赤いハンカチ

てぇへんだ てぇへんだ この秋はスズメがいねぇトンボもいねぇ・・・何か変だよ

息子の卒業式

2005年03月05日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

次男の某都立高校定時制の卒業式に列席させていただいた。当日、配布された卒業文集に次のような息子のエッセイが載っていた。

数学とは物事を抽象的にとらえた一つの概念である。だから恋愛も数学で解決できる。カタストフィー理論とか呼ばれているらしい。人が一生を生きる間に一時も数学をしない事などありえませんが、なんとも味気ない感じがします。長く数学に親しんだ人でさえ、こんの事を言った人がいる。「これほど高貴で、これほど魅力に富み、またこれほど人類の役に立つ学問があろうか。数学のほかに」(フランクリン)。これは大うそだ。フランクリンが自分の意思を後世の数学者につがせるためについた大うそである。

自分の思うところ、数学とは高貴なものであり、魅力につつまれ、他に類をみないほど人類の役に立ってきた。たしかに人生の4分の1ほども数学と面とむかってくればいままで見えなかったものも見えてくるらしい。だが逆に今まで自分にとって不動だと思っていたものがぐらついて見えなくなってくることもある。私は数学をばかにしていた時がある。勉強は今も好きではないが、以前は、もっと嫌いだった。数学を勉強しだしたきっかけには情けない理由がある。その理由を、「数学は好きですか?」とたずねられた時、思わず、好きですと答えてしまった私には言えない事なのだ。数学は好きなのか、本当のところ嫌いなのか、ただ必死にしがみついているだけような感じがするだけだ。難しいと設問を独自に、だがとてもエレガントとはいえない方法で解いた、その時にやっと好きだと実感できる。何日も何日も一つの問題に取り組み、結局解くことが出来ないとき、気持ちが暗くなる。そんな時、本当に好きかどうかと問われれば自分はなんと答えるか。やはり好きだと言うしかないような気がする。必死にやっていることなら、他人には何も言えない。数学が高貴で、魅力に富み、人の役に立つと言ったフランクリンはうそつきです。なぜなら、数学が好きだと実感しているときの自分が、そう思うからです。「不完全性定理」と呼ばれているものがある。公理系の無矛盾性の証明は、その公理系の内部ではできないというものである。

要は、自分で自分を評価することはできないということ。この定理をゲーテルが打ち立てた時、同時代の多くの数学者が絶望しました。高貴である数学が人を絶望させたのです。魅力に富むといわれた数学は、その魅力のうちに絶望した人を取り込むことができなかったし、人類の役に立ってきた数学は一個人の数学者から希望を奪い去ることもありうるということです。頭のよいフランクリンは、きっと自分の数学好きを言葉として表し、人類のそれにすり替えたのかもしれない。私は数学が好きだと実感するときが、とてもうれしい。数学をやっているうちに、それまで知っていた多くの数学者に似ているような錯覚をするからかもしれません。多くの数学者は数学を研究しながら死んでいった。戦争や貧困、病気が原因で死ぬ者がほとんどだったが、どんな状況でも数学をやめる事はなかった。そんな生き様にあこがれずにはいられない。だが、その数学者は疑問を感じなかったのだろうか。高貴であるとか魅力に富むといったことに。一つ分かることはフランクリン同様に数学が好きでやらずにいられなかったということだ。それでいて、数学はそうした真摯な人たちをとりこにしてしまうのだろうか。そういう数学者にしかみせない魅力があるから高貴だと言うわけだろうか。こうなると訳がわからなくなる。でも、とりあえず自分はそれでよいと思っている。そのフランクリンの言葉にだまされるぐらいまで真摯になって生きてみたい。


息子は先生方の覚えめでたく某夜間大学に推薦入学が決まっている。まずは卒業おめでとう。入学した当初は4年間も通いきれるのかと、いささかの不安がありましたが、ほとんど欠席することもなくたいした事件に遭遇することもなく、むしろ予想以上の楽しい充実した学校生活をおくることができたようで保護者としては喜びにたえないところです。ですが、よい学校でよかったと思うのも、すべて偶然のなさるわざと思うより他には言いようもありません。かならずしも息子自身が率先して探しだし、自ら進んで入学した学校というわけでもなかったのです。小学校以来の地元の仲良しのクラスメイトが息子より一年早く、その定時制に通っておりまして、その彼に誘われてよく分からないままに、ともかく入学してみたというのが実際でした。定時制にも一応入学試験がありますから、入試当日の朝、どうもまごまごしているような、息子に彼から電話がはいり、たたき起こされ、結局その日のお供を彼が買ってでてくれたほどだったのです。彼がいなかったら、入学することもなく定時制はおろか高校とは無縁だったかもしれません。
 
ところで定時制高校にも、いろいろあるようで、息子の入った学校は交通に恵まれた都心にありましたから、毎年さびしくない程度の生徒さんがそこそこ入学してくるよい条件があったのでしょう。上の息子の時も定時制高校に入ったのですが、この学校の場合は、入学してきた生徒さんも指で数えられるほど小数で、長男も嫌になってそうそうにやめてしまいました。実際、多くの定時制が後者のような状態だと聞いています。次男の入った学校はその点、幾分かは学校らしく活発な雰囲気があり、恵まれていたのです。行政は定時制高校の廃止を進めておりまして、その理由にニーズが少なすぎるという事情を持ち出しますが、まさにその通りだろうと納得してしまいます。次男の学校も三年後には廃校が決まっています。数年前からPTAは定時制を守れというスローガンを掲げて早々と廃校反対運動に立ち上がり、集会に誘う通知などが届きますが、私はいまさら反対しても、どうにもならないような気がして、そうした会合には出席しないでおります。定時制を存続させることと、教育の本道はまた別のことだと思うからです。定時制があれば子どもたちが救われると思うのは親の都合から出てくる勝手な論理に過ぎないような気がするからです。
 
事実、次男の学校でも次男にとっては非の打ち所のないほど、よい学校でしたが、一緒に入学したクラスメイトのうちの何人かは一年生が終わることには、すっかり登校しなくなっていたのです。恵まれたよい学校と思うのも、たまたまわが子にマッチしていたことを示すばかりで、とてもそうは思えず通いきれない子どもが出てくるのは、どのような学校でも同じことです。したがって4年間通いきれたという幸いも、あくまで偶然の賜物であり、息子の場合は幸運だったと思うより他になく、わが子の姿を見て、なにかそれらしい理屈や学校教育論が想起されるようなこともないのです。理屈を語っても、それは親バカの自慢話に過ぎなくなるでしょう。でも、私の本音は、やはりうれしかったの一言につきます。以前は当掲示板のみなさんがご存知のように口を開くたびに学校をこきおろすばかりでしたが、今は息子のおかげで、学校というものは、なかなか楽しい所で子どもたちにとって有意義なところかもしれないと考え直したところです。以前は私も、「学校は廃れても教育は残る」とわめいていた理屈も、最近はどうも逆のような気がしてなりません。そこで「教育は胡散臭いものだが、学校にはそこそこ真実がある」とでも、言い直しておこうと思います。

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