世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

現在の稲毛からは想像できませんが、多くの別荘などが建てられたということは白砂青松ののどかな場所だったのでしょう

2023-11-05 08:00:00 | 日本の町並み
 六甲山の伏流水が宮水として湧出する場所に五つもの酒造りの里が生まれたのが灘五郷でした。日本酒はコメを原料にしますが、これに水を加えて発酵させるので、加える水は重要だったわけです。一方、リンゴやブドウを原料とする果実酒は水は加えないで発酵させるので、水のよい場所は必須ではなく、よいリンゴやブドウが実る場所が醸造所を決めるキーになります。我が国のワインの産地は甲州の勝沼が有名ですが、牛久にも良質なワインの産地がり、牛久シャトーと呼ばれる素敵な建物もあります。前置きが長くなりましたが牛久シャトーは、このブログで紹介済みですので、今回はこの牛久シャトーを作った神谷伝兵衛の別荘があった稲毛周辺を紹介します。

 
 
 
 
 
 
 今回紹介するエリアは、JR総武線の稲毛から新検見川にかけての海岸より、行政区域としては千葉市の稲毛区と花見川区の一部ということになります。旧神谷伝兵衛別荘はJR稲下駅を下車して南に坂を下り千葉街道に出たら右折して200mほど、街道に面した高台にあり、現在は千葉市民ギャラリーとして公開されています。建物は大正年間に建てられ当時としては珍しかった鉄筋コンクリート製の洋館で国の登録文化財になっています。1階部分は洋室で、しゃれたシャンデリアやピロティーが素敵です。そして2階に上がると、ぐっと趣が変わって純和風の部屋が連なります。当時に建てられた洋館の中に和室を見かけることは多く、日本人として畳の部屋はくつろぎの世界だったん尾かもしれません。

 
 
 かつての稲毛は白砂青松だったのか、神谷伝兵衛の別荘だけでなく、西に5分ほどの場所にはラストエンペラーと知られる溥儀の弟である溥傑が新婚時代を過ごした家が千葉市ゆかりの家として公開されています。こちらのほうは、庭園が美しい純然たる日本家屋です。この家屋も、元は東京の水飴商静稀氏の別荘として建てられたものだそうです。

 
 
 ゆかりの家の手前には9世紀に創建されたという稲毛浅間神社ありますが、千葉街道の南に建つ一の鳥居はかつては海中に建っていたそうで、街道より南は海だったということになります。この海だったであろう処にある稲毛公園には、民間航空発祥の地があり、T字方の記念碑が建っています。そしてそのそばには、戦後まもなく川崎製鉄千葉で資材運搬に使われた蒸気機関車も展示されています。

 
 公園の西には千葉トヨペット本社の建物がありますが、とても自動車会社の建物とは思えません。それもそのはずで、明治後期に内幸町に建てられた旧日本勧業銀行の本社ビルの建物だからです。大正年間からあちこちに移築転用され昭和40年に現在地で千葉トヨペット本社ビルとして使われている、国の登録文化財です。

 
 
 
 そこから検見川方向へは、千葉市内とは思えないのどかな田舎道もあって、明治期に千寿寺と南蔵院都が合併した千蔵院やりっぱな門構えの農家が散在しています。やがて低層の戸建て住宅がたくさん立ち並ぶ台地のような地域を通り抜けることになりますが、その住宅街の中にぽっかりと草ぼうぼうの荒れ地があります。よく見ると、その雑草の中に廃墟状態のコンクリートの建物があって、これはかつての検見川送信所なのです。建物はかなり劣化していますが、大正末期のモダニズム建築で、策に囲まれて近寄れないのが残念です。検見川送信所は対外国との無線交信のために当時の逓信省が建てたものですが、戦後電電公社の管轄となった後、昭和54年に業務を終了した歴史を持っています。廃止から40年以上もなりますが、建物は千葉市による文化財調査などが行われているようですが、公開もされず廃墟状態なのは行政の怠慢のように思えます。

 民間工期発祥の地は、1912年にこの地にわが国で初めて練習飛行場が開設された場所ですが、ライト兄弟が初めてエンジン付きの飛行機を飛ばしてわずか9年後でした。当時の飛行機は主要区が二枚ある複葉機で、特にライトの飛行機は水平尾翼が前方にある、先尾翼軽視で、ライとは二枚の主翼の下のほうに腹ばいになり、飛行機をカーブさせるエルロンを持たない構造だったので、主翼をねじって曲がっていたのだそうです。現在の飛行機には主翼にエルロンと呼ばれ上下する小翼がついていて、車のハンドルのような操縦かんを左右に回すことで、飛行機を左右に傾けて曲がります。しかし、エアバス社の作る旅客機にはこの操縦かんはなく、サイドスティックと呼ばれる握り棒のようなものになり、これを前後左右に傾けて操縦します。この動きをコンピュータが読み取って、エルロンを動かすので、飛行機の操縦は名人芸ではなく安定に重きを置くようになりました。