世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

世界遺産に登録されたシルクロードは全行程のごく一部ですが昔の人は歩いて行き来したんですね(中国)

2019-08-11 08:00:00 | 世界遺産
 平城宮から続く寺々がが登録されているのが古都奈良の文化財でしたが。また、平城宮の造営より前の天皇家などの古墳が新たに登録されたのが百舌鳥・古市古墳群でした。平城宮は中国の都をコピーして作られ、当時の長安は東方世界の中心的存在でした。この長安とヨーロッパをつなぐ道がシルクロードで、中国、カザフスタン、キルギスの3か国に跨る部分が長安・天山回廊の交易路として世界遺産登録がなされていますが、シルクロード全体からはまだごく一部です。通常は、登録されたシルクロードの東の端は、洛陽ですが、文化的なつながりから日本の平城京とも言われています。シルクロードの登録拡大で、奈良の寺院群も追加されるかもしれません。

 世界遺産は数が増えすぎたこともあって、1つの国で新規に登録できるのは1年に1件(ただし、今年までは自然遺産1件と文化遺産1件の合計2件まで)という制約が決められました。この制約の中で、中国は他の文化遺産を登録したいためシルクロード遺産はキルギスに申請させ、登録結果だけはちゃっかりいただくという戦略に出たことで有名です。申請したキルギスには、たったの3か所、カザフスタンには8か所、そして中国には22か所と、中国のずるさは明らかです。ただ、今回は、中国の22か所の中から、筆者の訪問した3か所周辺を紹介します。

 登録の東の端の洛陽には後漢北魏洛陽城と隋唐洛陽城定鼎門の2件が登録されています。洛陽は2度も訪問しましたが、龍門石窟やボタンの花を観賞するだけで、この2つの遺産は訪問し損ねました、洛陽から西へ300kmほど、洛陽と並ぶかつての都の一つ西安(長安)には、宮殿跡が2か所、寺院が3か所登録されています。

 
 
 寺院3か所のうち2か所までの登録文化財は石塔で大雁塔と小雁塔です。どちらも8世紀に、当時の都であった長安に作られたもので、現存する唐時代のただ2つの建物です。小雁塔は、13層43mの高さで、上部に向かって、塔の太さがあまり変わらない現代のビルのような形をしています。中央当たりが少し膨らんでいて、池に移っている形は。なかなか美しくもあります。塔の頂上まで登ることもでき、もちろんエレベータなどはなく、石段を息を切れせて上ることになりますが、頂上から西安市街の眺めはなかなかです。

 
 
 一方の、大雁塔は7層64mの高さで、こちらは上部に向かって塔の太さが徐々に細くなっています。どっしりはしていますが、小雁塔に較べると繊細さに欠けるように思います。大雁塔は、玄奘が持ち帰って経典や仏像の収蔵庫として建てられたもので、当のそばには玄奘の像が立ち、玄奘の旅程を示すパネルもありました。こちらも、当の上に上ることができるようですが、筆者が訪れた時には四川省であった地震で傷んで修復工事をしていたために上れませんでした。

 
 西安はかつての長安で、日本から遣唐使で訪れた目的地でした。市内の公園には、遣唐使で訪れて、日本には帰ることができなかった阿倍仲麻呂の石碑があり、望郷の念を謳った歌が刻まれていました。また、長安は、実質的にシルクロードへの旅立ちの起点だったわけで、現在も残っている西安の市域を囲む城壁の西門は出発点であったわけで、門を出た先の公園にはシルクロード起点記念群像があります。

 
 
 西安から西には、天水市郊外の麦積山石窟群、漢中市の張騫の墓、蘭州の炳霊寺石窟群などがあり、敦煌の莫高窟まで続きますが、莫高窟は単独で世界遺産に登録されていて、重複の登録はありません。敦煌を取り巻く砂漠をさらに北西に90kmほど行くと玉門関があります。周りに何もない砂漠の中を1時間以上もひた走って目に入って来るのがポツンと四角な土の塊で、実はこれは関所の外壁で内部は壁に囲まれた空間になっているようです。ただ、周りには柵があって入ることができないので、Googleの航空写真でしか確認はできません。最初の関所は、紀元前1世紀ころの漢代に近くに土塁が残る漢代長城の西端に作られ、現存のものは唐代に再建されたものです。

 

 西域交通で北ルートを通ると玉門関を通って行きましたが、南ルートでは、世界遺産には登録されていませんが陽関を通ることになります。唐代の詩人の王維が詠んだ「西のかた陽関を出づれば故人無からん」が有名ですが、東大の中国の人にとって、陽関はとてつもない西の端だったわけです。陽関あとは、玉門関の南のやはり砂漠の中にポツンとあり、小高い丘の上に狼煙台と思われる遺跡が残るのみです。ただ、付近にはお土産屋や博物館も土器が建っていて、高額の入域料を徴収していて、やや興ざめの雰囲気です。

 玉門関や陽関に行くには砂漠の中に一筋に付けられた道路を走ることになります。砂漠と道路以外には何も無さそうで、途中での対向車もありません。こんなところで、エンジントラブルでも起こせば、命に係わりそうで、ちょっと不安です。携帯で連絡と言っても、基地局らしきアンテナは皆無ですから、たまたま通りかかるかもしれない、車を待つしかなさそうです。もちろん、地球上のどこでも通信のできる衛星携帯電話やイリジュウム携帯があれば連絡は可能でしょうが、乗り合わせたガイドの車にはそれらしき機材は見かけませんでした。ただ、玉門関や陽関が現役の頃には、通信手段など何も無い人々が歩いて往来をしたんですね。