世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

個性の無い町のように言われている中野区ですが、興味を引く物が点在しています

2009-10-04 08:00:00 | 日本の町並み
 明治維新の頃に県庁が置かれたのは信州中野(中野市)でしたが、行政の単位が区でありながら市である信州中野より有名なのが23区の一つの中野区ではないでしょうか。面白いことに、中野区にも「しんしゅう」が存在していて、JR中野駅と西武線野方駅の中間辺りに「しんしゅう一味噌」の本社があります。

ただし、こちらは信州ではなく神州の表記ですが。今回は、北西から南東に長く伸びる中野区のJR中野駅周辺を中心に紹介します。

 中野区は23区の中では西よりのいわゆる山の手に位置し、個性の少ない区の一つと言われています。ドラマや小説で、目立たない存在の人物仕立てにしたい場合には中野や杉並に住んでいることにするのだそうです。江戸時代の中野は、綱吉の作った犬小屋があったところで、町名の整理の前には「囲い町」という地名があったようです。

犬を囲ったところとのことですが、現在も「囲い町公園」の名称が残っています。ちなみに、JR中野駅の西南の地域は桃園町といったそうで、由緒や香りの高い地名が中野xx丁目という味気ない地名になってしまっています。地名というのは、歴史をしょっていることが多く、単に解りやすくて合理的というだけで、それまでの歴史を無視したような地名に置き換えてもいいのでしょうかね。

 中野と聞くと、陸軍中野学校を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれませんが、その跡地は警察学校となり、さらにその警察学校も無くなり再開発が進んでいます。再開発地区の駅寄りには、現在の中野のシンボル的存在となった真っ白の中野サンプラザと真っ黒のdocomoビルが面白いコントラストで並んで居ます。

また、中野のシンボルの一つであった丸井本店のビルは跡形も無く、こちらも再開発の真っ最中です。

 中野は個性の少ない土地のように思われていますが、意外にも全国的に名の知られた人に関連するものが、残されているのです。その一つが、忠臣蔵の敵役となった吉良上野介義央のお墓が、東中野駅の北西にある功運寺にあります。

市谷にあった浅野家の菩提寺が大正時代に現在地に引っ越したときに、お墓も一緒に引っ越してきたようで、他に林芙美子、歌川豊国、水野十郎左衛門などのお墓があります。

 中野駅の南には、高村光太郎が使ったアトリエの遺構も残されています。北側に大きく窓を取った木造の建物で、現在もどなたかがお住まいになられているようですが、アトリエとして使われているかは解りません。

アトリエの南側は、桃園川緑道となっていますが、光太郎が使っていた頃は、現在のように暗渠化される前で、自然の川に庭が面していたと思われます。駅から、アトリエの残る一帯は、かつては「お屋敷町」と呼ばれ、道路から母屋が見られないような邸宅が残っていましたが、地上げのせいなのか、マンションが目立つ町並みに変化してしまったようです。20~30年前には、お屋敷町の需要に支えられていたのでしょうか、御用聞きに来る商店が残り、靴や傘の修理屋さんや市場が健在でしたがコンビニなどに取って代わられてしまいました。

 中野学校というとスパイの養成を行ったことで有名で、スパイというと暗号を思い浮かべます。中野学校の卒業生が活躍した頃の暗号は秘密鍵を用いるもので、鍵を盗まれてしまえば解読され、盗まれなくとも同じものを使っていると暗号化された文章の規則性から鍵を推定される恐れがあり、ほとんど敵方に解読されていたとも言われています。現在の暗号は、公開鍵暗号が多く使われていますが、これとて現状のコンピュータの能力では解読に時間がかかるに過ぎなく、絶対的な信頼性はありません。解決する技術として量子暗号が研究されていますが、この方式は原理的に安全な暗号方式と言われています。ただ、暗号によらなければ通信の秘密を守れないインターネットの方に問題があるようにも思いますが。