世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

長崎の蘭文化は江戸時代というより明治以降の西洋文化の名残が強いようです

2017-02-12 08:00:00 | 日本の町並み
 長崎の和華蘭の3回目で今回は蘭ですが、英や葡などもありのようです。長崎の蘭というと出島を思い浮かべますが、出島に最初に来たいたのはオランダ人ではなくポルトガル人だったのです。キリスト教の禁教令によりポルトガル人はオランダ人にとって代わることになります。しかし、オランダだってキリスト教国で、「我が国はキリスト教とは関係ありません」とはよく言えたもので、オランダ人の欺瞞性を感じます。出島は明治時代に周りを埋め立てられて島ではなくなってしまいましたが、1996年から復元事業が開始されています。かつてのオランダ商館の建物の復元だけでなく、周辺を堀で囲んで島の輪郭を復元するのだそうです。

 
 
 蘭が名前に現れているところがオランダ坂ですが、このオランダ坂なるものは山手の居留地に通ずる坂の名前として沢山あるようです。江戸時代の名残で明治以降の居留地に出入りする西洋人をすべてオランダさんと呼んでいたようで、そのオランダさんが通る坂という意味です。ただ、観光客に有名なオランダ坂は活水女子大に通じる坂で、その先には東山手の洋館群があります。この場所は重伝建地区になっていて、番号の着いた居留地の名残の洋館が坂にへばりつくように建っています。神戸でもそうですが、異人館は坂の上に建っているんです、眺めは良かったでしょうが、外出は大変だったのでは。ただ、これらの外人たちは歩くのではなく人力車かなんかに乗ってたんでしょうね。

 
 オランダはキリスト教とは関係ないといった、そのキリスト教関連の建物が多いのも長崎です。教会建築で唯一の国宝の大浦天主堂は、江戸時代に建てられたものを明治に改築したもの。現在の天主堂は、外壁にレンガを積んだゴシック様式ですが、当初のものは3本の塔を持つバロック風で写真を見ると随分とイメージが違います。大浦天主堂は途中までの道にも風情があり、長崎の町を見下ろすマリア像がアクセントになっているように思います。

 
 一方、大浦天主堂に負けない天主堂をということで建てられた浦上天主堂ですが、明治期の建物は原爆で全壊、現在の建物は1959年の再建のものです。浦上天主堂とやや遅れて建てられたのが長崎駅近くにある中町教会で、浦上の外壁がレンガ色に対して中町は真っ白です。こちらの協会も原爆で塔や外壁を残して被災し、1952年に復元されたものです。

 
 原爆の悲劇の前にはキリシタン弾圧の悲劇があったわけですが、秀吉に処刑されたキリスト教徒の殉教碑、記念館そして記念聖堂が並んでいます。記念館の横の壁には「長崎への道」と題したフレスコ、モザイク壁画が描かれていて、ガウディ風の塔を持つのが記念聖堂です。



 
 長崎に入ってきたのはキリスト教だけではなく、オランダからではなくイギリス人のグラバーがビールも持ち込みました。長崎の一大観光地となっているグラバー園の中でも最も人気があるのがグラバー邸で、筆者が修学旅行で訪れた頃に公開されていたのはグラバー邸だけでした。このグラバー邸はライトアップされた姿も綺麗で、邸内から眺める長崎の夜景も格別です。ただ、グラバー個人については死の商人のイメージが強く、好きではありません。

 日本人にとって江戸時代には最先端の技術はオランダのもので蘭学の言葉に如実に表れています。ところが、世界史、特に化学技術史を見てみるとオランダってほとんど出てこない、ドイツ、イギリス、イタリア、フランスなど、コペルニクスだってポーランド人です。シーボルトはドイツ人、オランダ人は単に商才に長けていただけのように思います。現在のオランダも農業、特に花の国でITとは縁が無さそうですが、花の生育に欠かせない温度や肥料の管理には高度なコンピュータ技術が使われているそうです。日本企業の支援だそうで、技術の流れは逆転したようです。