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赤いハンカチ

批評だって芸術なのだ。そこに美がなくてはならなぬ。そろばんを弾くように書いた批評文なぞ、もう沢山だ・・・小林秀雄

▼ヴォーカル大好き<夢路より>

2018年04月14日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

2018.04.14 横浜市 この春最後のすみれなり

 

万歩計を見やれば本日はここまでで二万歩をかせぎて大満足の結果にて年金暮らしの年寄りが大汗かきかき散歩の後なにを思いこうじたのか突如何かがひらめき近場のカラオケ屋に入りてフォスター作曲の「夢路より」または「夢見る人」と邦訳された名曲をばひとしきりうなってきたしだいなり。ちなみに原題は「ビューティフル ドリーマー」であり個人的には「夢見る人」を採用したいところである。

 

 

 

 

さても心身ともどもに少々は疲れかつ満足し自室に帰りてみればフォスター調のラッパ小僧がむかえてくれたのであったのだった。

 

 

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<海ゆかば>

2018年04月10日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

2018.04.10 横浜市 はなみづき咲けり

 

 

 

 

 

 

 

開花したばかりのはなみづきの写真を撮りて後いきつけのカフェにて次なる新聞投稿を読みて興奮しさっそく近場のカラオケ屋に入りて当の歌をば復唱せん。


産経新聞

 

 

 

海ゆかば
 
詞:大伴家持(万葉集より)
曲:信時潔

 

 大君の辺にこそ死なめ かえりみはせじ・・・・・と続く

 

昭和12年、大東亜戦争を前にして信時潔がNHKの要請をうけて作曲したとの解説をみた。

 

 

 

 

 

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▼さようなら ドミトリー・ホロストフスキー

2018年02月06日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

昨夜から涙がとまらない。そのロシアのバリトン歌手をわたしが知ったのはたった八年前の動画サイトだった。なんという声楽家が出現してきたものかと驚いた。爾来、夢中になって彼の美声に酔ってきた。



昨夜のこと彼の動画をいろいろと開いていたら葬儀の場面がでてきて、これはなにかの冗談だろうと最初は本気にもできなかったのだが、その他の情報をみやってみれば、どうやら本当のことであるらしい。二年前に脳腫瘍が発覚し以後闘病していたことなども知らなかった。2017年11月死去。享年55。動画で知って動画で終わった次第なり今日のところはとりあえず悲しくて涙をぬぐふいとまもない。

 

 

 

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▼がんばれラミレス がんばれ松坂

2018年01月24日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 


2018.01.23 産経新聞

 

 

 


2018.01.24 産経新聞

 

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▼ヴォーカル大好き<美しい十代>

2017年10月20日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

最近、カラオケ屋さんに行くたびに好んで歌っているのが「美しい十代」である。この唄がラジオから流れてきたのは昭和38年。歌い手は昭和22年生の三田明さん。彼が十六歳の時だった。一つ年下のわたしは高校一年生だった。前年には舟木一夫さんが歌う「高校三年生」やら橋幸夫さんが歌う「潮来笠」が爆発的にヒットし世を席巻していた。そうなのだ当時オレたちは右も左もわからずのまぎれもない十代だった。

 

 

 

白い野ばらを ささげる僕に

君の瞳が あかるく笑う

いつも心に ふたりの胸に

夢を飾ろう きれいな夢を

美しい十代 ああ十代

抱いて生きよう 幸せの花

 

昭和38年 唄:三田明  作詞:宮川哲夫  作曲:吉田正

 

 

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▼ヴォーカル大好き<雨降りお月さん>

2017年09月25日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

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(朝日新聞)オンライン・・・・今年6月に上野動物園(東京都台東区)で生まれたジャイアントパンダの名前が、「香香(シャンシャン)」に決まったと、25日に伝わった中で、「パンダ銘柄」とされる中華レストランの東天紅株、西洋料理店の精養軒株が上昇している。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


株価景気の話はどうでもよいが新しいパンダの赤ちゃんにシャンシャンと名づけたるは実によい行政判断だ。まずはでかしたでかしたとすべき案件でこのたびこそは褒めてとらそうぞや。

そこでシャンシャンでただちに想起するのは大正十四年(1924)にて中山晋平作曲野口雨情作詞の「雨降りお月さん」の歌詞中にある次のくだりなり。


雨降りお月さん雲の蔭
お嫁にゆくときゃ誰とゆく
一人でからかささしてゆく
からかさないときゃ誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン鈴つけた
お馬にゆられてぬれてゆく

 

中華人民共和国におかれましてはシャンシャンとは香りのことであるそうだがわが国にとっては大昔から涼しき鈴の音の表音上の擬音なりけり。

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<下町の太陽>

2017年09月23日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

神保町のミニシアターの前をたまたま通りかかったら開演五分前とのことでとっさに飛び込んでしまった。演目はこれまでに何回となくみた1969年山田洋次監督の映画「男はつらいよ」だった。1969年といえばわたしが二十歳になったばかりの大昔、東京は下町の町工場で働いていた。館内はほぼ満席にちかくあいている席といえば最前列のなかほどの二三席だけだった。首を後ろに曲げてスクリーンを見上げるようにして一時間半の渥美清さんの純心物語のギャグとコントの集大成を見終わった時に内心に浮かんだ最初の感想はやはりこれは落語の世界だと改めて思った次第だが何度みてもよいものはよいのである。上映が終わり出口に向かう背中のほうで倍賞千恵子さんの歌う「下町の太陽」が鳴っていた。

 

下町の空にかがやく太陽は

喜びもかなしみも写すガラス窓

心のいたむその朝は

足音しみる橋の上

ああ太陽に呼びかける

 

 

 

 

 

 

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▼文字を相手にゲームする

2017年07月07日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

2009.07.25 記

昨夜は、友人のJazzLiveの日であった。19時からである。18時には山手線神田駅についてしまったので、時間をつぶそうと、近くの店に入り込み生ビールを注文した。

カウンターに漢字見本帳のような用紙が掲げてあった。女将に聞くと、先日、中高年のお客さんが持ち込んできたものであるという。よろしかったらゲーム感覚で、読めるものなら読んでみてくれと言う。

さっそく、その用紙を席まで持ってきて、ビールを飲みながら読んでみたのだが、いくつかの文字は読めなかった。悪戦苦闘していると、女将が見るに見かねたのか。ああ、用紙の裏に読み仮名がふってある回答集がありますよと言う。

わたしが読めなかったのは、挙って、扱く、逸る、恭しい、糾う、などの訓読みにして、なんと読むかの文字が多かった。なかでも「逸る」には、目からうろこが落ちる思いがした。

これは「はやる」と読む。例えば「血気にはやる」とか「気ばかりがはやる」などと使われる場合の「はやる」であり、その辞書的意味は、心が先にたってあせる。または勇み立つことである。

となれば「流行」は「流行(はや)る」と読んで異存はないのだろうが、「逸る」こそ「流行(はや)る」の元の形なのであり「逸る」を現代風に言い換えた当て字に相違ない。さらに「はや」には、「早い」という言葉があり、これこそ見逃せない一語である。「早い」こそ、「逸る」に先行する語源のような気がするのである。流行(はやり)とは「早さ」こそが、その本意のひとつであり、重要な意味の側面である。

では「早」の意味は、どうなっているのかを考えてみた。そこで、手元にある国語辞書から「早」から始まる熟語を見つけ出し並べてみた。早計 早婚 早教育 早熟 早年 早世 早退 早々・・・などである。いずれも、まだまだ成り立ち行かない未熟な半端者という意が内包されている。このように「早い」ことは、何の自慢にもならなかったのである。むしろ否定的な言葉なのである。

さすれば「流行」もまた「早い」を含意しているとするなら、その意味は、推して知るべしということになる。「早さ」の伴わない「流行」はないのだろう。いちいち熟慮してては「流行」にはなり得ない。ようするに「流行(りゅうこう)」とは心ばかりが先走り、早く早くと「勇み立って」いる浅はかで未熟な心理的有様が世間に広まっていくのことなのだと解してみた。さらに「流」について考えてみたのだが、これまたずいぶんと趣のある意を体現させられた文字のようで、かならずしも好感を持って、読まれているばかりではないようだ。

ここでは思いついただけの熟語を挙げてみるのだが「流」の意は多くの場合、「流される」という悲しい別離の記憶からはじまって「流れ者」「流人」「流罪」「流刑」「流浪」「流転」「流説」「流産」「質流れ」等々、受動的で淋しい事象を形容している。

 

 

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▼ヴォーカル大好き<雨降りお月さん>

2017年06月22日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

 

2017.05.29 横浜市 

 

 

 

> おい、かもめ。おめさんの夜勤バイトの時給って3000円くらいが??

それがよく分からないのだよ。仔細はおれを雇っている八丁堀の親分に聞いてみてくれ。雇用契約書には在る時払いの催促なしと書かれている。また65歳以上の被雇用者には古物半値の五割引と特記されている。で、その文意がよく分からずに口角泡を飛ばして親分に問いただしてみたのだがよするにそれは被雇用者おのおの方の解釈しだいでどうにでもなるとのことだった。元来おれはカネには執着しない性格で云われたとおりに一所懸命に働くタイプだからにゃ。それが親分に可愛がられている所以なりと忘年会の二次会ですっかりのんだくれた先輩が一緒に便所に行った帰りにおれのハゲ頭をなでてくれた。


> おい、かもめ。ふんなら余裕でカラオケスナックにいげるべや!!(爆)

カラオケスナックというものは最近は大嫌いになった。だいたい一部屋しかない。舞台なんぞをしつらえてゴテゴテと仰山に飾り立てているものだから昭和時代からのなじみの年寄りたちの常連客の一団しか出入りしていないようだよ。何度か入ったのだが次は何の歌を歌いますかといちいちママさんが聞いてくる。これがうるさい。こっちが一曲歌い終わるたびに心にもないお世辞を言ってくる。お上手ですねぇ~と。これが気持ち悪い。声楽と音楽の王道には決してふさわしくないと気がつき以後カラオケスナックには入らないことにしたのであったのだった。

そこにいくと、カラオケボックスは、一人きりで自由だ。歌おうと歌うまいと、マイクを使用しようと、すまいと歌わずに新聞を読んで過ごそうと勝手だ。昼間なら時給300円というところだな。夜勤ともなれば、倍の時給が課せられる。おれも最近は年をとりなにかと衰えてきた、それで他にやることもなく連日のようにカラオケボックスに通っているのだが楽器の練習をするためにカラオケボックスを使っている若者がきているね。

以前から何度かみかけた高校生らしい娘さんは今日もまたバイオリンケースをかついで受付にいたし、別のある男性はフルートを持ち込んでいた。アコースティックギターはもちろん何度もみかけたしエレキギターはないだろうと思っていたが、これも見たことがある。その他、オーボエ、ホルンなども見た。これは歌といえば演歌とのど自慢大会ぐらいしか思いつかないような旧態依然たる厚化粧のスナックママの音楽観では決しておっつくことのできないカラオケの最新事情なりけりよっと。

 

> ばかもめカラオケ店を破壊 逮捕の報

さすがに逮捕まではいかないが、この間のカラオケ店との交情を通して拙者の場合だいぶおかしなカラオケおじさんであることは店員諸君にも周知されてきたらしい。まっ、それらいろいろあるなかでいろいろとありはありながらいずれカラオケ店員の主観的範囲なのであり、こちとら店内ルールを守っている以上なんの文句もつけられないことはゆめゆめ承知の介なり。

ふんで今日は、いつものように30人収容のパーティー・ルームを所望した。あいていさえすれば貸してくれるのが当店の良心だ。店員が云ふ。今日は日曜日のことですし、この後込み合ってきますから、あなた様にお貸しできるのは、一時間だけですと宣言せり。もとより承知一時間あれば十曲は歌える。

この部屋は和室仕立てだからソファやらその他ふわふわした物がなく自分の声が生の反響に生まれ変わり耳にも心地よくマイクなしでも声がよく聞き取れてそれが音楽的自己満足をいっそうに誘ってくれる。当ボックスが空いてなければ「あっそうですか」と帰る算段。ふんで今日拙者が歌うたカラオケ歌曲は以下の九曲なり。

 


●雨降りお月さん

●湖畔の宿

●雨のブルース

●別れのブルース

●マロニエの木陰

●勘太郎月夜唄

●街のサンドイッチマン

●サンタルチア

●ともしび

 

 

だいたい、歌謡曲というものは、同じ曲想で三番までの歌詞がそろえられている。思うに物覚えがわるい拙者のばあい。なかなか歌詞を空では覚えられないのである。

現在までのところ、三番まで空で覚えた歌とはいってもほんの数曲のことなれば、とくに気に入って空でごくごく最近覚えた歌が大正14年、作曲:中山晋平 作詞:野口雨情の「雨降りお月さん」である。当歌は二番までしかない。それが記憶に奏功したのかもしれないが、なんと、当歌は一番と二番のメロディーが異なっているのであったのだった。あせ あせ。それにしても名曲である。詞にも曲にも哀歓とユーモアが満ち溢れている。

 

雨降りお月さん 雲の陰

お嫁に行くときゃ 誰といく

一人でからかささして行く

からかさないときゃ 誰といく

シャラシャラシャンシャン 鈴つけた

お馬にゆられて ぬれてゆく

 

いそがにゃ お馬よ 夜が明けよ

手綱のしたから ちょいと見やりゃ

お袖でお顔をかくしてる

お袖はぬれても干しゃ乾く

雨降りお月さん 雲の陰

お馬にゆられて ぬれてゆく

 

 

 

 

 

 2017.06.07 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼『安部公房とわたし』 山口果林

2017年06月14日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

果林とは芸名で彼女の本名はごくごく平凡な山口静江であり、最初の舞台に上がるにあたって当時男と女として付き合っていた20歳年上の小説家安部公房が彼女に「果林」という名を与えたもうた。NHKTVでの朝の連続ドラマ「繭子ひとり」に抜擢され、彼女の名は全国に知れわたるところとなる。

思い出すに1971年のことだった。三島由紀夫事件の次の年である。果林さんは24歳。わたしは23歳。東京は下町の共産党支部に所属し半狂乱状態で赤旗配りにまい進していた。だが、わたしのことはどうでもよい。そのわたしにとっても当時から果林という名とともに、なんともいえない愛くるしい表情と、その演技が強く印象に残っていた。それにしてもと思うのだが、どうもわたしの話は年代やら年齢やらの話ばかりに終始してしまう。ようするに、わたしが言いたいことは「繭子ひとり」から、早40年余りが経ってしまっていたという感慨に他ならない。

だが、せめて感傷しているつもりはない。40年という月日を、ある個人の中に精神と肉体をもって日々がしびれるように経てきたことは、誰にとってもゆめゆめ無下には出来ないことだ。あまた時間が過ぎ去る中にとどめておかねばならない痛切な歴史的回顧が読者おのおのの胸中に悩ましく去来してくるだろう。さて今年が終われば果林さんは66歳になる。わたしは65歳だ。墓を作るより本を作れとはこのことだ。老いて二葉亭四迷は当面まっぴらごめんなすってと本を閉じつつ拳を固めた。

 

 <2013.10,21 記>

 

 

 

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<生まれかわって天竜の水に>

2017年05月01日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

2016.11.26

 

 

ここ数日というもの「東京大衆歌謡楽団」の動画に夢中なのである。

https://www.youtube.com/watch?v=_smJ9m57bRw

当動画は、四年前のことである。このとき、彼らは最高の芸能団であったに違いなかった。だがその後、ご多聞にもれず当楽団は「有名」となり、やれCDを出しました、やれラジオテレビに出ていますと大手メディアに引っ張りだこになってしまった。そうなると必然のことながらエレキによるマイクを強制され電気拡声器を使い出す。こうして無残にもせっかくつかまえた「芸能」の本質から、どんどんと遠ざかっていってしまうのではないかと案ぜられる次第。 

ちなみに、タイトルの「生まれ変わって天竜の水に」とは、股旅物の流行歌『勘太郎月夜唄』の二番にある歌詞の文句なり。

 

形(なり)はやくざにやつれていても

月よ見てくれ心の錦

生まれ変わって天竜の水に

写す男の晴れ姿

 

 

 

2017.04.10 葛飾区

 

 

  2017.04.15 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼さようならペギーさん

2017年04月14日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

ペギー葉山さんが亡くなられたことを昨夜のラジオで知った。1959年わたしが小学5年生から次の年にかけて彼女が歌う「南国土佐を後にして」が連日ラジオから流れていた。はや半世紀以上も前のことである。土佐とはどこなのかも竜馬のことも何も知らずに北関東の赤土にまみれて遊びほうけていた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=sMrd02ncmOY

 

 

 

 

 

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▼著作権についての知人の意見

2017年02月06日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

某掲示板において、私の知人がつぎのような俗論を述べていたので一言二言反論しておく。

市場性のないものに著作権はないのでは。いうまでもなく、市場性の有無とは、内容についての評価とはまったく別だが。で、市場性のある新聞や雑誌記事などの「著作」は、先方の許可がない限り、転載はもちろん引用も著作権侵害にあたる。でもまあ、いちいち目くじら立ててもきりがないので放置されているのが現状。

で、その逆の場合はどうか。市場性のある著作を掲載するメディアの側が、市場性のない個人のブログや掲示板の発言をパクるという事例、これも多いと思う。パクられたほうはたいてい気づかないから問題以前だが。やはり、目くじら立てようとしても、パクりと剽窃と取材のラインは不明確だし、また、コピペこそネットの利便性の最たるもの、著作権フリーこそネットの本質という認識の共有が双方にあるから、一方的な被害加害の関係は成り立ちにくい。では、市場性のない著作同士の場合はどうか。

以前に、ネット著作権の団体が、小中学校で著作権の啓蒙教室を開いているのを見学したことがあったが、講師は、「あなたたちが美術の時間に描いた絵にもやはり著作権があります」といっていた。だから、ニンテンドーやソニーエンターテイメントやパラマウントピクチャーが製作する商品の著作権を守りましょう、という筋立てだった。子どもの落書き絵とハリウッド映画のDVDソフトの交換価値をイコールで結ぶのはやっぱり変だ。

子どもの落書き絵同士の場合は、その交換価値ではほぼイコールといえるが、だからといって黙って自分のHPに貼り付けるのは、やっぱり変だ。市場価値のないもの同士の場合、やっぱり権利ではなく、マナーの問題だろう。

 



てめぇでてめぇの発想が「変」だと思うのはてめぇの思想がそもそも「業界向き」だからですよ。知人の言う市場性は換言すれば「業界」に他ならない。業界とはその種別にかかわらず人間の個別存在に比べればとってつけたような矮小な存在だ。市場といえばなにやら開放的に聞こえるが、その内実は逆だ。

種別ごとの職人や専門家が名誉を守りつつ多少なりとも一般大衆に向かって自己の名誉が保全され欺瞞や偽善なしに多少なりとも威張っていられる世界のことだ。それが市民と市場を産みだす。

歴史的に言えば「業界」も「市場」もいわゆるバブルに過ぎない。短い時間的経緯のうえで浮かんだり消えたりしている集団組織の総称だ。子どもの絵に比してハリウッド映画のほうが高位にあるべきだという知人の主張もすなわち古来よりよく耳にするプロ・アマ論争に毛の生えた程度のもので、それだけでは、なんら思想的歴史的論議のひだには入り込めない皮相的な俗論のままなのである。ようするに知人の主張は知人が所属するあるかなしかの業界の保身思想の願望にすぎない。

自分の食い扶持と名誉の保全である。愛社精神とでもいっておけば分かりやすいだろう。このように人々は自分が属している企業、業界から離れて自由な発想はできないものである。著作権をめぐる話の多くが残念ながら、当人の食い扶持として実現されるべき現状の社会的立場や容認された労働能力を擁護しておきたい願望を、さらに訴えている自己保身と自己正当化の域を出ることはない。

近代主義に洗脳された矮小なイデオロギーがおのおのの論者に取り付いているのだけなのである。ハリウッドなどというものこそ映画で飯を食っている業界そのものだ。最大手であるのは、その通りなのだろうが最大手であろうと弱小企業であろうと、その歴史たるやたかだか数十年の存在価値だ。おっつけ跡形もなく消え去るだろう。考えておくべきはハリウッドの業界的盛衰と映画の本義は関係ない。映画そのものと映画の市場性はまったく無関係だ。

売れた本はくだらない本が多いとは周知に事実ではないか。まして品物が売れたか売れないかで人個人に宿る精神の真価が計れるだろうか。レコード業界では名曲に名演奏なしという逆説こそ常識となっている。

出版社はつぶれても漱石の作品は消えることはないだろう。ネットからホームページや掲示板が消滅してもネットの奥義が消えることはないだろう。電子メールがなくなっても、この世から手紙のやりとりはなくならないだろう。コンピュータがなくなっても人は文章を書くことをやめないだろう。大人たちはすっかり歌を歌わなくなっても、子どもたちは歌うことを決してやめないのである。

知人の言う「市場価値」といい「マナーの問題」といい記号的言語的人間存在に比してみれば非常に矮小化された、自分好みの概念化にすぎない。そのような特定集団の既得権すなわち食い扶持をめぐる、とってつけたような、こじんまりとした概念は、たちどころに蹴散らされてしまうのは、なによりも歴史が教えてくれている。いつの時代も新商品など、吹けば飛ぶようなものである。

比して近代を透徹して生き延びてきた「伝統」の力はあなどれない。どれほど多くのものが無自覚の現代のわれわれの心の中に通流しているか。だが伝統といい著作権といい知らなければ知らないままで死していく厳然たる幸福もあるという壮大にして広大なヒト科における生活の現実があることをもまたよくよくわきまえておきたまえ。



 

<2007.08.15記>

 

 

 

 

 

 

 

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▼小林秀雄と中野重治

2016年09月17日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

 

昭和58年3月に小林が逝って、直後に刊行された「新潮」小林秀雄追悼記念号に寄せられた山本健吉氏の文を見て目からうろこが落ちる思いがした。

タイトルは「中野重治と小林秀雄」とあって副題に「あるいは、一つの運命」とある。近代文学派の評論家として活躍されてきた平野謙氏の告別式のときのことである。平野謙が亡くなったのは1978年である。

この告別式で弔辞を読むのが中野と山本氏の役割だった。二人は式場の最前列に座っていた。山本氏も中野も、式が終わるまで気がつかなったらしいのだが、彼ら二人の後ろ二列目に小林秀雄が参列していたのである。

式が終わり、中野と山本氏が席をたった。すると後ろの席にいた小林が中野に対して「いかにも久潤を叙するかのように、にこやかな笑みを浮かべて挨拶をした」という。小林の表情は懐かしさにあふれ「今にもやさしい言葉をかけたそう」だった。

中野は突然のことに驚いたのか、「ぎこちな」かった。中野は「何かぼんやりとした表情で、むしろ相手の誘いを拒むような感じを見せて、ゆっくりと顔をそむけてしまった」のである。

山本氏は、突然の二人の出会いを「固唾を呑む思いで見ていた。あたりの空気が一瞬凝固し、異常な気配をはらんだような感じにうたれた。写真家がよく口にする決定的瞬間という言葉を思い浮かべた」と書いている。

中野は、戦後すぐの1947年の参議院選挙に共産党から出馬して当選し、50年までの3年間国会議員を務めた。47年のある日、小林と中野が偶然に神田のバーで出会ってしまったときのエピソードが求龍堂社長の石原龍一氏によって記録されている(「レクイエム 小林秀雄」)。

石原氏が小林や青山二郎などに同行して飲んでいるとき、店に中野重治が入ってきた。偶然のことだった。中野の姿をみると小林は、「例の調子で、なぜおまえさんは参議議員なんてバカなものに立候補したんだ」とかみついた。

石原氏の言う「例の調子」とは飲むとからなず誰彼となく絡み始める小林の酒癖の悪さのことである。二言三言の応酬があったと思ったら、いきなり中野が小林の横っ面を「思いきりぶん殴った」。石原氏は、「天下の小林秀雄に何をするか!」と怒鳴って中野を殴ろうとしたら、青山二郎がニヤニヤしながら制止してきた。小林の顔は、もう赤くはれあがっていた。頬をなでながら中野にむかって言った。

「バカ、お前はそそっかしくていけない。人の話は最後まで聞くもんだ。見ろ、おれの顔がこんなになっちゃったじゃないか。君のように、詩人としてこれほどすぐれた才能を持った人間が、どうして政治家になろうとするのか。詩人中野重治を失うことが日本の文学にとってどれほど痛手になるか」とじゅんじゅんと話はじめた。しばらくすると中野は「小林、おれが悪かった」と、小林の手を握って泣いていた、とのことである。

おそらく、このとき以来、平野謙の告別式までの30年あまり二人は会う機会に恵まれなかった。そして、小林が予言したとおり、以後の中野は静かに詩作を練るという生活からは、ほど遠くなるばかりだった。文学にとって善いか悪いかは別にしても、政治と文学を一体のものとしてみる主義を自認したのは、なにより中野本人の終生かわらぬ主題であった。実際、死ぬまで党内闘争や政治的現場から足を洗うことができなかった。中野重治が没したのは、この平野謙の告別式の次の年だった。小林も中野も明治35年生まれの同年なのである。 

<2008.09.08 記>

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▼良書紹介 『小林秀雄』 

2016年08月05日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

前田英樹という人が書いた「小林秀雄」という本を図書館で借りて読んでみた。奥付を見ると、著者は50歳台半ばの方で、現在は、どこかの大学文学部の教授をなされているとあった。すでに自著も何冊も出されているらしく文章は手馴れたものである。小林秀雄論としても、新しい切り口からの鋭い批評もあって、彼が提出してくる理論や説得力をうべなう論理には十分に感心したし、納得もできたのである。本に対して私の方からの異論などは全然思いも浮かばなかった。全体、小林秀雄を絶賛している論評に満ちているのだが、われながら腑に落ちない感触が残った。そこで考えてみたところ、なによりも、前田氏の文章は、理屈っぽくてならない。学者の文章なのである。

小林の批評が取り出して見せる質の差異は、分割される作品=回答に対して潜在的なものであるが、この潜在的な何ものかは、作品をその決定的な回答たらしめている実在する問いの力によって、小林が行う質的分割のなかにはっきりと顕れてくる。このような分割をとおして示される質の差異は、分割される以前には、決して誰も直面することのないもの、経験することのできないものである。

かような文体というものは、最近の流行なのか。前田氏の本ばかりではなく、よく目にするところである。たとえば柄谷行人氏の著書などもその類だ。まるで実験の成功を伝える物理学の論文のようではないか。もちろん荒唐無稽と言っては、叱られるだろうし、無学なわたしでも前段から丹念に読んでくれば、上記の文意も、理解できなくはないのである。私が言いたいのは、理解の有無の問題ではない。単純に分かりやすい文章を書けと言ったところで、読んでしまってからでは文句もつけられまい。

大きなことを言うようだが、私が言いたいのは簡単なことだ。著者の思考と、その現われとしての文章が、そもそも「文学」として成立しているかのどうかという問題である。もちろん、読者の好悪に属する感情的問題かも知れない。いや・・・それでよいのだ。感情を抜きに文学は語れまい。前田氏の感覚と感情が、理屈の後ろに隠れてしまっていることを案じているのである。前田氏の方法は、理屈を掲げ、理論を第一義のものとして、小林秀雄の文学的業績に賛辞を連ねている。

もちろん、評論文など誰がどのように書こうと書くまいと、知ったことではないのだが、そうした書き様は、皮肉なことに、ほかならぬ小林秀雄こそ最も嫌った類の文章だった。理屈や概念は分析的思考からおのずと生まれる。分析は常に人の認識を刺激する方法論上の常套だが、分析によって得た概念をそのまま文章に起こしても、それを持って文学とはいい得ない。理屈と文芸は、似て非なるものである。わたしはそれが言いたいのだ。

<2008.09.08 記>

 

 

 

 

 

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