
美空ひばりさんの特集番組をラジオで聞いたのは、もう一週間ほど前になるだろうか。
以来、わたしは完全に「ひばり漬け」になってしまった。
寝ても覚めても美空のひばりの歌ばかり聴いてすごした。
正直に言えば、わたしは、その番組を聴くまで、美空ひばりさんについては、
どちらかと言えば、好きなタイプでも歌手でもなかったのである。
そうした価値観が、ひっくり返ってしまった。
むしろ意識的に、ひっくり返そうとした、わが一週間のひばり三昧であったとも言えるだろう。
こうして、わたしにとっての美空ひばり再発見に及ぶ、この一週間の旅は、かなり根底的なものだった。
ところで、美空ひばりは、楽譜が読めないという悪評を耳にした御仁は多いのではないか。
美空ひばりといえば、のど自慢に毛が出た程度の単純な流行歌の歌い手だとの皮相な印象が、
わたしの頭にもこびりついていたのである。
1975年のことである。ひばりさんと岡林信康さんの出会いがあった。ひばり39歳、岡林28歳。
70年当時より、「フォークの神様」と持ち上げられていた、岡林信康さんは、
そういわれるのが嫌で嫌でたまらず、すでに人前で歌うことすら、できなくなっていたという。
フォークの神様とは、すなわち当時の青年諸氏にとっては、「反体制運動の騎士」に他ならない。
完全に誤解が先走っていた。おそらく岡林さんにおかれては、オレは音楽をやっているだけだと、
叫びたかったに違いない。フォークが嫌になり、演歌ばかり聴いていたらしい。
演歌を求めればひばりに行き着くのは理の当然だ。
こうして、しばし「ひばり漬け」の日々が続いたという。
演歌を作ってみたりもした。それらの一つを美空ひばりさんに献上した。
1975年、二人は出合った。
ある日、岡林さんが、ひばりさんのレコーディングの場に臨んでいたらしい。
不思議なものを見て、岡林がひばりに問う。これなんですか?
ひばりの前にはマイクがあるだろう。そのマイクの前の壁に、大きな紙に、歌詞が大きく書かれ、
節ふしに、矢印が記されているのだという。
ひばりは、答えた。
わたしは、楽譜が読めないものだから・・・・と。
岡林が言う。
そうですか。わたしも楽譜なんか使いませんよ。楽譜なんかなくても歌はなんぼでも作れますよ・・・と。
すると、ひばりが、「ホント・・・」と言いながら、長身の岡林を見上げて、これ以上ないような可愛い顔で、
そう言ったらしい。
後年、岡林の回顧によれば、この一瞬に、二人は打ち解けた。
いかに、ひばりにとって、楽譜が読めないということが、大きな傷となっていたか。
考えても見よ。音楽の精髄を表現するに音符やら、楽譜は余計なものだろう。
いずれ楽譜は道具にしか過ぎないのだ。
やはり、半端な世間の風評に傷を負っていた岡林だからこそ、ひばりの傷を救い上げることができたとも言えるだろう。
わたしは、思うのだ。
ひばりは、楽譜を読めなかった、または読もうとしなかった。
だが、だからこそ、ひばりはひばりなのだと。
だからこそ、人々の心底に、その歌声が届いたのではないのかと。
ひばりは、なによりも日本語による日本の歌手なのである。
ひばりにとって、歌詞以上に付加されるべき音楽は、なにもなかったのである。
歌詞が、そのまま歌であり、音楽だったのだ。
楽譜や音符なんぞの中間物は、彼女の音楽にとっては生涯、不要だったのである。
もしかしたら、マイクとかレコードさえも不要だったのかもしれない。
歌うべき言葉と、目の前に、聞いてくれる人々がいれば、それだけで何の不足もなかったのである。

http://www.youtube.com/watch?v=Lt8gLpks3KU