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赤いハンカチ

子供は微笑することが上手である・・そして又すべての人間の美しさは子供の微笑に胚胎している・・・小林秀雄

▼ヴォーカル大好き<栄冠は君に輝く>

2014年08月09日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

本日より国民的期待を集めてなんぼのNHK夏の甲子園高校野球中継が始まる予定だったのだが台風の影響で中止とあいなり候、残念至極。そこで当大会の主題歌とも言える「栄冠は君に輝く」を歌詞を思い出しつつ歌ってみた次第なり。

 

雲は湧き光あふれて
天高く純白の球今日ぞ飛ぶ
若人よ いざ
まなじりは歓呼にこたえ
いさぎよし微笑む希望
ああ栄冠は君に輝く

風をうち大地をけりて
悔ゆるなき白熱の力ぞ技ぞ
若人よ いざ
一球に一打にかけて
青春の賛歌をつづれ
ああ栄冠は君に輝く

空を切る球の命に
かようもの美しくにおえる健康
若人よ いざ
緑濃きしゅろの葉かざす
感激をまぶたに描け
ああ栄冠は君に輝く

 

 

作詞 加賀大介
作曲 古関裕而

歌 夏川りみ


https://www.youtube.com/watch?v=a9ycZoatCs0

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き「あゝ上野駅」

2014年07月09日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

2014.07.06 台東区

 

以下ウキペッペより。

井沢八郎が歌った「あゝ上野駅」は1964年(昭和39年)にリリースされ、爆発的なヒットとなった。戦後日本の歴史に残る名曲として位置付けられており、2003年には上野駅の駅前に「あゝ上野駅」の歌碑が完成した。 

 

 

どこかに故郷の香りをのせて
入る列車のなつかしさ
上野はおいらのこころの駅だ
くじけちゃならない人生が
あの日ここから始まった

 

正面改札口

上部の壁画はなんとかという画伯が昭和25年に描いたものだと聞く。

この改札口を入ってすぐの15番ホームに、石川啄木の次なる歌碑がある。

 

ふるさとのなまりなつかし停車場の人ごみの中にそをききに行く

 

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<海自の歌姫>

2014年03月17日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

今日の昼下がりは三宅由佳莉さんの歌声を動画サイトを開いては聞きほれていた。

http://www.youtube.com/watch?v=zY59cNm0rac

http://www.youtube.com/watch?v=LUPqUq8hhvA

 

 

 2013.08.27 産経新聞より

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▼ヴォーカル大好き<東京だよお母っさん>

2013年11月09日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

2013.11.09 横浜市

 

昨日お千代さんこと島倉千代子さんが亡くなられた。ものごころついた頃から半世紀あまりラジオ、テレビ、レコード、カセット、CDと録音市販再生にかかわる音響媒体の形式は幾たびも変遷してきたけれど、わたしの好みは変わらなかった。まるで鈴でも鳴っているようなお千代さんのすすり泣くビブラートは格別だった。お千代さんの高音は甘くせつなく胸中の奥深くまで届いてくるから懐古する郷愁に満たされて聴くたびに親と日本を愛するわたしの心を心地よくゆすってくれていた。 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<サンジャンのわたしの恋人>

2013年10月31日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

とりあえずは、なにかましな音楽が流れていなければ、身の施しようがないという心境になるのは毎日のこと。そこで今日はネットの動画サイトで、若いころの美輪明宏さんが歌うシャンソンを見つけたので、午後は自室にて秋のよき日の昼下がり、この歌ばかりを聞いて過ごした。

https://www.youtube.com/watch?v=yvhjYYMJrEw

 

 

アコーディオンの流れに誘われいつのまにか

サンジャンの人波にわたしは抱かれていた

甘いささやきなら信じてしまうのよ

あの腕に抱かれれば誰だってそれっきりよ

あのまなざしに見つめられた時から

もうあたしはあの人のものよ

なにも考えずにみんなあげてしまった

たとえ騙されても愛してしまったあたし

甘いささやきなら信じてしまうのよ

あの腕に抱かれれば誰だってそれっきりよ

あの言葉は口先だけのウソと

でもあたしはいつも信じていた

アコーディオンの調べもみんな誘いのワナだった

初めての恋だからあたしは夢中だったのね 

甘いささやきなら信じてしまうのよ

あの腕に抱かれれば誰だってそれっきりよ

いいんじゃないのあの人のことは もう

みんな終わって過ぎた夢なのよ

 

※サンジャン・・・・フランス各地にて夏至当日に行われる「聖ヨハネ祭」のこと<ウキペッペ>

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▼ヴォーカル大好き<ヴェルディ>

2013年10月14日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

2013.10.14 FM放送番組表

 

ラジオのFM放送で10時間ぶっ続けのヴェルディ特集があって、今日は一日これでもかと言わんがばかりに、次から次へと名だたるアリアを聞くに及んでオペラの醍醐味を堪能できた。ヴェルディには「椿姫」をはじめ「オテロ」「アイーダ」「リゴレット」と、みな好きな作品ばかりが目白押しだが中でもわたしが愛する作品は「トロヴァトーレ」だ。

第二幕 アズチェーナのアリア 「炎は燃えて」
http://kazu2176.ldblog.jp/archives/1607411.html

 

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▼上野にて「国宝興福寺仏頭展」を観る

2013年09月21日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

2013.09.21 台東区

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<ヨイトマケの唄>

2013年08月22日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

昨夜NHKテレビを見ていたら、大好きな美輪明宏さんが出演されていた。

「ヨイトマケの唄」を作られたときの思いを問われ興味深いエピソードを話していたので、それを記しておこう。

美輪さんは、長崎に生まれ色町のカフェで育った。原爆にも会った。

そして終戦直後の小学校に通った。

ある日、クラスに父兄会というものがあった。

父兄とはいうものの、その実、母親たちが三々五々の教室につめかけた。

遅れて、駆けつけた母親がいた。

その母親の挙動が、美輪さんの心を打ったのである。

母親は姉さんかぶりの手ぬぐいを取りながら、もんぺ姿で汗と泥にまみれたまま教室に転がり込んできた。

そして、まっすぐに、自分の息子のところに行き中腰になって、息子の襟を直したり、シャツをズボンにつっこんだり髪の毛をさすったり。

その同級生は、クラスでもっとも出来の悪い貧しい家の男の子であった。

美輪さんは、まるで親猫が子猫をなめるような動物的ともいえる、それらの直裁な仕草に驚いていた。

極めつけは以下である。

母親は自分の唇を近づけて息子の鼻汁をすすりとり、窓のところにいって、ぺっと、外に吐き出した。

終始、臆することなく堂々たる母の子に対する愛の表現を、美輪さんは後年にいたるまで、忘れられなかった。

「ヨイトマケの唄」は、子どものころ見た、その時の、とある母親の神々しい姿が、もとになっているという。

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▼映画『終戦のエンペラー』を観る

2013年08月05日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

『終戦のエンペラー』と題された日米合作映画を観てきた。

マッカーサー元帥も出てきたし昭和天皇も出てきた。

昭和天皇が好意的に描かれていて、それで何度か涙が出てきた。

歴史には、悲しいこともある。

楽しいだけが人生ではないのだ。たえなければならないこともある。

そうしたことを、教えてくれる、よき映画であった。

月曜日の昼下がりのことで、観客も少なかろうと予想していた。

拙者のばあい、昨今つとに眼が悪くなり、できるだけ前の方の座席を選ぶ。

映画が終わって、後ろに向かってせり上がっている客席を振り向くと、思いのほかで、なかなかの入りだった。

みな、拙者に同世代の白髪頭やらハゲ頭ばかりだった。

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▼母のための十五夜お月さん

2013年05月16日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法


「日本童謡集」岩波文庫より

それにしても、なんと言う悲惨な歌詞か。ようするに一家離散の顛末を詠っている。父親が事業に失敗したか、働き口を失ったか。おそらく、そんな事情があったのだろう。とうに母親も家を出てしまい、妹も田舎の親類に引き取られた。詠っている「わたし」だけが、甲斐性もなく、つまらそうに日々を送っている父親のもとにいるのだろう。寂しく悲しい情景なのである。現代では、想像を絶する家族の姿だ。野口の詩からは、歴史とは、そんなものなのだという達観もうかがえる。

さて、大正九年といえば、わたしの母親が生まれた年でもあった。母は9人姉妹の末っ子だった。このうち、これまでに、わたしに面識があるのは、4人の叔母だけなのである。それも、いまは誰一人生き残ってはいない。わたしの母は、この春で93歳になった。母の場合も、何度も何度も子どもたちを手放すか、または一家離散の土壇場まで行きながら、こらえてくれたのだと思う。ひたすら子どもたちを守るため、働きに働いた。そのことを思うと、万感の思いがつのってくる。

 

わが母の そで持ち なでて わが故(から)に
泣きし心を 忘らえぬかも 
・・・・ 万葉集 防人の歌

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▼愛しのひばりよ

2013年05月06日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

美空ひばりさんの特集番組をラジオで聞いたのは、もう一週間ほど前になるだろうか。

以来、わたしは完全に「ひばり漬け」になってしまった。

寝ても覚めても美空のひばりの歌ばかり聴いてすごした。

正直に言えば、わたしは、その番組を聴くまで、美空ひばりさんについては、

どちらかと言えば、好きなタイプでも歌手でもなかったのである。

そうした価値観が、ひっくり返ってしまった。

むしろ意識的に、ひっくり返そうとした、わが一週間のひばり三昧であったとも言えるだろう。

こうして、わたしにとっての美空ひばり再発見に及ぶ、この一週間の旅は、かなり根底的なものだった。

ところで、美空ひばりは、楽譜が読めないという悪評を耳にした御仁は多いのではないか。

美空ひばりといえば、のど自慢に毛が出た程度の単純な流行歌の歌い手だとの皮相な印象が、

わたしの頭にもこびりついていたのである。

1975年のことである。ひばりさんと岡林信康さんの出会いがあった。ひばり39歳、岡林28歳。

70年当時より、「フォークの神様」と持ち上げられていた、岡林信康さんは、

そういわれるのが嫌で嫌でたまらず、すでに人前で歌うことすら、できなくなっていたという。

フォークの神様とは、すなわち当時の青年諸氏にとっては、「反体制運動の騎士」に他ならない。

完全に誤解が先走っていた。おそらく岡林さんにおかれては、オレは音楽をやっているだけだと、

叫びたかったに違いない。フォークが嫌になり、演歌ばかり聴いていたらしい。

演歌を求めればひばりに行き着くのは理の当然だ。

こうして、しばし「ひばり漬け」の日々が続いたという。

演歌を作ってみたりもした。それらの一つを美空ひばりさんに献上した。

1975年、二人は出合った。

ある日、岡林さんが、ひばりさんのレコーディングの場に臨んでいたらしい。

不思議なものを見て、岡林がひばりに問う。これなんですか?

ひばりの前にはマイクがあるだろう。そのマイクの前の壁に、大きな紙に、歌詞が大きく書かれ、

節ふしに、矢印が記されているのだという。

ひばりは、答えた。

わたしは、楽譜が読めないものだから・・・・と。

岡林が言う。

そうですか。わたしも楽譜なんか使いませんよ。楽譜なんかなくても歌はなんぼでも作れますよ・・・と。

すると、ひばりが、「ホント・・・」と言いながら、長身の岡林を見上げて、これ以上ないような可愛い顔で、

そう言ったらしい。

後年、岡林の回顧によれば、この一瞬に、二人は打ち解けた。

いかに、ひばりにとって、楽譜が読めないということが、大きな傷となっていたか。

考えても見よ。音楽の精髄を表現するに音符やら、楽譜は余計なものだろう。

いずれ楽譜は道具にしか過ぎないのだ。

やはり、半端な世間の風評に傷を負っていた岡林だからこそ、ひばりの傷を救い上げることができたとも言えるだろう。

わたしは、思うのだ。

ひばりは、楽譜を読めなかった、または読もうとしなかった。

だが、だからこそ、ひばりはひばりなのだと。

だからこそ、人々の心底に、その歌声が届いたのではないのかと。

ひばりは、なによりも日本語による日本の歌手なのである。

ひばりにとって、歌詞以上に付加されるべき音楽は、なにもなかったのである。

歌詞が、そのまま歌であり、音楽だったのだ。

楽譜や音符なんぞの中間物は、彼女の音楽にとっては生涯、不要だったのである。

もしかしたら、マイクとかレコードさえも不要だったのかもしれない。

歌うべき言葉と、目の前に、聞いてくれる人々がいれば、それだけで何の不足もなかったのである。

 

http://www.youtube.com/watch?v=Lt8gLpks3KU

 

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▼昭和の歌姫

2013年05月01日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

2013.04.29 ラジオ番組表

一昨日のことなりや。昼からずっと夜までFM放送を聞きっぱなしであった。

番組は美空ひばり特集とでもいうべきか、9時間にわたってひばりさんの唄と思い出話に明け暮れた。

美空ひばりさんは、戦後日本の幕開けと同時に、ラジオ、レコード、その他のマスメディアに登場してきた。

そして、それらを、ほとんど総なめにして昭和に末年に52歳の生涯を閉じていった。

話は変わるが、わたしは、芸術という形而上学的概念に、このところ多大な不審を感じている。

そこで、思うに、仮に百年後の、この日本の中に残されている、文藝作品やら歌謡作品は、いかがなものかなどと、

余計なおせっかいを、夢見たりする。

ひばりさんの場合も、男優スターの小林あきらと結婚し、すぐに別れたとか、暴力団の後ろ支えがあったとか、

母親の指図から生涯逃れられなかったとか、NHKと喧嘩して紅白には出られなかったとか、

いろいろと耳にしてきたが、そんな与太れ話は、どうでもよい。

百年後の芸能界、および学問、芸術は、いかようなるやとは、

人によって、ずいぶんと違ってくるとは思うのだが、

まず、啄木や晶子の短歌は残るだろうし賢治の童話も愛されるだろう。

もちろん源氏物語も平家物語も残るだろう。

漱石鴎外一葉の散文作品も、ますます愛されるに違いない。

同じように美空ひばりさんの歌声もまた、百年後の日本人の心を打って、あまりあるのではないだろうか。

ノーブル賞作家?

芥川賞?

アカデミー、レコード大賞?

ああ、そんな肩書きは、すべてこれ百年後には知る人ぞ知るだけで、ゴミ箱にすてられて甲斐もなしだ。

芸術を作るのは歴史と大衆である。市井に生きる名もない人々こそが心に残った作品を語り継ぎ、

まるで口移しのようにして歌い継ぎ、子どもへ孫へと連綿とつないでいくのである。

知識人?

芸術家?

そんな「出し物」は聞いたこともない。

断言するが、「知識」「芸術」「学問」などという高尚じみた、それら一切が、その場かぎりの、ろくでもない代物だ。10年と持ちやしない。

さて、美空ひばりさんが録音した楽曲は1500余りだと聞く。その中で、わたしがこれまでに耳にしたのは、せいぜい数十にすぎないのだが、その中でも永遠に残ると思われる・・・それもかなり私好みしか過ぎないのだがひばりさんが歌った名曲を十ばかり数えてみた。

悲しき口笛(1949年・・・12歳)
東京キッド(1950年)
私は街の子(1950年)
あの丘越えて(1951年)
お祭りマンボ(1952年)
リンゴ追分(1952年)
津軽のふるさと(1953年)
港町十三番地(1957年)
悲しき酒(1966年)
愛燦燦(1986年)
みだれ髪(1987年)
川の流れのように(1989年・・・52歳)

わたしは、ひばりさんをして「昭和の歌姫」と銘したが、今は平成の世である。それも四半世紀がすぎた。

そこで平成の歌姫は誰かと問われるならば、これはもう決まっている。

中島みゆきさんだ。

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▼聖フランシスコの祈り

2013年03月27日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

自筆をさらすなど、我ながら恥ずかしいかぎりに御座候や。

今日の産経新聞の曽野綾子さんのコラムより聖フランシスコの「祈り」なるものを筆写したまでのこと。

曽野さんは言う。聖フランシスコは12世紀の修道僧であったとのことなりけり。

フランシスコもまた、聞きしに勝る前世は、貧を極めて鈍に陥る寸前だった。

ある日、フランシスコに奇跡が訪れた。我、このままでは、いかんともしがたし・・・・等々。

聖フランシスコは、自分は「死ぬことのみよって」と「平和」と取引したのである。

ようするに覚悟を決めたと、不肖拙者には、そのように理解する以外にはないのである。

これが美でなくて、なんなのか。

今日のわたしの美学的趣向はフランシスコの祈りに収斂されて、やむこともない。

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▼年金で詩集を買ふ

2013年02月26日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

散歩途中の書店に入ってみると目の前に、新しい谷川俊太郎の詩集(「自選 谷川俊太郎詩集」 岩波文庫)が平台に積まれていたので迷うことなく購入した。巻末の年譜を見れば、にわかには信じられない気持ちだったが谷川さんも、いまや80歳とのことである。この人の詩は最初から子どもが作った詩のようで、しばし長じてもまた相変わらずで、二十歳そこそこの青年が作っているような趣きに、満たされていたが、そこにこそ谷川さんの詩作における重大な哲学があったことが、今になってよく分かるのである。

  

 

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▼年金で本を買ふ

2013年02月05日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

 

久しぶりに芥川賞を授賞した作品を読んでみたくなり、本を買った。芥川賞なんてのは、頭ごなしに、ただただくだらないと思ってきたまま、早数十年。だが今回ばかりは事情が異なっていた。なんと横書き作品だというのだ。それに授賞されたお方が、75歳になる女性だという。これが読まずにおれようか。さっそく、最寄の書店で購入し、本を開いてみると、第一行には次のようにあった。

aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと、会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが・・・・

こんな文章を読まされると、それだけで、なんだか、気持ちが、ぞくぞくとしてくるものだ。さて、こうなると拙者の場合、いつもそうなのだが、本を閉じてしまうのだ。よって今回のばあいも、仔細に読むのは明日あさって以降ということになる。最初のページから、ぞくぞくするほどの興奮が沸き起こってしまうと、その調子で読書はしずらい。まずは、この興奮を鎮めるために、とりあえずしばしの瞑想にひたらずにはおられないのだ。

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