赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼冬の空

2007年01月14日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
今日も寒かった。水たまりに薄氷が張っていた。コートのチャックの隙間からさしこんでくる寒風が、お腹の皮膚にまで達してきた。昼前に近所の様子でも写真に取ってこようとデジカメを持って外に出たのだが寒くてならず、そうそうに舞い戻ってきてしまった。鼻水が出てきたので風邪を引いたかもしれない。それでも、カメラを空に向けて何度かシャッターを押してみた。雲を見るなら夏に限るが、空の青さを堪能するなら冬が一番だ。青の深みが違う。冬の空は格別である。夜、下の弟から電話があった。五月に予定されている芝居に出演することが決まったそうだ。

そういえば、ずいぶん前のことだが車を運転しているときにラジオで聞いた話を思い出した。ラジオではご本人が自分の体験を直接、話されていたので私にも感銘が深くいまだに覚えているのだろう。その方は、生まれながらに失明を強いられていた。成人になってから新しい医療技術のもとで目の手術をしたところ、これが功を奏して目が見えるようになったのである。手術の直前から、どうしてもこの目で見たいと思ってやみがたいものが二つあったと言う。それは母親の顔と空だった。

母親の顔は言うに及ばすというところか。多くは語られなかったが想像するにあまりある。言葉には尽くせない喜びが母子の間で交歓されただろう。そして青い空を見たときには思わず涙が落ちてきた。「空」とは目が不自由なときから人の口を通して、たびたび耳にしてきた言葉だが茫漠としてとらえがたかった。目が見えるようになったら、いの一番に確かめてみたかったのである。手術後、さっそく目にした空は事前の予想をはるかに超えていた。空がこれほど青く美しいものだとは思いもしなかった。それが頭上全体に広がって深々と自分を包み込みこんでいた。

その方は手術後に起こったこととして、もうひとつ面白いお話を付け加えられていた。毎日食べている米のご飯の形状である。米粒のひとつひとつが何かの虫の卵のように見えてしまい、しばらく口にすることができなかったそうである。

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