世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

難産の末に世界遺産に登録された中尊寺ですが、そこには浄土の世界が広がっています(日本)

2019-01-27 08:00:00 | 世界遺産
 フィクションの世界では生き血をすする吸血鬼として描かれたドラキュラですが、モデルとなるツェペシュ公は外敵から祖国を守った英雄でした。ツェペシュ公のの生まれ故郷のシギショアラの歴史地区は、新市街に浮かんだ島のような古い街並みの残る素敵な世界遺産でした。ツェペシュ公にとっての外敵はトルコ軍でしたが、内乱の時代には国内にも外敵が存在するわけで、鎌倉幕府に対抗して滅ぼされたのが奥州藤原氏です。今回は三代に渡って繁栄を築いた奥州藤原氏の拠点であった平泉周辺を紹介します。

 平泉の世界遺産登録も富士山と同様に難産でした。2008年の世界遺産会議での登録を目指しましたが、その前年のICOMOSの視察などから登録延期を勧告されました。世界遺産会議では、その延期勧告を逆転できず、2011年に延期勧告などの内容で登録範囲や主題を変更してようやく登録になりました。政府が推薦をした候補の登録が延期になったのは平泉が最初で、暫定リストに候補として載っていた各自治体はショックだったようです。文化庁が各自治体に世界遺産候補を公募する呼びかけを2008年以降打ち切ったのも、この平泉ショックが原因ではないかと言われています。

 平泉町は、岩手県最南端の一関市の北側に接する人口8千人に満たない田んぼと山林の広がる町ですが、現在登録されている世界遺産のお寺や遺跡は、すべて平泉町の範囲にあります。登録エリアの拡大を目指していて、これが見てられると一関市や奥州市に指定エリアが広がるかもしれません。登録は6件の遺産からなりますが、今回は中尊寺、そして次回は毛越寺を中心に紹介します。

 
 中尊寺は、JR平泉駅の北北西2kmほど、歩くとちょっとかかりますが、世界遺産を回遊す「るんるんバス」という小型のバスが走っていて効率よく回ることができます。バスは中尊寺の参道の下で止まり、ここから月見坂と呼ばれるだらだら坂を1km近くも上ることになります。バス停の近くには弁慶の墓と言われる五輪塔と句碑があります。

 
 
 月見坂の途中には、いくつかのお堂があり、甘酒などを飲める茶店もあります。学生の頃に訪れた時には、さほどの坂には感じなかったのですが、運動不足のこの頃ではけっこうつらい。坂を上りきる手前の右手に明治時代に建てられた本堂があります。学生の頃に宿坊で泊まりましたが、このあたりだったのでしょうか。さらに進むと左手に讃衡蔵があり、ここで拝観受付をします。讃衡蔵は1955年に開館し、現在の建物は2000年に新築され山内の重文クラスの仏像を展示する収蔵庫です。さらに奥に進むと左手奥が金色堂で、現在はコンクリート製の鞘堂に収まっています。金色堂は戦後の文化財保護法による国宝指定の第1号で、もっと古い建造物がたくさんあるのになぜ?と思いました。これは金色堂が、同時に指定を受けた36件の国宝建造物の中で、最も北にあったためだそうです。金色堂は、思ったより小ぶりですが、金箔を初めありとあらゆる装飾が施されて存在感があります。この須弥壇の中に奥州藤原三代のミイラと頼朝にたてついて滅ぼされた四代泰衡の首級が納められています。

 
 
 
 金色堂は1962年までは木造の鞘堂に収まっていて、金色堂の解体修理の時に現在の状態になったようです。旧鞘堂は、金色堂の右手の奥まったところの経蔵の隣にに移築され、こちらも重文指定です。このあたりには芭蕉の「五月雨の降り残してやひかり堂」の句碑もあります。金色堂や旧鞘堂のあたりには釈迦堂や弁財天堂、阿弥陀堂などが木々の間に建ち、放生池のような池もあってお寺らしい景観です。そして最も奥まってところにあるのが白山神社で、近世の能舞台として東日本で唯一で重文指定の舞台があります。

 平泉は奥州藤原氏が4代にわたり、およそ70年という短い繁栄のあと寺院などの建造物だけを残して消滅してしまった都です。建物は残ったのですが、文献的な詳細資料は吾妻鏡くらいしか残されていないそうです。資料的な文献は大切に保存され、収蔵庫などに保管されるでしょうが、個人所有の本などの置き場には困ります。最近は、もっぱら図書館利用です。もらった資料などはスキャナで取り込んで電子化をしてますが、電子化で安心してしまって、その後はアクセスしていないですね。