世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

古代ロマンの山之辺の道は古墳、寺、神社、環濠集落だけでなく伸びやかな風景も広がります

2014-02-02 08:00:00 | 日本の町並み
 大国主命を祭る出雲大社は、昔は現在の2倍もの高さの社殿がそびえていたとのことですが、その大国主命から国譲を受けたのが大和朝廷です。権力闘争によって、大和朝廷が勝利したことを表すものと言われていますが、その大和朝廷のあった大和盆地の東縁を南北に貫くのが山之辺の道です。出雲地域と同様に古代のロマンあふれる散歩道です。古墳や神社やお寺が次々と現れ、その中に環濠集落もあったりで、なかなか楽しい道ですが、今回は石上神社から崇神天皇陵までの北半分を紹介します。

 山之辺の道は、北は天理市から南の桜井市までを結ぶ15kmほどの南北の道です。道は、大和盆地が東の山塊にぶつかる麓を、等高線に沿ってうねうねと曲がりくねって伸びています。北は天理駅の東にある石上神社が起点で、南の起点は桜井駅の北東にある海石榴市(つばいち)になります。海石榴市から北に進むと、金谷の石仏や三輪山が祭神となっていて神殿の無い大神神社などがありますが、50年ほども昔に訪れたので記録が残っていません。

 
 今回は、街道のほぼ中間地点のJR柳本駅を出発し東に向かって山にぶつかる手前で街道に合流します。合流の手前にあるのが黒塚古墳で、3世紀末頃の前方後円墳です。三角縁神獣鏡などが出土し、隣接する黒塚古墳展示館には、三角縁神獣鏡などの出土品のレプリカや石室の模型が展示されています。古墳は公園になっていて、頂上まで登ることができ、西に伸びる大和盆地が眺められます。戦国時代にはこの丘に城が築かれたそうで、古墳の環濠は、お城の堀に転用できて好都合だったのでしょうか。

 
 黒塚古墳を東に進み、山之辺の道に突き当たる所に240mあまりの巨大な崇神天皇陵があります。崇神天皇は大和朝廷の創始者とされる天皇で、そのせいか陵墓の巨大で立派です。天皇陵ゆえに、正面には鳥居が立ち、広い環濠と柵があって、黒塚古墳のようには立ち入ることはできません。

  
 北に道をとって最初に現れるのが長岳寺で、楼門などが重文に指定されている9世紀に空海によって創建されたお寺です。本堂の前の放生池野周りには既設の花々も多く、花の寺としても知られますが、期間限定で本堂で公開される大地獄絵が迫力満点です。

 
 
 さらに北に歩むと、小さな環濠集落があり、これを通り過ぎると大和神社末社の歯定神社があります。境内には歯を思わせる3つの石に注連縄が張られていて、歯医者さんの神様だとか。

 


 ここから2つの比較的大きな環濠集落までの道は起伏があって、古墳や果樹園が現れ、伸びやかな道が続きます。環濠集落は、周辺に堀をめぐらせて外敵の侵入を防いだ集落のことで、大和盆地には、かなりの数の遺構が残っています。山之辺の道沿いの2つの環濠は、南が萱生集落、北側が竹之内集落です。環濠は一部が残されているのみで、溜池のように見えますが、そばに建つ家が、環濠の上にせり出して池の中に建っているように見えるという共通性が面白い風景でした。環濠集落を通り過ぎて、相変わらずうねうねと曲がる道をたどると、北の起点の石上神社の重文の楼門に到着します。

 古代のロマンをロマンだけに留めず、現実の姿として解析するのが考古学ですが、この分野でもIT技術が活躍します。文献など二よる検証は、後の権力によって改竄されたりすることも多く、物理特性などを利用するIT手法は客観的な情報を提供できるのではないでしょうか。一方、IT技術の考古学のようなものも存在するかもしれません。ディジタル技術で記録した情報は、劣化しないので未来永劫残ると考えがちですが、どっこいそう簡単ではありません。まずは、ディジタルの規格が変わってしまう可能性が高いのです。テレビやヴィデオに見られるように規格は簡単に変えられてしまいます。さらに、技術の背景を知る人がいなくなって、目的の情報を取り出す方法が判らなくなったり、情報の存在そのものが忘れれたりします。こんな現象を防止することがITの考古学かもしれません。