赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼左巻きヒステリに見る憲法改正の現段階

2019年08月23日 | ■ヨニウム君との対話

以下、2016.10.07 記

https://mobile.twitter.com/yoniumuhibi

 


『日本国憲法』 講談社学芸文庫

 

 

憲法に書いてあるから平和が守れると言うなら台風も来ないで欲しいと憲法に書いておけばよい・・・田中美知太郎

ウキペッペより「 田中美知太郎」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%8E%E7%9F%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E

 

 

 

以下、赤煉瓦掲示板より。色文字は「世に倦む日日」氏の言。

9条護憲を堂々と正面から主張し、その理論的基礎づけを説明している著名な論者は、今の論壇にはいないんですよね。敢えて自慢させてもらえれば、一番目立つのは私ぐらいのものだ。この年ではっきり分かったのは、9条というのは、底辺の無名の人間が下から抵抗して守ってきたということだ。

あなたと、それに共産社民。これだけでしょうね。どれほど現実から乖離しても頑固に金科玉条を守りたいと主張しているのは。9条というのは、底辺の無名の人間が下から抵抗して守ってきた・・・・とおっしゃいますが、最初の最初は、どうだったのですか。マッカーサーから、与えられたものでしょうや。押し付けられたものでしょうや。

世界最強の米軍が万全の軍事力によって日本のことを守ってあげますから、日本人は、銃も刀も必要ありません。アメリカを信じて平和にお暮らしなさいというメッセージです。平和とは言っても、米国の傘の下での平和にしか過ぎなかったのです。それが第九条の意味するところなのです。

早い話が、占領政策を美辞麗句で押し隠し、実際にも思想的にも、日本人を武装解除させた、その、ご託宣にすぎません。日本人は、このとき間違いなく米国の奴隷となった。

戦後民主主義という実態があるとするなら、第九条こそが無為の思想を担保してきたのです。彼らは、どのような国難が起こっても、一向に腰を上げようとはしない。悪いのは、すべてこれアメリカべったりの保守政権だと愁訴したり、口先だけでアメリカ反対なんて怒鳴っては憂さを晴らしてきた。昔、次のような左翼思考を揶揄する笑話があった。わたしが物を盗んだのは、社会が悪いからだと。彼らは、同じようなことを言っていましたよ。なんでもかんでも、米国の謀略だと。そして自国政治の肝要なところでは思考を停止させてきたのです。

災難時に体を張って人の命を助けようとしている自衛隊の活躍は見ても見ぬ振りしてやりすごす。中国、朝鮮、ロシアの横暴は、これまた知らぬ存ぜぬ。それこそ、典型的なカルトでなくて、なんですか。そんなお花畑が、どこの世界で通用しますか。


9条を9条たらしめているのは2項で、平和憲法を平和憲法たらしているのは9条2項で、絶対に削除や変更などできないのだけれど、誰もそれを正面から言わない。昨夜の志位和夫でさえ、おどおどと「理想だ」とか言っていた。おかしいよね。ただの理想論だという説明で済ましちゃいけないでしょ。

上の記事について言いたいことは多々ありますが、それは後にして、まずはみなさんとご一緒に、日本国憲法第九条を読んでみましょう。


第九条 【戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認】 日本国民は、正義の秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇(いかく)又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


必ずしも2項すなわち②だけが問題なのではない。それに「絶対に削除や変更などできない」とは、ずいぶんなカルトチックな話で、思い込みもはなはだしいと言わざるを得まい。第九十六条では、【憲法の改正の手続、その公布】の規定があり。そこに最近話題になっている国会議員の3分の2以上の賛成があれば改正の発議が可能であり。この改正案を国民投票にかけて過半数を得れば改正できると決められている。

絶対に変えてはならないなどというカルトこそ、よほど憲法違反なのです。さて、②には、はっきりと軍隊というものの存在を否定している。縦に読もうが横に読もうが、この条文に、合計25万人兵力を擁する、陸上自衛隊、海上自衛隊および航空自衛隊自衛隊の存在は認められておりません。条文と自衛隊の存在は、真正面から矛盾しているのです。

②の後半には「交戦権を認めない」とあります。交戦権が認められないなら、もやは専守防衛はおろか、集団的自衛権も個別的自衛権も埒外の話となりますね。他国の武力に攻められても応戦してはならないのですから、これはもう自国の滅亡を、指をくわえてみている以外にはなにもできないということになるのです。世界のどこに、このようなひどい憲法がありますか。

 

野党が選挙の争点は憲法だと言い、憲法の平和主義を守る戦いだと参院選を位置づけている。だとすれば、野党が惨敗したとき、選挙結果の意味づけはどうなるのだろうか。それを考えると非常に恐い。一気に改憲派が勢いづくのではないか。日中の軍事衝突が危惧され、安保法制が施行されているこのときに。

わたしは逆の意味で心配している。数の上では改憲派が、圧倒するようになっても、実際の憲法改正に向かっては、一向に話が具体的に進まないと言う現状が続くのではないかと。以前、ここに書いたように、「手続き論」が詰められていないからではないでしょうか。

ですから、とりあえず九条すべて、または②だけでも、削除する。悪文はないほうがよいのです。九条②を、削除し、極端に言えば、10年でも20年でもいい。年月をかけて徹底的に議論するのです。その間にたえず現代にふさわしい改正条文を、公募する。そのうちの何本かをサンプルとして国民投票にかけて決をとる。

その要諦は、軍隊というものを、いかに国民感情と一体化するかという話なのですから。自衛隊は、十分に国民に受け入れられていると、わたしは信じておりますよ。世界のどこに出しても恥ずかしくない、まれなる平和の部隊だと思っています。こればっかりは、たしかに九条のおかげかもしれません。ただ、やはり軍なのですから、強くなければだめなのです。強ければ強いほど、実際の戦争や戦闘はさけられるというのが抑止力理論の奥義ですからね。

 

 

もう一つ。戦争が始まったら、軍隊は国民を守らないんですよ。国家は守るけれど国民は守らない。逆に、軍隊によって国民がひどい目に遭う。沖縄戦が典型ですよね。70年前、国民は自分たちを支配し、戦争に駆り立てた軍を心底から憎んだわけです。だから9条2項は何の不自然もなく受け入れられた。

 

世に倦むつぁんの上のお話は、ずいぶんと一方的ですね。われわれは、災害時における自衛隊の活動を見てきました。日航機事故のときに、たった一人生き残った川上さんという少女が、自衛隊のペリコプターにつりあげられて救助された、あの写真は、国民の頭に焼きついているでしょう。東日本大震災では全国自衛隊が総力をあげて救済にあたったのです。このときは在日米軍も「トモダチ作戦」と銘打って全面的に、救助作戦にあたってくれました。熊本地震もまたしかり。かれらは異口同音に、これは戦争だと言っていましたよ。大災害での作戦出動は銃や大砲は不要ですが、ほとんど戦争と同じなのです。国家を守ることと国民を守ることは、寸分の違いもありません。これをあたかも正反対に宣伝しているのは、旧態左翼の頑迷な悪癖ですね。

 

 

日本とはどういう国ですかと外国人に訊かれたら、憲法9条を持った国ですと、そう答えないといけないのです。アソシエーションとしての日本国とは、戦争を放棄し、軍隊を放棄し、その理想を世界に実現しようとする国民一人一人の共同体なのです。憲法9条を成功させることが、日本人の使命なのです。

机上の空論ですよ。それは。まるでどこぞの宗教セクトのように厳格かつ原理的ですが、不毛な美辞麗句に過ぎません。人の作った社会というものは、きれい事だけでおさまるわけには行きませんよ。軍隊以上に問題なのは、貨幣ではありませんか。貨幣こそ軍隊以上に人間と社会を貶めているのは間違いないでしょう。貨幣と武力から、少なくとも政治は、逃れることができません。この二つからだけは、人間は人間である以上、逃れられない運命にあるのです。貨幣もない軍隊もいない社会とは、桃源郷のことでしょうが、現実にはありえません。

貨幣のない社会を考えたのがカール・マルクスでしたね。資本主義はやがて貧困にあえぐ労働者によって革命され駆逐される。人々は苦しい労働から解放される。こうして人間誰しもが、全面的にその能力を開花し芸術家のようになる。これを共産主義社会と呼ぶと。

現在の資本主義は未来の共産主義に比べればまだまだ「人間の前史」にしかすぎないと。わたしも若い頃は、そんなことを夢見ました。でも、これはようするにウソだと気がつきましたね。

人間は、やがて滅亡するのは間違いないでしょう。だが最後の最後まで資本主義はやめられないでしょう。最後の一人になった人間が死していくときもまた、貨幣を大事そうに握り締めたまま死んで行くような気がしますね。共産主義の到来などより、こちらのほうが、よほど本当らしく思えるようになりました。

貧富の差があり、国境があるかぎり、好悪の感に関係なく、残念ながら社会(国家)は武装しなければならないのです。戦争や平和というものは、観念や道徳の問題ではありません。実際の平和を勝ち取るためには、それ相応の武力が背景になければ、これぽっちの平和もありえないのです。これが現実政治となるのです。

憲法9条は理想でもなんでもないのです。軍を持たない代わりに、米軍の占領下に入りなさいという敗戦国に対する当面のやりくりを約束したにすぎません。

絶対平和などという概念は現実的にはあり得ないのです。平和の内実は崇高でも、なんでもないのです。いわば第九条は、戦勝国(米国)が焼け野が原になった敗戦国に与えてくれた束の間の仮寓に過ぎなかったのです。

 

戦争で犠牲になった数多くの人々がいて、その無念があり、それが礎となって、今日の日本の平和と繁栄があること、そのことを絶対に忘れてはいけないこと。これは、いつも天皇皇后両陛下が言っていることですよね。憲法9条はこの国の原点であり、この国の決意なんですよ。蔑ろにしてはいけない。

人間でも社会でも国家でも同じことですが真の独立とは、なんと困難なことでしょう。真の独立を目指す闘いには、時には思わぬ犠牲と対価を払わねばなりません。けれど他国の傘の下で平和を守られ、この安堵と安逸のもとで、さらに飽食を楽しみたいなどという魂胆は政治的に言わせれば二流三流の話です。道徳的には下の下です。それでよいのですか。そこが戦後七十年を経て日本という社会と日本に暮らす人々に、いまさらのように切羽詰って問われてきているのです。

 

憲法9条について、古い戦後左翼の偏執だとか、時代遅れのお花畑の理想論だとか、そういうレッテル貼りで貶めて無価値化する人間は、何も歴史を知らない、知識と教養のない軽薄な人間なのです。小熊英二や高橋源一郎や想田和弘や野間易通は、9条の基礎について再学習・再教育が必要なのです。

そうは思いませんよ。ま、世に倦むつぁんもお忙しそうなので今日のところは失敬します。また機会があったら憲法問題についてお話しましょう。あなたにお願いしておきたいことが、一つあるとすれば、それは簡単なことです。どうか、日本国憲法第九条なるものを、精読してみてくださいね。それに、問題は「前文」です。これもわたしに言わせれば悪法の最たるものです。ぜひ、世に倦むつぁんも、お読みになってください。読みもしないで旧態左翼ゆずりのなにやらオカルトじみた教義や教条を説教されていたんでは、たまったものではありませんからね。

 

9条2項削除論(=新9条)の問題は本当に深刻だ。左翼リベラルに注意を喚起したい。SEALDsとしばき隊だけではない。佐藤圭(東京新聞)と鈴木耕(マガジン9条)が暗躍している。おそらく、そこに北村肇が加わる。週金の編集委員、全員「新9条」に転ぶんじゃないか。しばき隊学者の主導で。

世に倦むつぁんよ。君のしばき隊嫌いは、わかるよ。おれもあんなチンピラミーハーは大嫌いだ。彼らが何を言おうと、耳は貸さないよ。いちいち耳を貸し与えているのが、世に倦むつぁんの浅はかさだ。九条二項削除案が、そこまで浸透しているということは悪いことではない。馬鹿でもなんでも一度でも九条を読んでみれば、その現実から乖離した文意の矛盾はサルにも分かるって代物だ。ごたごた言うまえに君も読んでみたまえ。読みもしないで、旧態古風な教条を偉そうにトサカにかかげて、バカなことばかりいっているんではあるまい。世間様から笑われる一方だ。

 

ところで1947年、昭和22年すなわち敗戦から二年目新憲法発布から一年目にして下のようなパンフレットが全国の小中学校に無料で配布された。周知のように前年のうちに、明治以来の欽定憲法に代わるあたらしい日本国憲法が発布され施行ずみだった。

ここには大意次のようなことが大々的に主張されている。天皇の地位が変わった事。国民こそが国家の主人公であること。婦人にも参政権が許されること。そして問題は、今日にいたってなおそうであるように第九条の戦争放棄、武力放棄の条項だった。その部分についてパンフレットには以下のように書かれている。

 

  


六 戰爭の放棄

みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとう/\おかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。

いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。
 
戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろ/\考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。

なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。

みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。

 

そこで思うのだが上記の文言が現実の世界の政治的現象に妥当なのかどうなのか。良識的な市民なら誰しも好き好んで戦争をおっぱじめるものでも腕力を振るうものでもないだろう。「戦争を二度とおこさないようにいたしましょう」とは言っても、以後半世紀、世界のあちこちで繰り返されている戦争に、われわれは何一つ、やめさせる手立てすら思い浮かばない。われわれだけが見た目平和でそれで良いのか。

「日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです」に至っては笑止千万。戦争に負けたことを正しいといい。武力を放棄したことを正しいと言う。もちろん市井には負けるが勝ちとか逃げるが勝ちという俗言もあるが国家の政治論としては、それはどうかと思う。いずれにせよ、自虐史観とか戦後民主主義とか言う屁理屈の始まりがここにある。

そこで端的に言おう。上記のパンフレットは文部省発とは銘打っては、あるものの実のところ連合国占領軍(GHQ米軍)が書き刊行し配布したものではないか。日本国憲法そのものが米軍さんが書いたものであるようにだ。当時、日本は占領下にあった。このことを夢々わすれるべきでない。すなわち、当パンフレットは、誰が書いたのだ。米軍に決まっているのである。日本人は、これを翻訳し配布しただけではないか。

占領下とは、いかなるものだったのか。ものの本によれば、敗戦から次の年には、45万余の米兵が北海道から沖縄にいたるまで全国津々浦々に配属されていた。旧軍隊の司令部、軍需工場、役場、学校を配下に置いた。部隊には、それぞれ日本語の達者な兵隊が数多くいて言葉に不自由はしなかった。彼ら占領軍は、まず何をやったか。もちろん第一には、日本軍を徹底的に壊滅させることである。武装解除である。山のような三八銃を押収した。だが、武装解除はほんの初期のことだろう。以後の占領軍の主たる任務は米国ばりの民主主義を各地に徹底させることだった。そのための言論統制、おびただしい検閲が挙行された。

占領政策の政治的主眼は、何事も日本人自身に決定権があり著作権があるように表面上を繕ったことである。天皇や戦前の日本を謳歌する文書、物言いは徹底的に排除された。教科書の悪いと思われた文言は墨で一行づつ、塗りつぶされた。この検閲のため数千名を擁するGHQの部署があったという。憲法以下お布令というお布令は日本人自身が、みずから思想し決定したかのように繕うことだった。それが米軍占領下における日本統治の眼目だった。

こうして、またふたたび「ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」の明治維新を皮肉る川柳にこめられた、日本のなにもかもを否定して欧化思想と自虐史観を主とする社会思想がインテリ風情ら(丸山真男「超国家主義の・・・」、宮本百合子「歌声よおこれ」等々)を先頭にして衆愚の暮らす市井にも実に分かり易い黒か白かのイデオロギーがジャーナリズムに載せられて流行してきた。 

そこで、これだけは言っておきたいのだが第二次大戦それも太平洋戦争と名づけられた国家間の闘争は、アジアと欧州列強による人種差別、または格差を、これ見よがしに終結してしまった、ということである。

原爆投下は、明らかに人体実験そのものだったのではないか。さらにまた、これでもかというほどまでの米軍による空襲は、明らかに民間人への皆殺し作戦だった。

どうして、こうしたことが可能だったのかは明白である。アジアの黄色人種のジャップは野蛮人だから・・・というそれだけの理由だった。

そうした人種的差別を前提とする思想的線上に、わが新しい憲法は作られているのである。その新しい憲法は、文明国に対して、二度と反抗させ得ないように野蛮なジャップの国内から一刀残らず刃物という刃物を取り上げる・・・そうして、それは戦後日本人の精神と思想にも及んでしまったことは言うまでもない。現行「日本国憲法」の主眼は、そこにある。世界にまれなる平和憲法だと持ち上げる日本人がいるがチャンチャラ可笑しい。見よ、その翻訳調子の条文を。奴隷憲法または従属憲法そのものではないか。 

 

 

 

 

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2 コメント

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9条は (なおき)
2016-07-17 21:55:27
幣原喜重郎がマッカーサーに提案して出来たものだという事実が判明しています。
根本から事実誤認です。
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マッカーサー憲法制定事情 (かもめ)
2016-07-18 19:42:09
こんにちは。さて、ウキペッペの幣原喜重郎の項を見やれば、次のようにありますね。


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順番からいえば、憲法制定過程は、幣原・マッカーサー会談(これで大筋合意。しかも、幣原から平和主義を提案。幣原は自分で「病床でつくづく考えた」のであり、マッカーサーからの圧力はなかったと思われる)→松本案が完成(松本案自体は45年10月から作り始めていた)→松本案がマッカーサーによって拒否される(46年2月1日頃。『毎日新聞』のスクープでGHQは内容を知る)→マッカーサー3原則(46年2月3日)→GHQの民生局が草案を作成(8日間で草案を作成)→マッカーサー草案ができて(2月13日、松本国務相と吉田外相は「松本案」の返事を聞きに行ったが、逆にマッカーサーから草案を渡される)閣議が大荒れ(2月19日)→幣原はマッカーサー案を原案として採用し修正することを決める(同日)→幣原・マッカーサー会談2回目(21日)→修正を求めることを幣原が閣議でいう(22日)→閣議も了解(2月22日)

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いずれにせよ。占領下のことでした。政局は複雑怪奇を極めていた。国民の前に出てくるものといえば、それらしい民主主義を装った当たり障りのない政策だったとは言えるでしょう。その裏で、どのような激しい政治戦がったのか。まだまだ全容が解明されているとはいえません。占領軍の真意というものもある。敗戦国にも最低限、国体と国民生活を守りたいとする意思もある。新憲法制定時の占領軍と日本側の折衝は、それこそ戦後日本70年の、すべてが凝縮されているようですね。

わたしは江藤淳のいくつかの著作によって、目から鱗が落ちる思いがしました。憲法やら戦後の民主主義も、われわれが学校で習ったほど単純な話ではなかったのです。




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