!加藤和彦さんに届け

 

 10月に長野県軽井沢で自殺した音楽家・加藤和彦さん(享年62)のお別れの会となる「KKミーティング」が10日、都内で行われ、精神科医で「ザ・フォーク・クルセダーズ」の盟友・きたやまおさむ(63)、吉田拓郎(63)ら500人が集結した。発起人のきたやまは、加藤さんと来春に「ザ・フォーク-」の再結成を約束していたことを初告白。会の最後には全員で加藤さんの代表曲「あの素晴しい愛をもう一度」を大合唱した。

  ◇  ◇

 ♪あの素晴しい愛をもう一度-。拓郎、市川猿之助(70)、松任谷由実(55)ら、ジャンルを超えて集まった仲間たちが、料理と美酒、そして音楽で加藤さんに最後の別れを告げた。

 生前の加藤さんは、自殺の翌日に届くよう近しい人に“遺書”を送っていた。きたやまは「文書の始めは『ごめんね。約束を破ってごめんね』でした」としんみり。生前の加藤さんと2つの約束をしていたことを語り始めた。1つは、大学教授の職を辞するきたやまの退職を記念して来春、「ザ・フォーク・クルセダーズ」を再結成すること。そして、もう1つは「絶対に死なないこと」だったという。

 「あいつが死んで2、3週間は泣いて過ごしましたが、だんだん腹が立ってきた。あいつは、文書の最後に『追悼式やしのぶ会はやるな』とまで書いてたんです。それをぶち壊してやりたいと思い、今回の会を開きました」ときたやま。愛情を込めて、天国に皮肉をぶつけた。

 会場には、グルメだった加藤さんが常連だった飲食店が屋台として出店。加藤さんの好きだったワインが振る舞われた。きたやまは「騒いでいたら、あいつが慌てて帰ってくるんじゃないかと思って」。会場の中央では、写真の中の加藤さんがギターを抱えたままほほ笑み続けていた。

 加藤和彦さんが亡くなっても、「あの素晴らしい愛をもう一度」他の名曲は残り続ける。訃報の後の週刊誌記事で、加藤和彦さんは、生前、若い時分から数えて、福井ミカ、安井かずみ、中丸三千絵という三人の女性と結婚して、死別も含め、いずれも離縁している訳であるが、とにかく女房に尽くし続けた男ということで、どれも夫婦関係は加藤さんの隷属だったと書いてあった。自分の本質は真面目でストイックな性格でありながら、どのケースも、強い女房たちに対してひたすら尽くし続ける隷属的夫婦関係。多分、結婚生活も恋愛も含めて、自分の好きな女性に対して非常に優しい、優し過ぎる人だったんだろうな。音楽という自分の仕事には厳しく、多分、自分自身にも厳しい人だったのだろう。反面、そのあり余る才能から音楽を、自由自在に楽しみもして来たんだろうけど。自身には、ミスターストイックな一面を持ちつつ友達や知人に優しく、スマートでスタイリッシュでカッコイイばかりの人だった。スーパーカッコイイ爺さんになって来てたのに。たくさんの人たちに愛されてて勿体ないけど、加藤和彦さんというキャラクターは間違いなく、60年代後半からの長い時代の一面を作った人たちの、重要な一人だったろう。

 

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