世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

博物館の庭園には上野駅周辺の喧騒を忘れるような茶室が5つも建っています

2017-03-12 08:00:00 | 日本の町並み
 山形の専称寺には最上氏の娘で豊臣秀次の側室になる寸前に秀吉に処刑をされた悲劇の姫君である駒姫の墓がありました。わずかに15歳という幼い命だったようです。秀吉という、権力者の気まぐれで、本人はおろか眷属まで抹殺されてしまった、恐ろしい話です。権力というのは、集中するべきではないのですが、どうも日本人は、水戸黄門をはじめ権力者を英雄視して好む傾向があり怖いです。
 秀次を初め抹殺された人々の遺骸は、一つの穴に放り込まれ首塚が作られました。その後、鴨川の洪水で流されましたが、河川改修をした角倉了以により、瑞泉寺が興され供養塔が再建されました。この角倉了以の没後に入れ違いのように、淀川の改修などで富を得たのが河村瑞賢です。この河村瑞賢が、淀川改修の折に休憩所として建てた建物が、茶室として東京国立博物館の庭園に残されています。今回は、前振りが長くなりましたが、博物館の庭園にある5つの茶室を紹介します。

 博物館の庭園は、江戸時代に当地にあった寛永寺本坊の庭園の名残で、本館の裏側に広がっています。江戸時代に創建され、明治から昭和にかけて、こちらに移築された2つの書院茶室と3つの草庵茶室が木立の中に建っています。

 
 これらの茶室の最も東寄りにあるのが、河村瑞賢が休憩所として建て、昭和になって茶室として生まれ変わった春草廬です。元来が休憩所なので、茶室としての決まり事の躙り口や天井に変化を持たせるなどの建物ではありません。この建物は、三渓園を作った原三渓が購入したのち、茶の湯仲間の電力王の松永耳庵に贈られ、所沢の別荘に茶室として移築されたものです。後になって耳庵が小田原に引っ越した時に博物館に寄贈されたものです。この、春草廬の後方には桜の木があって、開花の頃には建物に覆いかぶさるように咲く桜は見事です。

 
 春草廬の西にあって、博物館のテラスから池越しに見える目立った茶室は、転合庵です。この茶室は、江戸時代の初期に小堀遠州が自邸に建てたものですが、これには日本文化を象徴するような逸話が残されています。ある日、遠州は桂離宮を作った八条の宮から一つの茶入れをプレゼントされます。このプレゼントを大変喜んだ遠州は、握りこぶし程度の小さな茶入れ一つのお披露目のためだけに、わざわざこの転合庵を建てたと言われています。小さな茶器が領土やお金と同じくらいの勝ちを持つことがあるという文化の片りんを感じさせる逸話です。

  さらに西に、木立の中に建っているのは、博物館が上野に来る前に移築された六窓庵です。江戸時代の初期に行為服地の塔頭の慈眼院に、金森宗和の好みで建てられました。利休の頃には内部が暗い茶室が好まれましたが、江戸時代になると明るい茶室が多くなり、この茶室も窓が六つあって、明るいだけでなく、時の移ろい、季節の移ろいを感じ取れる茶室になっています。この六草案は茶室の建物だけでなく、寄り付き、腰掛待合、雪隠など草案茶室として必要な道具立てがそろっています。

 
 残りは書院茶室で、2棟のうち東に建っているのが応挙館です。江戸時代に名古屋市郊外の明眼院の書院として建てられ、内部は典型的な勝因づくりになっています。この明眼院は江戸期には眼病治療を行うお寺として、全国から患者が押し掛けたようで、日本画家の応挙もその一人でした。その縁で、この書院の中には、応挙の筆になる襖絵や床の間を飾る絵が描かれています。明治期になって、お寺での治療行為が禁止され、寺は寂れ、この書院は当時の三井の総帥の益田鈍翁に買い取られ品川に移設、応挙館の名前で茶室に転用されました。応挙館の前庭には、江戸時代には眼病治療に使われたというメグスリノキも植えられています。

 
 最後の茶室は、九条館という、江戸時代後期に京都御所内に建てられた書院でした。建てたのは、藤原氏北家の流れをくむ九条家で、代々摂政、関白職を輩出してきた貴族です。明治になって天皇とともに、東京の赤坂に引っ越し、この建物もアークヒルズ近くの九条家の居所として使われたのち博物館に寄贈されました。建物の内部には、藤原氏を象徴する藤の花をモティーフとする釘隠しや欄間などがちりばめられています。

 応挙館の襖絵は、コンピュータによる高精細ディジタルスキャンを使った複製がはめ込まれています。原本は保存のために収蔵庫に保管をされています。気温や湿度、さらには来訪者が触る事故などを考えれば、後世に文化財を伝えるためには、一つの選択肢かもしれません。また、複製は注意深く作られているので、部屋の雰囲気を変えてしまうということもありません。一方、最近驚いたのは、有名な寺院の三重塔の解体修理です。建っている地盤が弱いのでコンクリート・スラブで基礎を補強するとのこと。現在わかっている技術で、解体前の塔を構成する技術の解析はできるでしょうが、現在では解析不可能な部分は失われます。本物が消滅してしまうからです。先ほどの複製では、本物は残っているので、後の時代の技術で解析は可能なはずです。先代の漫談和尚の伝統でしょうか、文化財の保存と言いながら、実は重要な情報を消し去ってるような気がします。