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赤いハンカチ

言葉は論理を進める道具ではない・・批評家だって詩人と同じ態度で、言葉を扱わなければならぬと信じています・・・小林秀雄

▼ヴォーカル大好き<エリザベート・シュワルツコップ>

2016年08月04日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

60年代から70年代にかけて活躍していたドイツのソプラノ歌手エリザベート・シュワルツコップの歌声がTVから流れていた。ピアノ伴奏をしているのは、これまた歌曲伴奏者として名をはせたジュラルド・ムーアである。ご両人とも健在だとは思うが、今はもちろん現役を退いて久しい。いつも私の話は回顧的になってしまい読者には申し訳ないが、やはり今日も同じだ。

私が高校を卒業したのが35年前の1967年。卒業はしたものの働きに出るのが嫌で就職口を決めようとしなかった。卒業式の次の日から完全に家に閉じこもっていた私は毎日なにをしていたのだろうか。

思い出すことと言えば、親をはじめ人様からいつもせっつかれているような胸騒ぎを、オペラや声楽のレコードを聞いて慰めていた。母親に無理を言って買ってもらった小さなレコードプレーヤーを枕元におき、昼間から布団に入ったまま幾枚もないレコードを繰り返し聞いていたのである。片面の演奏が終わると手を伸ばしてレコードをひっくり返し、また針をのせた。

そうした中の一枚にシュワルツコップの歌うシューベルトの歌曲集があった。透き通るような歌声もさることながら、レコードケースに印刷された彼女の気品に満ちた姿が美しかった。そして、布団から手を伸ばすたびに触れてくるひんやりとした外気に世間をこわがる自分の弱さを思い知った。この先、なにをなすべきか。いかように生きるのか。それがさっぱり分からなかった。

 

<2002.03.25 記>

 

 

 

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▼朗読を聴く <吹雪>

2016年07月25日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

林芙美子には「吹雪」という佳編があった。一昨夜の寝入り端に枕元のラジオで、その「吹雪」の朗読を聞いた。全編の朗読を聞いても一時間ほどだったので小説としては長いものではない。一時間で読める文言は原稿用紙にしてせいぜい五十枚程である。

もう一度、黙読してみたいと思い林芙美子のどの本に、この短編が所収されているのかと、いろいろと調べてみたのだがいまのところ見つからない。全集があるなら読めるのだが、林芙美子全集は、どうやらいまだ編纂も刊行もされたためしがないようだ。

林芙美子は宮本百合子に同じく1951年に没している。「放浪記」の著者である。「老菊」の著者であり、成瀬巳喜男監督作品映画「浮雲」の原作者である。

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<古関裕而>

2016年07月18日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

本日もまた一人カラオケ。今日は以下に掲げた古関裕而作品を集中的に歌ってきた。中でも夏の高校野球は地方大会がたけなわの時期ということもあって、「栄冠は君に輝く」を何度も歌ってきた。古関作品は、いずれも歌っていて気持ちがよいのだ。「潮来笠」や「名月赤城山」などの、いわばまた旅物の流行歌も大好きで、わたしのレパートリーからかかすことはできないのだが古関作品は、これらの流行歌とは一線を画しているようで、気品があり勇壮で格調が高く若い頃から大好きだった。

 

「暁に祈る」(1940年 作詞:野村俊夫)
https://www.youtube.com/watch?v=7WOVJbs4pOM

「若鷲の歌」(1943年 作詞:西條八十)
https://www.youtube.com/watch?v=r7y9JKAP1Bc

「雨のオランダ坂」(1947年 作詞:菊田一夫)
https://www.youtube.com/watch?v=bQI115H-S90

「栄冠は君に輝く」(1948年 作詞:加賀大介)
https://www.youtube.com/watch?v=a9ycZoatCs0

 

 
古関 裕而(こせき ゆうじ)  作曲家 1909年(明治42年)~1989年(平成元年)

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▼ヴォーカル大好き<暁に祈る>

2016年06月16日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

  

昨日も同店にて、橋幸夫さんの「潮来笠」を練習してきたのです。

今日も、ほかにすることもなくカラオケに行くことは、朝から決めていたのですが、

あけてもくれても「潮来笠」ばかり歌っていたんでは芸のない男だと思われてしまうこと必定です。

「潮来笠」の一曲しかカラオケできないとなれば、これはもう世間の笑いものになってしまいます。

そこで、今日はなんとか別の歌に挑戦しなければと、戦々恐々たる思いで心を鬼にして店に入っていきました。

店長さんに席を与えられ、しばしの間、老眼鏡をハンカチで磨きなおしたり、タオルで鼻をかんだりしながら、

なんの曲を歌おうかと、いろいろ思案した挙句、次の二曲にしぼって歌うことにいたしました。

今や3,40年前に菅原洋一さんが歌って一世を風靡した「今日でお別れ」と、軍歌の中の軍歌「暁に祈る」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<水の上で歌う>

2016年05月25日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

シューベルトは600余りの声楽曲を作った。これらの歌曲を録音で聴いているとピアノの伴奏だけでも立派な音楽である。だいたい、音楽が美しいものだという概念は、わたしの場合、シューベルトを聴いてはじめて、さもありなんと得心させられるところなのである。

アベ・マリア、セレナーデ、子守唄、水車小屋の娘、糸を紡ぐグレートヘン、冬の旅、白鳥の歌等々。

後年、リストがこれらシューベルトの歌をピアノだけの音楽として編曲した。リストによるシューベルトを聴いていると人の声なんぞはベルカントであれ民謡調であれ、極言に聴こえるかもしれないが無用の長物と化してくるから不思議だ。

http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%B0%B4%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%A7%E6%AD%8C%E3%81%86&tid=12d5eaadcbfc61efe368320c5b7278ad&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1

 

 

セロも良い

http://www.nicozon.net/player.html?video_id=sm14860076&k=1466057407.0.1.W2u2uuAd5Tg62LClR-jVfKzwB9Q.aHR0cDovLzQ5LjIxMi4xNTkuMTgyL3JlZGlyZWN0L2luZGV4Lmh0bWw_dmlkZW9faWQ9c20xNDg2MDA3Ng%3D%3D...0

 

 

 

波の上 きらめく光

ゆれる小船の上のわたし

空から降り注ぐ光

西の木立の上から

夕陽が優しく微笑み

東の木立の下では

葦がそよぐ

 

 

 

 

 

 

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▼「正宗白鳥随想録」より

2016年05月05日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

以下はすべてこれ、先日読んだ本からのコピーで、わたしの感想は一行たりとてなくぃのだが、わたしは、いつもここにあるこれらの文章群から、わが身の過去のすべてを現在立っている時点から、できるだけ都合のよいように書き直したり夢見たりしているのかも知れない。

 

私は上野駅などで見るルンペン浮浪児などをも、神秘不可思議の存在としてみている。さかしら立てて浮浪児の教化を企てるのが世の常識であるが、これを神の現われとして、仏の化身とみて、神秘的瞑想にふけるものは、今は一人もいないのだろうか・・・ドストエフスキーなどは、浮浪漢や罪人に神秘性をみて、そうした人物を作中に描いた・・・たいていの人間が世間的自己だけを表に出して生活のために通用させ、神秘的自分は奥にしまっておくように心がけている。その神秘性には、ドストエフスキーのようにおがむべきものもあれば、悪魔の系統に属するものもあるのであろう。民主主義や科学で神秘をなくそうとしても、何かの形において神秘な存在を続けるであろう。(神秘の弁 昭和22年)

人生は退屈である。生活に飽きたというようなことは、私など三十年前から、よく口にし筆にしていた。退屈しながら飽きながら生きつづけてきたわけだが、歳をとったこのごろでは退屈しどころではない。飽いたとか飽かないと云っている場合ではないようなものだ。鴨長明のような浮世離れをした暮らしは出来なくなった。老境に達した五代目団十郎は、訪問のひいき客に向かって「この歳になって、ベニやおしろいをつけて舞台で女の真似をなんかするのは、いかなる因果ぞと、昨日も顔に化粧をしながら涙を落としました」と、しみじみ云っていたそうだが、それからまもなく引退したそうだ。今日では、「この歳になって、色恋のことなんかを書き立てて、糊口の資とするのはいかなる因果ぞと落涙する」余裕なんかありはしない。役者でも小説家でも生きていたい限り60になっても70になっても、それ相当に働かねばならない。だが、老人になると、若い者に対して恐れを抱くようにもなるのである。若い者が新しい知識を取り入れ、新しい思想を理解しているのをうらやましく思ったりする。そして若い者に媚び、若い者からのけ者にされないように心がけるようになる。私自身そうなりかかっているのか、ふと気づいて、いとわしくなることがないでもない。(老人心理 昭和22年)

私は若い自分には予想もしていなかったほどに長く生きのびたのであるが、その長い間にはさまざまな人間から、直接間接に感銘を受けているのである。それらの人々から有言無言の教えを授けられている。私の社交範囲は、はなはだ狭く青年の頃から社会のいろいろな方面の人士に接触した経験は乏しいので、自分の親兄弟か、少数の親類縁者意外には、文壇人について多少知っているだけである。私は特別の世間知らずとして、私以外のいろいろと異なった社会相に通じ、さまざまな異なった男女の正体をよく知っているらしい文壇人についても、彼らの人生知識にあまり信頼しないように、このごろはなりだした。筆の上でいろんなことを知っているらしく振舞っている作家でさえも、いい加減なところで綴り合わせているに過ぎないようである。漱石は誰よりも創作力が豊かであり、鴎外は、聡明な人である。しかし、彼らの学問がどれだけのことがあるだろう。彼ら程度の学問が無学者以上に、どれだけ人生宇宙の真髄を看破したのであろう。(作家の真相 昭和24年)

私は両親に似て勤勉ではあったが保身の術もおのずから心得ていた。私は人に親しまれず、人に親しまない種類の人間であり、人の説に雷同するよりも反対したがる素質を持っているようだが、危険を冒して時代の有力な思想に反抗することは、意識的に慎むようにしていた。人間、生きるためには仮面をかぶる必要があると、私は早くから気づいていた。夏は単衣を着、冬になると、単衣を脱いで綿入れを着るのが、あたり前の生活態度であるが、思想問題もそれでいいと早くから思っていた。仮面をかぶって生きていると云うと、私が奇異な思想を有し反逆精神でも蓄えているらしく思われるが、実は大したことはないのである。自分が狂信し熱愛するほどの主義があるのなら、その主義に殉ずるのは怪事であろうが、私にはそれほどの主義はないのである。人類の歴史は苦難の歴史である。いつか平和の歴史が続くようになるかも知れないが、それは遠い遠い、さざれ石の巌(いわお)となりて苔の蒸すまでの遠い将来であろうと想像される。(我が人生観 昭和25年)


   - ☆ - ☆ - ☆ -

正宗白鳥年譜 (『白鳥随想録』より)

明治12年(1879年)岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。
江戸時代の正宗家は代々網元であり材木商も営んだ財産家であった。
明治29年(1896年)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。
在学中に植村正久・内村鑑三の影響を受けキリスト教の洗礼を受ける。
史学科、英語科に在籍し、明治34年(1901年)文学科を卒業。
早大出版部を経て読売新聞社に入社。文芸・美術・演劇を担当した。
明治37年(1904年)処女作品となる『寂寞』を発表し文壇デビューする。
明治40年(1907年)読売を退社し本格的に作家活動に入る。
明治41年(1908年)に発表した『何処へ』は彼の代表作である。
昭和期になると、活動の主点を評論に置き、その鋭い観察眼と批評は定評を得た。
昭和11年(1936年)1月の読売新聞に小林秀雄が「作家の顔」という小論文を掲載した。
その中に、同年に正宗がトルストイについて書いた評論に対する非難が掲載されており、小林と正宗との間に「思想と実生活論争」が起こった。
昭和25年(1950年)文化勲章受章。
昭和37年(1962年)膵臓癌による衰弱のため死去。享年83。

   - ☆ - ☆ - ☆ -

正宗白鳥さんは、80過ぎまで生きて聖人のごときものだね。ほんとうにあの人はソクラテスのような人だ。現代ではジャーナリズムの中にいたわけだけれど、白鳥さんが古代ギリシャにいれば樽なんかに寝ていますよ。正宗さんの小説はみなおもしろいが、正宗さんという人物がわからないと面白くもなんともない。あの人に才はないさ。才というよりはもっと違ったものを持ってしまった人だ。つまり芸というものを磨こうとしなかったし磨かなかった。(小林秀雄 「文学の四十年」より 昭和40年)

   - ☆ - ☆ - ☆ -

白鳥75歳のときに書いた次のような言葉がある。「文筆生活50余年わが痛感した事は努力の効も乏しくてひとえに天分しだいであることである」。尋常な感慨ではない。50年の文筆生活を回顧すれば、まるで、己の持って生まれた性質に出会うために、人生を逆に歩いてきたようなものだと言うのである。

これが白鳥のまったく率直な告白であることを納得するのは、そんなに易しいことではない。何故かというと、出来るだけ自己に忠実に生きてきた人でなければ、このような事がいえたはずもないからだ。

数年後、「花より団子」という文が書かれているが、文中、白鳥が己の性分天分に直に触れている処がある。いずれ微妙な問題なのだ。黙って文章を読んでみるに越したことはなさそうだ。

小学校入学当時のことが回顧されている。その頃はまだ寺子屋の名残りで、「孝経」「論語」「孟子」などの素読がやらされていたが、作文の稽古もはじめられていた。あるとき「花見の記」という課題を出され、子ども心にいろいろと思案する様子が活写されている。

山にも野にも桜は咲いているので、それを見て何か書くつもりになったが、知らず知らず熱心になって見ていると、桜はどうしてこんなに綺麗なのだろうと、不思議に思われだした。

わたしの家の離れの庭には一本の八重桜があって、ほかの一重桜におくれて、その花の咲く時には、祖母が先に立って弁当を作り、孫たちと花見の宴を催すことがあった。わたしはそれを作文の種にして花見の記を作ろうとした。

それで離れの庭のまだ咲かない八重桜を見上げながら、花見の記を書こうとしたが、書こうとすると頭がごちゃごちゃになり何も書けそうになかった。よく咲いた花の下で、お婆さんや、わたしの兄弟が揃って、玉子焼きや蒲鉾や煮しめのお弁当を食べたことを、今年はまだ食べもしないのに、食べたつもりで書こうとしたが、食べもせぬのに食べたつもりで書くのがつまらなくなった。

「桜の花はどうしてあんなに綺麗なのだろう」と、今年はじめて不思議な思いをしたことを書こうかとふと思ったが、そんな事を書いちゃ悪いような気がした。それで、しかたなしに、何も書かないで白紙のまま先生の前に出すと、

「どうしたのじゃ。何も書いていないと零点だぜ」
「しょうがありません」
「何か書きなさい。今は桜の盛りじゃ。花は桜木、人は武士と云うことを君も聞いとるだろう」
「知りません」
「咲いた桜になぜ、駒つなぐ、駒がいさめば花が散ると云う唄を聞いたことはないか」
「聞きません」
「それでは花より団子。君も団子のほうが好きなのだろう。花見に行って団子をたべたと書いたらいいじゃないか」

先生にそう云われると、わたしはその通りに書こうとかと思った。桜の花を楽しむより団子でも食べたいと思いながら筆を執っているいると、桜の花が団子のように見えだした。団子が串に差されてたっているのが満開の桜の形か。私はそう思い出すと、それが面白くなった。
「花見の記」が団子の記になった。団子が咲いた咲いたと書いた。

でも、私にも団子は団子、桜は桜。団子は口にするとうまいもの、桜は目に美しいもの。

ある日隣の家からもらった団子を腹一杯食べた私は、離れの庭にぽつりぽつりと咲きだした花を、自分ひとりで見上げていたが、膨らんだ団子腹を消化させる気になったのか、その桜の木にするすると登って、咲いている花を一握りつかんで口の中に入れた。

うまいまずいの感じではなく、綺麗なものを口から喉を通して腹に入れたような感じがした。そうして、二握り、三握り、むしゃむしゃと喰ったのであった。それ以上は喰えそうではなかったが、そうしたあとで、木から飛下りて、花から花を見上げていると、こんな綺麗な花の味を誰もしるまい、とそれを面白いことのように考え出した。

いくら美しくっても、これは人間の食べ物じゃないと思われたので、誰にも云わなかった。だが、あくる日午餐のあとで、その離れの庭に出てみると、昨日にもまして花の色づいたのに心が惹かれ、またその木に登って、二握り、三握りつかみ取って、口から喉へ通した。

味がどうであろうと、綺麗なものを腹に入れたという気持ちは快かった。家の者に気づかれないうちにどれほどのものが喰われるかと、人知れぬ異様なたのしみになった。



(小林秀雄「正宗白鳥の作について」より 昭和56年)

<2007.06.22記>

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▼ヴォーカル大好き<鐘が鳴ります中空に>

2016年04月24日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

今日は、午前中の散歩から帰ってきてからというもの鮫島有美子さんのソプラノに聞きほれていた。

 


「ゴンドラの唄 鮫島有美子 日本抒情歌集」 1999年録音 DENON

 

 

 

 

行こうか戻ろか北極光(オーロラ)の下を

露西亜は北国はて知らず

人はつめたしわが身はいとし

昼は旅して夜は夜で踊り

西は夕焼け東は夜明け

末はいづくで果てるやら

鐘が鳴ります中空に

 

この唄は大正6年、松井須磨子主演のトルストイ原作なる芝居の劇中歌とのこと。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼「井上ひさし」を知りたもう

2016年02月24日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

<以下、2011.11.10 記>

数日前に素敵な女性が登場している動画を見たので、ここに紹介しておく。
http://www.youtube.com/watch?v=7WRJNIjl7pY
http://www.youtube.com/watch?v=rQEFoyGMMEw

西舘好子さんは日本子守唄協会という団体の理事長をなされているらしい。おそらく西舘さんが、発起人であり創設者なのだろう。この団体名を目にしたときに、わたしは西舘好子さんのことを一発で理解できたと思った。わが国に、何々協会とかNPO法人を名乗る団体は、何万何千とあるに違いない。だが、かくほどまでに美(うるわ)しい団体名は昨日まで、目にしたことも耳にしたこともなかった。

日本子守唄協会
http://www.komoriuta.jp/ar/A05090601.html

そこで本題に入るが、わたしもまた西舘さんの近著『表裏 井上ひさし協奏曲』を読んでみた。驚いたのなんのって、興奮のあまり二日ほど眠れなかった。最初わたしは西舘さんのことは何も知らなかったので、週刊誌などに、よく掲載されている有名人から捨てられた女が、私怨をかざして報復的に彼の知られざる生活を暴露する手記か、なにかかと思いつつ最初のページを開いてみたのだが、それがまったく、そうではなかった。

井上ひさしは、いまや伝説化された感すらあるNHKで放送された児童向けの人形劇『ひょっこりひょうたん島』の脚本を書き、これで世に出た作家である。直木賞も受賞した、自前の劇団も作った。たくさんのベストセラーを書いた。ここまで、なにもかも元妻の西舘さんと二人三脚でやってきたのである。

動画の中で西舘さんが言っている。人間、むしろ偉くなるとあさましい地金が出てきてしまうのだと。なんとか筆一本で食べられるように、世に認められようと夫婦して苦労しているときは、卑しい地金は隠れているものだと。誰でもそうだ。男はとくに、そうである。地位があがったり思わぬ金が入り始めると、それまでの、いと優しき善人ぶったメッキが、みるみるはげてくる。心根の底に隠れていた俗物性が表面に出てきてしまう。面子や沽券というものが、なにより大切になってくる。時には、なかなか凶暴になる。かといって、もちろん井上ひさしは悪党ではない。西舘さんは、一行たりとも元夫の悪口を書いていない。

昨年、井上ひさしは没した。新聞で見たのだが、井上ひさしを偲ぶ会の最後に挨拶に立たれた現夫人のユリさんは、「井上ひさしは天才です」と申していたそうだ。わたしには井上ひさしが天才であったのか鈍才であったのかは分からないし、知ろうとも思わない。彼の本は幸か不幸か、これまでに「米の話」と「日本語教室」という理屈っぽい、この二冊しか読んでいない。芝居も見ていないし話題になった「吉里吉里人」も古本屋で格安で入手したにはしたのが十行ほど読んで、つまらなくなり、押入れに放り込んだままである。

残念ながら、わたしには井上ひさしの諸本から、彼の知見に感銘をうけたこともなかったし文才を感じたこともない。そこで私なりに、西舘さんのご本を読んだ限りで井上ひさしという敗戦後の日本を駆け抜けた一人の流行作家を総括してみるに、何かといえば、「俺が俺が」とわめきつつ、ときには「誰のおかげでメシを食っている」などと妻子を恫喝して、これを励みに自分もなんとか一旗あげなければと思い込み、ひどく上昇志向にこだわる当時の日本なら、どこにでも転がっていた経済的高度成長期に特有の「愛すべき」普通のおっさんだったということだけは確認できた次第である。

 

 

 

 

 

 

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▼影の弁法

2016年02月09日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

以下、影を詠める歌数首。

見し人の影すみはてぬ池水にひとり宿もる秋の夜の月 (源氏物語「夕霧」)

見るとても嬉しくもなしますかゞみ こひしき人の影をとめねば (義経記)

けふまでとみるになみだのます鏡 なれにし影を人にかたるな (拾遺和歌集)

かたばみのそばにおひたるかゞみ草 露さへ月に影みがきつゝ (民部卿為家)

見し人の影もなければます鏡 むなしき事を今やしるらむ (法印澄憲)

身をわくる事のかたさにます鏡 影ばかりをぞ君にそへつる (後撰和歌集)

水かねやざくろのすます影なれや 鏡とみゆる月のおもては (七十一番歌合)

世中は憂身に添へる影なれや 思ひすつれど離れざりけり (藤原忠実)

 

 

<2008.09.08 記>

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<落葉松>

2015年11月20日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

遠い昔の話だが、わたしが、そも小林秀雄の名を知ったのは今は半世紀も前のこと高校生の頃だった。ところが、その小林秀雄という有名人が文学畑なのか音楽畑なのかが混迷を深めるばかりだった。小林秀雄の本を求めて町の書店に駆けつけた。文庫本をめくってみると、次のようなページにでっくわす。これは、もう音楽家の小林秀雄に間違いないと思い込むだ次第。


新潮文庫「モオツァルト 無常という事」より

聞きしに勝る文芸評論家が、なぜに楽譜なんぞを原稿にしるするのか。こうした疑念は高校生のわたしには無碍なることだった。そしてほとんど中身を読みもしないで、ただちに断じた。小林秀雄とは音楽家に違いないと。この本を、きちんと読んだのは、ずいぶんと経った後年のことである。

彼は泣く。しかし人々が泣き始める頃には彼は笑っている・・・・モオツァルトの悲しさは疾走する。涙は追いつけない。涙のうちに玩弄するには美しすぎる。

 

落葉松  

詩:野上彰、曲:小林秀雄    八戸市立根城中学校合唱部
https://www.youtube.com/watch?v=Tjl1ymZfsAA

 

 

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▼ヴォーカル大好き<ラ・マルセイエーズ>

2015年11月15日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

昨日、パリで同時多発テロが起こった。数百名の市民が死傷した。

世界中の人々が哀悼の意をこめてフランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」を歌った。

もう一度歌詞を読んでみよ。

かの歌は軍歌なのである。

「取れ武器を」と、ようするに暴力を謳歌して恥を知らない。

民衆に武器を取れと扇動している。

ようするに、それはテロリズムとなんら変わることはない。

革命もテロリズムも動機も手法も同じことなのだ。

そのことを重々とわきまえて後フランス国歌を歌いたいなら歌えばよい。

 


「青年歌集」(うたごえ運動 音楽センター刊 1978年)


エディット・ピアフが歌う「ラ・マルセイエーズ」
https://www.youtube.com/watch?v=lu3eSNi__4w

 

以下、話は政治的になるが、さてもさても一国どうしが開戦宣告をして正規軍同士が合いまみえる、いわゆる「戦争」という概念は古風となりつつある。第二次大戦当時の「戦争」概念は現代ではほとんど意味をなさない。

核抑止力のお蔭様なのか、はたまた「民主主義」や「人権主義」のお蔭なのかは知らないが、これ見よがしの国家間の戦争は、めったに勃発することもなくなった。

替わって登場してきたのが憎き敵国の誰彼かまわずに殺傷することを目的とするテロである。

テロリストたちは自爆を厭わない。これが怖い。また手に負えない。

それをどうするのか。誰が阻止できるのか。

そこを考えるのが軍事を含めた現代政治の要諦だ。

 

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▼ヴォーカル大好き<ロシアの軍歌>

2015年10月30日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

▼ホロストフスキー(バリトン)による戦役歌謡

 


https://www.youtube.com/watch?v=JTjPbkd_UlY

 

満州の丘に立ちて
http://www.youtube.com/watch?v=L67oxXOyABA

 


https://www.youtube.com/watch?v=d1JFKJtPVlQ

 

わたしのモスクワ
https://www.youtube.com/watch?v=B_MbFCm4kxs

 

 

▼コーラスによるロシアの軍歌

心騒ぐ青春の歌
https://www.youtube.com/watch?v=8dtgDDeUTq4


アムール河の波
https://www.youtube.com/watch?v=sMPqDRaztzw


泉のほとり
https://www.youtube.com/watch?v=jkRrKY36Pec
 

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<初恋 富士山見たら>

2015年08月01日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

 

●初恋

ベー・チェチョル(テノール)
https://www.youtube.com/watch?v=soA_4OiJ7bs

 

作曲・・・越谷逹之助

砂山の砂に腹ばい初恋のいたみを遠く思いいずる日・・・・啄木

 


 

●富士山見たら

立川清澄(バリトン)
http://www.youtube.com/watch?v=BUlFdFeh3Bw


作曲 橋本 国彦
作詞 久保田宵二    昭和5年(1930年)1月


 旅の空から 富士山みたら
 遠い故郷の あの娘をおもた

 旅の空から 見た富士山は
 遠い故郷の あの娘に似てる

 田舎育ちと 笑わいでもらお
 あの娘気高い 優姿

 

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▼ひばりの命日つゆ草ねじ花

2015年06月24日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

ときどき、美空ひばりさんの歌声が聞きたくなる。それでまたさきほどひばりさんの動画サイトを開いていたら、コメント欄に本日6月24日はひばりさんの命日であるとの書き込みがあった。ひばりさんが亡くなられて二十年ほどが経つだろうか。

わたしが見ていた、そのサイトでひばりさんが歌っていたのは「無法松の一生」だった。この歌は、もともと村田英雄さんの持ち歌だった。歌詞がよく曲もよく村田さんをはじめ多くの歌手が歌っている様子を拝見したけれど、やはり、わたしはひばりさんが一番だと思った。

「無法松」と呼ばれ福岡は博多に生きた一見粗野な男の悲哀と喜びがひばりさんの歌声によって何故もこうまで生々しく描出されてくるのだろうか。

「芸」とか「天才」と云ふ言葉だけでは解消も了解もできがたく、これぞわたしたちにもたらしてくれる根源的な問題であり、それはまた幸福かつ不思議な心象だ。

 

 

 

2015.06.24  横浜市

 

 

  

 

 

 

 

 

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▼がんばれ裕ちゃん

2015年05月27日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

2015.05.27 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はひさしぶりに図書館にもう出てみたところなり。いろいろと借り出してきた数冊の中から石原慎太郎著「弟」をさっそく読んでみたところなり。慎太郎の言う「弟」とはもちろん二十年ほど前にガンでなくなった戦後スター中のスター石原裕次郎のことである。表紙を開くと下のような写真があった。向かって左は六歳当時の慎太郎、右は四歳当時の我らが裕ちゃん。

『弟』石原慎太郎著 幻冬社 1996年刊より

 

 

 

 

コメント (3)
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