世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

観光客であふれている長崎の新地中華街の奥にあるかつての色町の丸山地区では観光客は見かけませんが見どころがたくさんあります

2024-01-14 08:00:00 | 日本の町並み
 東京四宿の一つで日光街道の最初の宿場跡の千住には、色町をはじめ、いろんなゆかりのある場所がてんこ盛りでした。かつては江戸の場末だったのか小塚原の刑場跡まであります。この経常跡では、後に解体新書を執筆するきっかけとなった杉田玄白などの腑分け(解剖)の立ち合いがありました。江戸時代の西洋医学はオランダから長崎のみに入ってきたわけです、オランダが唯一の利権を得ていたのは、ずいぶんと黒い部分があったようですが、今回は入口の長崎の出島の山の手、それも千住宿の色町つながりで丸山界隈を紹介します。

 
 
 
 長崎は路面電車が健在で、その理由はいくら道路が渋滞していても軌道敷きには車を入れさせないからです。大都市で次々と路面電車が廃止されたのは、その逆で軌道敷きに車の乗り入れを認めて、電車が身動きできなくなったからです。長崎では、道路が混む時間でも、路面電車はすいすいと走るので、最も早くて便利で、地下に潜らなくて済む乗り物です。江戸時代にオランダからの入口となった出島は、この路面電車の新地中華街ですが、この電停を出島と反対側を中華街を右手に見ながら北東方向行くと丸山になります。銅座川沿いに行って路面電車の思案橋電停から南に延びる道とぶつかるところに丸山公園があります。公園の周りにはカステラの老舗の福砂屋本店があり見返り柳や変わった建物の交番が建っています。交番の横の路地を突き当たると料亭の花月で遊女屋の引田屋の名残です。

 
 
 
 
 花月の前の道を左右と鍵の手に曲がって上っていくと、梅園身代わり天満宮があり、境内には七力稲荷などの付属の神社や、天神さんにつきものの牛が寝そべっています。この牛の一つは撫で牛とと言われていて、さらに天神さんにつきものの梅にちなんで梅塚など狭いい境内にはいろいろな物が建っています。梅園身代わり天神はには逸話があり、ある日、賊に襲われた主人公が自邸に担ぎ込まれたが、傷一つなくて済んだのだが、自邸内の天神様が地を流し身代わりになっていたというものです。

 
 
 その先には小説の長崎ぶらぶら節の石碑もあり、上り切ったあたりに、中の茶屋があります。中の茶屋は、遊女屋の一つが江戸時代に建てた茶屋で、文化人のたまり場になっていたところだそうです。残念ながら江戸時代の建物は昭和46年に類焼で失われ、原罪の建物はその後の再建です。ただ、庭園は長崎品では寺院を除いては数少ない江戸時代駐機のものが残されています。

 
 
 坂を下っていくと寄合町で寄合町稲荷神社の玉泉神社があり、近くの祠には寄合町地蔵尊がひっそりと建っています。この地蔵尊は江戸時代に冤罪を晴らしてくれたというご利益のあるものだそうですが、なんとはなく地味な存在のようです。西に進むと江戸時代にオランダと並んで入国できた唐人の屋敷跡があり、北東に進むと中華街を経て、出発点の新地中華街の電停に戻ります。

 天満宮の境内には臥牛の像がつきものですが、そのいわれはいろいろあるようです。単純には菅原道真が丑年だったいうことですが、菅原道真を祭る北野天満宮は雷神を祭っていたいた場所で、後に道真と雷神が同一化されていきます。ヒンドゥー教の雷神にささげられていたのが白い牛であったことからという説もあります。道真はきわめて頭脳明晰な人物でしたが、その才能をねたんだ権力者の藤原氏に疎まれて失脚してしまいました。道真の場合は、権力者にとって都合が悪かったわけですが、日本ではすぐれた能力があっても、それに見合う待遇が受けられない悪平等がまかり十ているように思います。コンピュータをはじめ、先端分野の優れた技術者は、どんどん日本から逃げ出しかねない状況を憂います。