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万里の長城の西の端は、川の断崖の上で終わっていました(中国)

2009-03-22 22:06:48 | 世界遺産
ベトナム戦争による人間の破壊と、周りの自然によって壊れていく遺跡が痛々しいのがベトナムのミーソン聖域でしたが、北京郊外では立派な城壁が続いている万里の長城も、西のはずれの方は人間や自然の破壊によって、もとの砂山に戻りつつあるようです。以前に北京郊外の八達嶺長城周辺を紹介しましたが、今回は、その第二弾として、北京から遠く離れた長城の西の端周辺を紹介します。

 万里の長城は秦の始皇帝が北方からの外敵に備えて作ったものと言われていますが、現存する長城の大部分は14~17世紀の明代に作られたものです。明代長城は渤海湾に突き出した老龍頭を東の端にして、西は嘉峪関の南西にある長城第一とん(土へんに敦)で北大河の断崖の上で終わっています。

一方、長城の要所に作られた関所で最も西にあるものが嘉峪関ですが、長城第一とんとの間には民家の土塀のような長城の名残が砂漠の中に切れ切れに続いており、その向こうを西域に向かう列車が通り過ぎていきます。

 長城第一とんは、高さが4~5mほどの四角い土の塊があるだけで、表示が無ければそれとは解らないようなものです。近くには、リムのところから階段で降りて行く展望台があり、降りた後に明るいほうに歩いてゆくと、川の対岸が見えてきます。この展望台は崖の途中に張り出したもので、張り出した部分は一部がガラス張りではるか下の川原が見えます。ちょっとその上には立つ気はしませんが、もっと恐ろしげな施設がありました。対岸に渡るロープウェイです。滑車についたロープで人一人をぶら下げるだけの代物で、はたして稼動していたのかどうかもわかりません。

 最西端の関所であった嘉峪関は、200m四方ほどの土地を10m余りの城壁で囲み、東西の縄文の上には多層の楼閣を乗せた堂々たる遺構が残されています。内部には、関所として使われていた頃の歴史を説明する建物や資料が展示されていますが、建物群は復元されたものではないかと思います。城壁の上に上り、第一とんに伸びる長城の残骸を眺めると、そこには祁連山脈まで漠々たる砂漠が続いています。一方、城壁の内側には緑が茂り、そのコントラストは鮮烈です。城壁の内側は辺境の土地の荒海に浮かんだ箱舟だったのでしょうか。

 嘉峪関は、嘉峪関市の郊外にあるのですが、この嘉峪関市も砂漠の中に忽然と出現する都市で、それまでほとんど家屋の無い農村が比較的最近に都市となったようです。周辺の状況はアメリカのラスベガスに似ていますが、賭博でもうけている町とは違い、高い建物は少なく、未舗装の道路もあったりして、町中にも空き地が目立ちます。

 明代の長城の最西端より西にも、唐や漢の時代に作られた関所の跡が敦煌の西方にあります。玉門関と陽関の跡で、敦煌からすれ違う車も無い砂漠の中の道を、かなりの速度でとばして1時間以上も走ったところに忽然と現れます。玉門関の跡は5~6mもあろうかと思われる高さの四角な土の塊が、空から降ってきたように何も無い砂漠の中にあります。

一方の、陽関は「西のかた陽関を出れば故人なからん」と詠まれたところで、かつての中央政権の権力が及ぶ西の端だった関所跡です。関所跡には博物館が作られ、お土産屋までありますが、遺跡としては当時の烽火台跡の土の塊が小高い丘の上に残っているのみです。

 北京郊外の八達嶺長城は多くの観光客でにぎわっていますが、長城第一とんまで行くとさすがに訪れる人は少なく、遠くまで来たな~という実感が湧きます。さらに、玉門関や陽関まで足を伸ばすと、あたりは砂漠ばかりで、文明が及んだ限界だったと感じます。長安、現在の西安から1,800kmも離れた場所であっても権力が及ぶということは、通信の必要があったはずです。電気通信など無い頃ですから、文書を人や馬などで運んだのでしょうが、一日30kmとしても2ヶ月かかった勘定です。ただ、急を知らせる烽火は、意外と早く伝わったようで、1bitの情報量ではありますが、見える範囲を光の速度で伝送する光通信だったわけです。


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